自室に戻り、ゼインはソファに身体を沈めた。言い様のない疲労感に襲われ身動きが取れなかった。訓練生を折檻することなど朝飯前だが、今日は相手が悪い。シェールを放ったらかしたままで悪いと思いつつ、彼は目を閉じた。

しばらくそのまま放心していると、玄関の呼び鈴がなった。突然の来訪者に心当たりはなかった。

「ただいま戻りました」

「ジョージア。随分と早かったな」

予想していなかった部下の帰還に、ゼインは心底安堵した。

「予定していた会議がなくなって、日程が繰り上がりました」

「ご苦労。しかし、こんなことなら、シェールのことは君に任せれば良かった」

「すみません、あの、何かありましたか?」

玄関に一歩踏み入れたときから、家の中の空気がおかしかった。妙に静まりかえっていて、いつもなら真っ先に出迎えてくれる息子の姿もない。

「何てことはない。シェールのオイタが過ぎたから、懲らしめていたところだ」

「それは、その、申し訳ありません」

「君が謝ることはない。私が預かっている間に起きたことだからね。それに、元はと言えば、彼を甘やかしすぎた私のせいだ」

「差し障りなければ、何をしでかしたのか、教えていただきたいのですが」

ゼインは一瞬思考した後、家の奥へと進んでいった。タリウスがそれに従う。悪戯の現場を見せられるのだろうか。

ゼインは一旦部屋の奥に消えると、某かを持って再びこちらに戻ってきた。そして、それらを両手に掲げた。

「私宛の手紙と、これは、先生のサインですか」

左手には自分宛の封書、右手には紙切れがある。よく見ると、紙切れには上官のサインらしきものが幾度も書きなぐってあった。

「これは今日、シェールが学校から持ち帰ったものだが、なんでも保護者が中を開けて確認のサインをしなければならないらしい。ところが、あいにく君は不在だ。そこで、彼はこの手紙を私に渡すべきだと考えた。しかし、良からぬことが書いてあるかもしれないと思い…」

「まさか、勝手に中を開けて、先生のサインを?」

「幸い未遂だったが、そのようだよ」

「先生、本当にすみません。あの馬鹿、何てことを…」

瞬時に身体が熱くなった。自分の不在の間に、よりにもよって、上官の私邸で何と言うことをしてくれたのだ。

「シェール!!」

反射的に息子の名を叫び、きびすを返す。

「待て、ジョージア」

息巻くタリウスの腕をゼインが掴む。

「たった今私が叱ったばかりだ」

「事が事です。先生に叱っていただいて、それで終わりと言うわけにはいきません」

「気持ちはわかるが、今君まで彼を責めたら、追い詰めてしまう」

「それの何がいけないんですか」

「何って、それではあまりに不憫だろう」

「不憫?先生はこんな仕打ちをされて、何故まだそんなことが言えるんですか。鬼のミルズは一体どこへ行ったんですか」

今のタリウスはまるでとりつく島がない。

「鬼は君にやっただろう」

ゼインが溜め息をつく。そして、掴んだ腕を解放した。

「確かに、シェールの教育に関して私が口を挟む筋合いはない」


まるで腸が煮えくり返るようだった。近頃、息子は知恵が回るようになった分、子供染みた悪戯をすることもなくなり、また真っ向から言い付けに背くこともなくなった。

その分、悪戯の内容も笑ってすまされる度合いを越すことも増えた。しかし、それにしてもここまで悪質なことは他に類を見ない。更に、こんなとんでもないことをしでかした息子を、上官は事もあろうか哀れんだのだ。そのことがタリウスの怒りをいっそう加速させた。

叱られたと言っても今頃はけろっとしているに違いない。息子に会ったら、思い切り叱りつけようと思った。上官の家であることも忘れ、タリウスは些か乱暴にダイニングの扉を開けた。

「シェ…」

だが、息子の顔を見た途端、早くも決心が鈍る。

「とうさん」

シェールは気を付けの姿勢のまま、顔を真っ赤にしてすすり泣いていた。必死に何かを堪えているのか、身体は強張り、小刻みに震えているのがわかった。そして、自分と目が合うと、その目から大粒の涙をこぼした。どんなにきつく叱ったところで、近年、こうなることはまずない。

「まったくなんてことをしてくれたんだ、お前は」

それ故、ひとまずそれだけ言うのに留めた。途端にシェールがこちら目掛けて痛いくらいにしがみついてくる。そして、父親に触れた瞬間、安心したのか、声を上げて泣いた。

鬼のミルズはどこへも行ってはいない。少なくとも数分前まではこの部屋にいたのだ。

上官に言われるまでもなく、この状況でシェールを叱責するのは酷というものだ。何より今の息子に何を言っても入らないだろう。

「シェール」

そこで、ひとまず息子をなだめることに専念する。震える背中をさすりながら、タリウスは何とも言えない気持ちになった。

「少し話せるか」

シェールが落ち着いたところで、静かに尋ねた。こくんとシェールが小さくうなずく。

「怖かっただろう、怒った先生は」

そして、今度は大きくうなずく。

「だが、どんなに先生に叱られようとも、今回ばかりは仕方がないと思うだろう。たくさん悪いことをしたんだ」

「たくさん…?」

「そうだ。勝手に俺宛の手紙を開けようとしたことも、先生のサインを盗んだことも、盗んサインで学校の先生を騙そうとしたこともみんな悪い。どれも悪いが、それよりもだ。こんな風にミルズ先生を裏切ったことが一番悪いと俺は思うよ」

「だからそんなつもりは…」

「もちろんそうだろう。だけど、小さい頃から惜しげもなく可愛がってきたお前に、こんなことをされて、先生がどんなおもいをされたと思う」

どうもこうもない。ゼインは自分に騙されたと言って怒り狂っていた。

「これは俺の想像だが、先生だって、お前を泣かすようなことを本当はしたくなかった筈だ」

言われて、お仕置きされる直前の会話が思い出される。ゼインは、自分のことを大好きだと言ってくれた。あれはそういうことだったのだろうか。

「ごめんなさい」

「先生に直接言ってきなさい」


「先生」

息子をゼインの私室の前まで送り届け、自分は下がるつもりだった。しかし、開け放たれたままになっている戸を見て、つい気になって廊下に身を潜めてしまった。

「ここで何をしている」

「へ?」

「私が良いと言うまで反省していろと言った筈だが」

しまった。途端に背中が寒くなる。タリウスは思わず二人の前に飛び出して行きそうになるが、ほんの一瞬躊躇した。その間に、シェールがきびすを返し戸口に向かって走ってくる。このままでは鉢合わせである。

「結構」

これでまたややっこしいことになると頭を抱えていると、ふいにゼインが息子を制した。

「父上に免じて、もう許してあげるよ」

背中から聞こえる声は、いつものやさしいゼインだった。それでも半信半疑で、シェールは恐る恐る後ろを振り返った。

「先生、ごめんなさい!僕は自分のことしか、考えてなくて。でも、先生を困らせるつもりは、本当に、本当にっ!」

感情が溢れてきて、言葉にならなかった。それでも、先程は怖くてまともに見られなかったゼインの目を今度は覗き込んだ。

「もう許すと言っただろう」

その目が困ったように自分を見た。

「君がそんなことをする人間でないことくらい、端からわかっている」

「で、でも、さっきは…」

「ああでも言わないと、こんなに反省できなかったんじゃないか」

「そんなぁ」

つい今しがたまで本気でゼインを怒らせたと思っていたのだ。安堵からまたしても涙が溢れた。

「こらこら、そんなに泣くものじゃない」

そうでなくともさんざっぱら泣かしてきたのだ。泣きわめくシェールをこれ以上見ていられず、ゼインはあたふたして、シェールの背を叩いた。

「こんなに泣かれたら、まるで私が悪いことをしているようだ」

「せんせいは、悪くない」

「わかっていただけて嬉しいよ」

シェールのいじらしい姿に、ゼインはクスリと笑った。

「君はもう良いよ。代わりに父上を呼んできてくれないか。どうせその辺にいるだろう」

一瞬、シェールの顔が曇る。

「大丈夫だ。君の悪口を言ったりはしない。ほら、帰る仕度をしてきなさい。ああ、おやつは持って帰って良いよ」


シェールと入れ違いに、すぐさま父親のほうもやって来た。思ったとおり、立ち聞きをしていたのだろう。

「諸々、申し訳ございませんでした」

ゼインがそのことを指摘する前に、タリウスは早々に頭を下げた。

「前から言おうと思っていたが、君はシェールのこととなるといつもの冷静さがどこかにいってしまうようだね。人間らしくて大変結構だが、シェールは賢い。そろそろぼろが出るかもしれないぞ」

言いながら、自分も全くもって人のことは言えないと思った。

「何てことが言いたかったわけではなくてだ」

「は?」

「開口一番、謝ってくるからてっきり叱られたいのかと思って付き合っただけだ」

「勘弁してください」

めまいがしてきた。

「そうだな。本当は仕事の話がしたかったんだが、今日はもうよそう。疲れた」

こんな上官を見るのは初めてだった。大方、シェールに振り回されたに違いない。

「君はよく毎日こんなことをしていられるな。尊敬するよ」

「慣れますよ、毎日やっていると」

「そうか?とにかく今日はもう無理だ。いろいろと聞きたいこともあったが、明日にしよう」

「わかりました。先生、この度は…」

「もう結構。私に謝るな。シェールに一生分謝られたんだ。これ以上、謝罪は聞きたくない。うんざりだ」

「はあ」

「それから、一応希望を言っておくが、出来たらもうこの件でシェールを責めないでやって欲しい。かなり反省していたようだから、恐らくもうしないだろう」

「わかりました」

もとよりそのつもりだった。タリウスはゼインの言うことに、全面的に賛同した。

「しかし、血は争えないとはよく言ったものだ。現に、シェールを育てているのは君だが、元はエレインの子だ。あの大胆さは絶対に母親譲りだと私は思う」

「先生、不謹慎かもしれませんが…」

「ああ?」

「今の言葉を聞いて、なんだかとても心が軽くなりました」

「それは何よりだ」


ミルズ邸からの帰り道、二人は会話を交わすことなく黙々と歩いていた。先程の件には触れないとして、他に無駄話をするような気分でもなかった。

「あーっ!」

だが、そろそろ家に帰り着く頃になって、突然シェールが奇声を上げた。

「忘れてた!」

「どうした?忘れ物か」

「忘れ物っていうか、何て言うか。先生に変な誓約書みたいなの書かされたんだけど」

「誓約書?何のことだ」

シェールは、先程ゼインに書かされた後出しの誓約書について説明した。

「先生は何と書いたんだ」

「えーと、『ミルズ先生の言うことは何でも聞きます。いつもイイコでいます。そうでなければ、どんなお仕置きでも受けます』だったと思う」

「くくく」

我慢しようと思ったが、堪えきれずに笑いが漏れた。

「とうさん!笑ってる場合じゃないんだって」

「シェール、はっきり言おう。とうさんにはどうにも出来ない」

「そんなあ。取り返してきてよ」

「無理だ」

「何で!」

「仕方ないだろう。先生に喧嘩を売った代償だ」

こればかりはどんなに駄々をこねられても、どうしようもない。しかし、まさか息子と二人同じような弱みを握られるとは思わなかった。タリウスは心底シェールに同情した。


 了 2019.12.30 「代償」