ぷっつりと会話が途切れ、風の音だけが遠く聞こえる。西の空が赤く染まり始めた。
「ひとつだけよろしいですか」
沈黙を破ったのはユリアだった。
「今ですか?」
「こんなときに申し訳ないとは思いますが、今です」
断る選択肢はない。タリウスは吐息した。
「謝らなくてはいけないことが。出発前の話です」
「そのことならもう結構です。立ち入ったことを聞いたこちらに非があると思っています」
「いいえ、ただの八つ当たりです。図星だったものですから」
明らかにユリアの様子がおかしかった。出発前に諍いをしたときと同じく、彼女はまるで落ち着きがない。
「仰るとおり、私、怖くて。いつかお話しようとは思っていましたけど、でも…」
「無理に話してくれなくとも良い」
「面倒事は聞きたくありませんか」
「そういう意味では」
このままでは先日の二の舞である。
「聞かせてください。何を聞こうが、あなたはあなただ。そのことに変わりはない」
これまでに一体幾度、彼女の告白に驚かされただろう。数えてもいないが、それでも何を聞かされようと、否定的な感情をもったことは一度たりとてなかった。
「私、実は異国人なんです」
「は?」
彼女は一体何を言い出すのだろうか。
「我が家の残念な事情については以前にお話したと思いますが、あの話にはまだ続きが」
言葉の真意がわからず呆然としていると、そのまま置いてきぼりにされた。
「家を出たその足で、母の故郷に行きました。今のシェールくんと同じです」
「待ってください。たったひとりで異国に?」
「西域は貿易が盛んですから、言葉が話せれば簡単に船に乗れます」
めまいがするようだった。だが、恐らくこんなものは序の口に過ぎないのだろう。タリウスは黙って先を促した。
「その後こちらに戻って、それから、自国の国籍を捨てました」
「な、何だってそんなことを?」
「若気の至り、でしょうか」
「若気の至りって!」
そんな言葉で済まされるような話ではない。だが、いずれにしても覆水盆に返らずである。ここで彼女を責めたところで何も変わらない。
「つまり…」
「今の私は不法移民です。定職につかないのではなく、つけないんです」
タリウスは利き手で顔を覆った。自分から聞きたがった話ではあるが、心がついていかなかった。
「士官学校は統括の、と言うより父のコネですから、問題なく雇っていただいていますが、公的なところ、とりわけ王宮に上がるとなれば、徹底的に身元が洗われるかもしれません。もしそうなれば、ミゼットさんの顔に泥を塗ることになります」
「事情はわかりました」
タリウスはようやく平生に返った。
「聞きたくなかったですよね、こんな話。出来れば私も知られたくなかったのですが」
「他にはもうありませんか」
「え?」
他にも何も、目前の問題すら片付いていないというのに、一体何を言い出すのかとユリアは面食らった。
「この際、秘密や隠し事があるならまとめて聞いておきたい」
「いえ、特には…」
言いながら、ユリアの目が泳ぐのをタリウスは見逃さなかった。
「あるんですね」
「ええと、トリュアまで来たときの話ですが」
トリュアは彼らが合流した街の名前である。
「そう言えば、あんな時間にどうやってあそこまで来たんですか」
「ミゼットさんに、用立てていただきました」
「まさか軍馬で来たんですか」
「流石に明るみに出ると減給ものだと仰って、墓場まで持っていくよう言われました。ですから、どうか内密に」
「言えるわけがないですよね」
借りるほうも借りるほうだが、貸すほうも貸すほうである。
だが、これで合点がいった。
両家の子女であるユリアに乗馬の心得があったとて、驚くようなことではないが、それにしてもここ数年はご無沙汰の筈である。その割に、彼女の馬のあしらいが妙にうまいことをタリウスは訝しんでいたのだ。
「それはそうと、タリウス。良いんですか」
「今更とやかく言っても仕方がない」
「で、ですが、私、ある意味犯罪者ですよ?」
「ならば、責任をもって更生させるまでだ」
タリウスが微笑み、そんな彼を一目見て、ユリアが安堵のため息を吐いた。
「どのみち結婚したら、嫌でも異国人ではなくなる」
「え?!ああ、確かにそうですね」
ユリアは一瞬きょとんとし、それからしみじみと言った。そんな彼女の反応を見るにつけ、これまでそんなことを考えたこともなかったのだと思い至る。
純真無垢な瞳に真っ向から見つめ返され、咄嗟に抑えが効かなくなる。砂漠の黄昏(たそがれ)にこのままいっそすべて溶けてしまえば良い。柄にもなくそんなことを思ったのは、水平線に沈み行く太陽があまりに鮮烈だったからだ。
「とうさーん!おじさんが呼んでる」
そんな自分たちを息子が呼びに来たのは、それから間もなくである。
「族長さんが会ってくれるみたい」
シェールのまわりには、すっかり打ち解けた様子の子供たちが集まっていた。
彼らは居住いを正し、再度族長の家を訪ねた。
「お前たちはここで待て」
ラケシュはシェールだけを家の中に上げると、タリウスたちの入室を頑なに拒んだ。
「ひとりで行けるか」
「うん。でもとうさん、行っても良いの?」
シェールが不安げにこちらを窺う。
「ああ、行ってこい」
ラケシュのことを完全に信用したわけではない。だが、息子のことは誰より信頼している。
「入れ」
ラケシュに付いて家の中を進むと、大きめのソファのようなところに老婆がひとりもたれ掛かっているのが見えた。
「族長に挨拶を」
促されて、シェールは深々と頭を下げた。その後は何を言って良いかわからず、ひとまず自分の名前と、それから時間を作ってくれたことへの感謝を述べた。
「お前にくれるそうだ」
老婆はぶつぶつと一人言を言いながら、色鮮やかな箱の中から石を摘まんで、シェールのほうへ寄越した。石は黒色ですべすべしていた。シェールは礼を言って受け取り、それからハッとして自分の石の入った袋を老婆に差し出した。
「目上の者とは交換しない。貰うだけで良い」
ラケシュは言ったが、老婆は自分から袋を受けとり、逆さにしてすべての石を出した。老婆の目がその中のひとつに釘付けになる。視線を追うと、シェールが一番大事にしている白い石に注がれていた。
「そ、それは…」
咄嗟にそれだけはあげられないと言い掛けるが、思い直して後の言葉を飲み込んだ。族長は、突然訪ねてきた素性のよくわからない自分と会ってくれたのだ。
「昔、この石にそっくりな石を自分の娘にあげたそうだ」
「え?」
「お前に似ていたと言っている」
「ホントに…?」
シェールは驚いて目を見張った。その目から涙が溢れる。すると、しわがれた手がやさしく拭ってくれた。
老婆は皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにした。シェールは無性に嬉しくなって老婆の顔を覗き込んだ。だが次の瞬間、突然彼女の瞳から力が消えた。
「族長はお休みだ。石を片付けて引き上げろ」
シェールは大急ぎで袋に石をしまい、それから老婆の骨張った手にそっと触れた。胸が熱くなった。
「族長さんに、お母さんのことを聞けた?」
「ううん。でも、やさしいおばあちゃんだった」
本当は今あったことを二人に話したかったが、思い返すとあまりに現実離れしていて、すぐに話すことがためらわれた。それに、話したら最後、口から記憶が漏れていくようだった。
そんなことを考えていると、ラケシュが自分の横を足早に通り過ぎた。まるでもう用は終わったとばかりである。
「待って、おじさん」
「何だ」
「おじさんが案内してくれたお陰でここまで来られたし、おばあちゃん、族長さんにも会えた。だから、ありがとうございました」
「里帰りのついでだ。ここへ来られたのは、この二人の執念だろう」
ラケシュの言葉に、傍で聞いていた大人二人は、ぎょっとして顔を見合わせた。確かに昨日の自分たちは些か執念深いきらいがあったかもしれない。
「でも、ママは生きているとき、自分のことは何も話してくれなかったから、本当は僕がここに来るの、嫌だったかもしれないけど」
本当のことを言えば、常に心に引っ掛かりを感じていた。自分の欲求が充たされた今は、認めることが出来た。
「俺も俺の親も一族を捨てて都市へ出た。そのことが後ろめたくて、極力郷里の話はしない。お前の母親もそうかもしれない。でもそれは、決して故郷が嫌いだからじゃない。むしろ好きだからだ」
ラケシュはそう言って、口の端を僅かに上げた。そんな彼を見て、シェールは不思議な充足感をおぼえた。
了 2020.12.29 「石の記憶」
オマケへ