翌日の午前中は休息と買い出しにあてた。残りの滞在日数を考えると、些か勿体ない気もしたが、無理は禁物と割り切ることにした。

 刺青の男、ラケシュと名乗った、が彼らの元を訪ねたのは、丁度昼をまわった頃だ。ユリアは開口一番、過日の非礼を詫びた。

「学者は嫌いだ。調査と言っては、我らの土地を踏み荒らす。これ以上、何を奪うつもりだ」

「私は学者ではありませんし、簒奪(さんだつ)するつもりももちろんありません。ですが、私の無遠慮な好奇心がそのように思わせてしまったのでしたら、お詫びいたします」

「ここで見聞きしたことをむやみに言いふらすな。特に一族の宿営地については絶対に漏らすな。それがガイドの条件だ」

 ユリアはしばしの沈黙の後、荷物の中から地図を取り出しラケシュに差し出した。

「わかりました。では、これを」

「何だ」

「この辺り一帯の地図です。これがなければ私たちは現在地を知ることが出来ません」

 ラケシュは無言でユリアの手から地図を持ち去った。

「何もそこまでする必要が」

 それまで二人のやりとりを見守っていたタリウスが眉を寄せた。

「彼の信頼を得るには、こちらの誠意を目に見える形で示したほうが良いと思いまして。万が一のときに、地の利がわからないのは些か不安ですが、どのみち砂漠の真ん中に放り出されれば、地図など無用の長物ですから」

 想定外の台詞にタリウスが絶句する。

「ごめんなさい、脅かすつもりでは。シェールくんがいる限り、その可能性は限りなく低いと思いますよ」

 ユリアが慌てて手を振った。その妙に必死な様子から、あながちないとも言いきれないのだとタリウスは悟った。用心するに越したことはないということだ。

「違います。そういうことが言いたかったわけではなくて」

「はい?」

「良いんですか。あの地図には今日までたくさんのことを書き留めていましたよね」

「かまいません。記録には残せなくても記憶には残せますもの」

 ユリアはこめかみの辺りを指差し、不敵に笑った。まるで小悪魔のようだとタリウスは思った。

「そろそろ出発する」

 ラケシュがしびれを切らせ、彼らは揃って宿を後にした。

 まず初めに、案内所の近くで旅の足となる馬を借りる手はずになっていたが、ここでまたもや一悶着あった。

「絶対ラクダが良い!とうさん、ラクダにしようよ」

「無理だ。ラクダになんぞ乗ったことがない」

「でも、タリウス。こんなチャンスは滅多にないですよ?」

「ユリアまで何を言い出すんだ」

 女こどもの勢いに押され、タリウスはたじたじのていである。

「砂漠の移動にはラクダのほうが向いているのではありませんか?」

「それは長距離移動のときの話だ。目的地はここからそう遠くない。馬でも問題なく行ける」

「聞いただろう。借りるのは馬だ」

 ラケシュの言葉にタリウスは内心救われる思いだった。

「でも…あ、わかった!多数決にすれば良いじゃん」

「名案ね」

「ダメだ。多数決なんてものは数の暴力だ」

 安心したのも束の間、タリウスはまたもや頭を抱えた。

「ああ見えてラクダは気性が荒い。もし振り落とされたら、背が高い分なかなか騎乗出来ない。ラクダを貸しても良いが、乗りこなせるようになるまで出発はしない」

「そんな暇はない。二人とも悪いが諦めてくれ」

 タリウスはピシャリと言い放った。流石にこれ以上は反論しようがない。シェールは不承不承口をつぐんだ。

「わかった。俺がラクダで行く。それで良いか」

 それでも未だ不満そうな態度を見せるシェールに、見かねたラケシュが言った。ともかく早く出発したいとのことだが、恐らくはそれだけではないのだろう。

「うん!」

 シェールが目を輝かせ、ユリアが微笑み、タリウスが吐息した。


 街を出てすぐにシェールは目を見張った。空の青と砂以外の景色が視界から消えたのだ。恐る恐る後ろを振り返ると、先程まで自分達のいた街もまた、砂色で出来ていたことに気付かされた。

「砂ばかりだな」

 どうやらすぐ後ろで馬を御している父もまた、同じことを思ったらしい。目の前には、地平線の彼方まで続く砂の山がそびえ立ち、視線を落とすと、ラケシュのラクダとユリアの馬の蹄の跡が続いている。シェールは何とも言えない不思議な感覚に陥った。

「何て言うか、すごいね。何もないけど、それがかえってすごいって思う」

「昔から、それこそエレインがこどもの頃から何一つ変わっていないんだろうな」

「そっか。そうだよね」

 母のことを想うと、心がじんと熱くなり、自然と涙が頬を伝った。決して悲しいわけではない。シェールは手の甲でそっと涙を拭った。

「大丈夫か」

「砂が入っただけ」

「そうか。擦るなよ」

 それきり父子は言葉を交わすことなく、思い思いに旅を楽しんだ。

 二三時間ほど進んだところで、俄に馬の歩みが鈍くなった。どうやら先頭を行くラケシュが速度を落としたようだった。

 しばらくすると、遠くに黒い点のようなものがいくつも見えた。

「ヒツジ?違う、ヤギだ!」

 久方ぶりに見る砂以外の景色に、シェールは些か興奮気味である。

「放牧をしているんじゃないのか」

「あんなにたくさん?!」

 シェールは目を丸くした。山羊たちはおもいおもいの場所に散らばり、砂地に生えた草を食べているが、見たところ人間らしき姿はない。 いるにしても一人ないし、ごく僅かな人数だろう。よくそれでああも大量の山羊を管理出来ると思った。

「ほら、そろそろ着きそうだ」

 その言葉通り、一行はほどなくして小さな集落に到着した。

 砂漠の真ん中に突如として現れたその空間は、まるで現実世界から隔絶され、人知れず息づいているようだった。

 風の音が殊更大きく聞こえた。

 建物はすべて干乾しレンガで出来ており、砂色の壁が真っ青な空や所々に生い茂った草木によく映えた。どの家にも装飾や着色がないため、少し前まで滞在していた都市と比べ、随分と質素な印象を受ける。

 ラケシュはラクダを繋ぎ、おもむろに荷物を下ろし始めた。すると、周囲の家々から子供たちが出てきては、荷のまわりを取り囲んだ。

 しばらくそんなやりとりをぼんやり眺めていたシェールだったが、タリウスに促され、おっかなびっくり馬から下りた。

 そこで、子供のひとりと目が合った。だが、シェールが近付こうとすると、子供はくるりと方向を変え、あっという間に走り去ってしまう。他の子供にしても、遠巻きにこちらを見てはいるものの、決して近寄っては来なかった。

「族長のところへ案内する。ただし族長は高齢だから、会えるかはわからないが」

 一通り荷下ろしが済んだところで、再びラケシュがこちらへやってきた。シェールはゴクンと唾を飲み込んだ。

「族長さんは、シェールくんのお母さんをご存知かしら」

「ど、どうかな…」

 ユリアはあまりにあっけらかんと今の心を代弁してくれた。その柔和な声に、するすると緊張が解けていくようだった。

「ともかく行ってみましょう」

 言うが早い、ユリアはシェールの手をとった。彼女の手はあたたかく、またやわらかかった。

 ラケシュは後ろにいる自分達には構うことなくずんずん進み、ひときわ大きな建物の前で止まった。

「ここで待て」

 そして、入口から何かを叫ぶとひとり奥へと消えていった。扉は開いているが、暗くて中の様子はわからなかった。

 ラケシュを待つ間、シェールは建物の様子を観察した。他の家とは違い、族長の家の壁には何やら模様らしきものが彫られていた。もしかしてと思い、石の袋と同じ模様を探したが見付からなかった。隣を伺うと、ユリアもまた熱心に壁を見ていた。

「族長は寝ている」

「へ?」

 いくら暮れが近いと言っても、未だ日没前である。

「今は会えない。また後で出直す」

「そんな…」

 ラケシュの台詞にシェールは大いに落胆した。流石に日付を越えて滞在できないことは、シェールにもわかった。

「それまでその辺りを一回りするか」

 しかし、続く台詞に今度は拍子抜けした。まさかそんなに短いスパンの話とは思わなかった。ユリアと手をつないだまま、シェールは父親を伺った。タリウスが無言で頷く。

「はい」

 シェールはラケシュに返事を返し、改めて周囲へ目を向けた。方々から痛いくらいに視線を感じた。だが、先程と同じくこちらが視線を返すと、皆一様に目を逸らし、後ずさったり家に入ったりした。

「私たちは少し離れますか」

 ユリアは父に向かって言った。

「しばらくラケシュ殿にお任せしてはどうでしょう」

「それは構わないが、シェール、ひとりで建物の中には入るな」

「え?あ、うん。わかった」

 行ってらっしゃい、そう言って、ユリアは自分から手を離した。どうやら大人たちは、自分達の存在が周囲の人々を遠ざけていると考えたようである。

 実際に彼らの推測は当たりだった。二人が去ると、子供たちはまず初めにラケシュに近付き、それから口々に何かを言った。対してラケシュが何事かを答えると、今度はシェールのまわりを取り囲んだ。

「えーと」

 子供たちは矢継ぎ早に話し掛けてくるが、シェールには何が何だかさっぱりわからない。だが、子供のひとりが腰のあたりに革の袋を下げているのを見て、ひらめいた。

「それ、僕も持ってるよ」

 シェールは自分の荷物から石の袋を取り出し、ほらと掲げた。ラケシュが訳すのを聞くまでもなく、子供たちは袋に向かってわーと手を伸ばした。

「え?ちょっと待って!ちょっと、やめてってば。返して!!」

 そして、あっという間にシェールから袋を奪い取り、我先にと中の石を掴み取った。

「やめてやめて!!」

 シェールは叫んだ。だが、子供たちはさも当然のごとく、奪った石を自分の袋にしまった。シェールは呆然とした。

「ウソでしょ…」

「石は天下の回りものだ。独り占めは出来ない」

「でも!」

ラケシュの無情な一言が追い討ちを掛ける。シェールが反論し掛けると、子供のひとりが自分の袋から石を取り出し、こちらに差し出した。

「え?何?!」

それを皮切りに、子供たちが一斉に自分の石を差し出してくる。

「気に入った石があれば自分のと交換出来る」

「そうなの?でも、あれは…」

「もちろん譲りたくないなら譲らなくても良い。あとは交渉して決める」

ラケシュは子供たちに向かって何かを言った。ややあって、子供たちは自分の袋から石を全て出し、シェールに見せた。ようやくシェールにもルールが理解出来た。

「えーと、僕の石はみんなママにもらったもので、大事なんだ。特にこの白い石は気に入っているから、これだけはダメ。交換できない」

 ラケシュがシェールの言葉を訳し、それを聞いた子供はあっさりと石を手放してくれた。シェールはほっとして、それから改めて他の子供の石を見た。

「これ、すごくキレイ」

 そうして色とりどりの石を見ているうちに、シェールはその中のひとつに心を奪われた。

「交換するか」

「え?どうしよう…」

 その石は淡い紫色で、太陽の光を受けキラキラと輝いていた。母から譲り受けた袋には入っていない種類だ。

 シェールは悩んだ。見れば見るほど紫の石が欲しくなるが、そのために母の形見とも言える石を手放して良いものか。

 だが、考えみれば、この石の交換システムが昔からあるとしたら、母の石も元は誰かから譲り受けたものということになる。

「交換したいです。この子に聞いてもらえますか」

 シェールはラケシュを介して初めての取引をした。相手の子供が承諾し、交渉が成立した。

 同じ要領で交渉を繰り返し、結果的にはもとの石の半分ほどが手元に返った。皆それぞれに大切な石はあるらしく、相手の子供のほうから交換を断られることもあった。

 不思議なことに、途中からラケシュの通訳は不要になった。言葉そのものは理解出来なくとも、相手の表情や声から、交換出来るかどうかは予測出来た上に、こちらの言いたいことは身振り手振りである程度は伝わるとわかった。


「シェールくん、楽しそうですね」

「ああ。あいつのああいうところは、時々羨ましくなる」

「誰とでもたちどころに仲良くなってしまいますものね」

 タリウスは思わず苦笑いを漏らした。人付き合いが苦手な自分にとって、社交的な息子が眩しく映る反面、その警戒心のなさは時として心配の種にもなった。

「大袈裟に聞こえるかもしれませんが、あいつを引き取った日から今日まで、とにかく死なせないよういつも気を配ってきました」

 言いながら、てっきりまたユリアに呆れられると思った。

「存じていますよ」

 ところが、予想に反して彼女は真顔で労いの言葉を掛けてくれた。

「それはもう、いろいろありましたもの。屋根から落っこちたり、事件に巻き込まれたり、はたまた家出をしてみたり。気の休まるときがありませんでしたよね」

 思えば、シェールと行動を共にするようになったのと、ユリアと知り合ったのはほぼ同時期である。毎日のように騒ぎを起こす自分たち父子を、彼女は常に隣から見守ってくれていたのだ。

「これまで、一方的に自分が守るほかないと思っていました。シェールのことも、それからユリア、あなたのことも」

 ユリアの瞳が大きく瞬く。

「それが今回の旅で、随分とおこがましい話だったとわかりました。勿論、今後も保護が必要な場面はあるでしょうが、だからといっていつもというわけではなくて。三人で支え合っていっても良いのかもしれないと思いました」

 今度は瞬きを忘れ、タリウスを凝視した。