「今日の宿題は私の名前、サインの練習かね?」

「せ、せ、せ、せんせい?!いつの間に」

突然、背後から手元を覗き込まれ、シェールはすっとんきょうな声を上げた。小一時間前、確かにゼインは出掛けた筈である。すぐに戻るようなことは言っていたが、帰宅を知らせるような兆候は何もなかった筈だ。

「さっきからいたよ。集中していたようだから、邪魔してはいけないと思い静かにしたが」

「うそぉ」

全く気が付かなかった。人はこうも完璧に気配を消せるものなのだろうか。

「うそではないよ。それより、質問に答えなさい。サインの練習が宿題なのかい?なるほど、お手本は領収書か」

「違います、宿題は他にあります」

「では、何故私のサインの練習を」

「それは…」

シェールの目が泳ぐ。端から見ても困り果てているのがわかった。

「一応忠告しておくが、私に嘘をつくと大変なことになるよ」

依然として、シェールはだんまりである。

「では、質問を変えよう。これは?」

テーブルの上には、領収書とサインの練習帳の他に封書が一通乗っていた。

「あっ!」

シェールが手を出すより早く、ゼインによって封筒をかすめ取られてしまう。

「宛名は父上だね。名前しか書いていないところを見るに、君が預かったのだろう。この手紙と私のサインを練習していたことに何か関係が?」

「あ、あります」

嘘がつけない以上、だんまりを通すか、本当のことを言うしかない。声がうわずった。

「シェール。観念して説明したまえ」

ゼインはシェールの正面に移動した。ゼインに真っ向から見下ろされ、とてもではないが正視し続けられなかった。

「その手紙を初めは先生に見せるつもりでした」

「私に?」

「はい。とうさん宛だけど、今いないから」

タリウスは出張中で、その間シェールはいつもの如くミルズ邸に厄介になっていた。

「それで?」

「でも、これ、学校からもらったんですけど、たぶんあんまり良いことは書いてないから、先生には見せないで、自分でサインして戻そうとしました」

「驚いたな。よくそんなことを思い付いたね」

ゼインは、半ば感心したようだった。ついこの間までほんの子供だとばかり思っていたが、いつの間にか随分とずる賢いことを考えるようになったものだ。ゼインはため息をついて、シェールの向かいに腰を下ろした。

「シェール。言うまでもなく私のサインは私のものだ。勝手に君が書いて良いものではない。だいたいその手紙に何が書いてあるのか、君も定かではないのだろう」

「はい」

シェールにもまだいくらか良心が残っており、手紙は未開封だった。最後の最後に開けて、サインしようと思っていたのだ。

「そんな何が書いてあるのかわからないものに勝手にサインされては困る。君は私のサインを、見ましたの意味で書こうと思ったのだろうが、そもそもサインとはそういうものではない」

ゼインはそこで言葉を切って、シェールを見据えた。

「意思決定だ。しかも、一度書いたら取り消しが出来ない。後々言った言わないにならないために、わざわざ文字にして残しているんだ。ここまでいいかい?」

シェールが神妙な顔で頷くのを確認して、先を続ける。差し詰め授業である。

「これがもっと重大な書類で、私の意思に反することが書いてあったらどうなる?もちろん君が積極的にそんなことをするとは思わないよ。だが、そうとわからないようにそそのかされたり、脅されたりしたらどうだ。絶対しないと言い切れるのか」

「それは、その、わかりません」

そんなことは全く考えていなかった。

「随分と無責任なことを言ってくれるね。一歩間違えれば、私は破滅するというのに」

「破滅?!」

「君がしようとしたことは、それだけ恐ろしいことだ。父上が聞いたらさぞがっかりするだろう」

「とうさんには言わないで」

それだけは何としても避けたかった。事の顛末を聞いた父がどんな反応を示すのか、火を見るより明らかだ。

「どうして?」

「だって、怒られるから」

「なるほど、私は怒らないと」

「そういうわけじゃ…」

「そうだね、そういうわけにはいかない」

一瞬、空気がピリッとした。ゼインは一旦テーブルから離れ、引き出しから何かを取り出し、再びこちらに戻って来た。

「それはそうと、ここに君の名前を書いてくれないか」

そして、シェールの目の前に真新しい紙を置き、真ん中のあたりをコツコツと指で叩いた。

「どうした?私の名前ばかり書いていて、自分の名前を忘れてしまったのかい?」

「いえ…」

「ほら、このあたりだ。なるべく丁寧に書くと良い」

たった今、名前の重要性について説かれたばかりだ。釈然としないシェールを急き立て、強引にペンを握らせる。

「よかろう。今度は私の番だ」

不承不承名前を書き終えたシェールから、ゼインはペンをつまみ上げ、向かいの椅子に座った。そして、シェールのほうに紙を向けたまま、反対側から器用にペンを走らせていく。

「まずは、そうだな…『私はミルズ先生の言うことは何でも聞きます』と」

「えっ?!」

嫌な予感が的中した。シェールはゼインの手がスイスイと動くのを口をパクパクしながら見ていた。

「それから、『私はいつも良い子でいます。もし、そうでないときは、どんな…』」

「わ!いや、だめっ!」

シェールがゼインの手を止めようと必死に両手を伸ばした。

「だめ?君には言われたくないな。ほら、出来た」

小さな手を意図も簡単に振り払い、あっという間に続きを書き終える。

「ほら、初めから読んでごらん」

シェールは既に茫然自失である。言葉とは裏腹に強い調子で命じられ、ゼインの書いたメモに視線を落とした。末尾には自分のサイン。溜め息しか出てこなかった。

「シェール、君のことは大好きだが、私のせいで君が良からぬ人間になるのなら考えものだ。残念だが、君をお仕置きすることにした」

言われるまでもなく、サインの練習をゼインに見られたときから、こうなることは予想していた。ただ、他の人ならいざ知らず、ゼインは自分には怒らないのではないかという淡い期待もあった。

「先生、ごめんなさい。ひどいことを、しようとしました…」

「そうだね。さあシェール、来なさい」

先程のゼインの話を聞くにつけ、自分が悪いことは明白である。しかも、想像していたより、ずっとずっと悪いことだ。わかってはいるものの、身体が動かなかった。

「聞こえないのか」

これまで聞いたことのない冷たい声に、身体が凍り付いた。しかし、すぐにそんなことをしている場合ではないと悟り、鉛のように重い身体になんとか言うことを聞かせようとした。

「ぐずぐずしない!」

「ひっ!」

そんな努力もむなしく、早くもゼインの雷が落ちる。シェールは弾かれたように駆け出し、椅子に腰掛けたゼインの前でぴたりと止まった。恐る恐るゼインをうかがうと、膝へ上がるよう顎をしゃくられた。

本当は少しもそんなことをしたくないのに、なすがままゼインの膝に身体を預けた。手足が床から離れ、心もとない。一気に恐怖でいっぱいになった。

身体にひやっとした感触がして、お尻をむかれたのがわかる。一番嫌な瞬間である。

「やっ!」

それなりに覚悟を決めていた筈だが、のっけから声が漏れた。そして、そんなことはまるでお構いなしに、すぐさま次がやって来る。ひとまず今度は我慢出来たが、この次は無理かもしれない。シェールは漠然とそんなようなことを考えていた。

その間、ゼインは一言も発することなく、淡々と平手を与え続けた。周囲には、お尻を叩く甲高い音と時折漏れる呻き声以外何も聞こえなかった。

一体いつこの痛みから解放されるのだろう。そもそも自分の知っているやさしいゼインは、どこに行ってしまったのだろう。普段のゼインなら、自宅でやれば咎められるようなことをしでかしても、大して怒らず許してくれた。いつの間にかそれが当たり前と思うようになり、自分から一線を越えたのだ。

「ごめんなさい!」

後悔とお尻の痛みとがあいまって、シェールは叫んだ。しかし、ゼインはそんな自分には取り合わず、相変わらず無言でお仕置きを続行する。

頭の中がぐちゃぐちゃだった。ともかく自分に出来ることは反省することだけだ。シェールは呪文のように謝罪の言葉を繰り返した。謝っているうちに涙が溢れ、気付けば泣き喚いていた。

しばらくそうしていると、お仕置きする手が止まり、着衣を戻された。

「下りなさい」

そう言うゼインの声は未だ厳しく、それこそがお仕置きが終わっていないことを物語っていた。

「ごめんなさい。もうしません」

シェールはゼインの前に立ち、改めて謝罪の言葉を述べた。

「それを私に信じろと?」

「え…?」

言っている意味がわからず、シェールは反射的にゼインを見上げた。

「そもそも今回が初めてだとどうやって証明するつもりだ」

「どうやってって…」

「知らないようだから教えてあげるが、一度失った信頼を取り戻すのは簡単ではない」

「でも」

どう説明すればわかってもらえるのか、皆目見当もつかなかった。

「それとも、私は今日までずっと君に騙されていたのか」

「違います!本当に…」

「信じられるか」

ゼインはどこまでも不機嫌で、そんな彼を見ていたら再び涙がこぼれ落ちた。

「先生、ごめんなさい。どうしたら、信じてもらえますか」

「そんなことは自分で考えなさい」

ゼインはピシャリと言い放ち、席を立った。咄嗟に後を追おうとするが阻まれる。

「良いと言うまでここで反省していなさい。気を付けだ」

シェールの姿勢を直し、ゼインは早々に部屋から引き上げた。


     Noion