タリウスが遅い食事を済ませ再び自室へ戻ると、息子は既に眠りに就いていた。

「ほら、寝るならベッドへ入りなさい」

 シェールは泣き疲れて眠ってしまったらしく、お尻を出したまま掛け布団の上に転がっていた。

 手心は加えたつもりだ。しかし、腫れ上がり、所々赤黒く染まった尻を見るにつけ、いたたまれない気持ちになってくる。

「ほら、シェール」

「や!キライ!」

 そっとお尻をしまい、寝ている我が子を揺り動かすも、ピシャリとはねのけられてしまう。

「…だろうな」

 タリウスはひとりごち、それから子供をうつ伏せのままベッドへ入れた。


 翌朝の目覚めは、最悪というほかなかった。昨夜のお仕置きのせいで全身が怠く、動くのも億劫だ。

 お尻の痛みは、歩くだけできつかった昨日に比べ、いくらかマシにはなっているものの、回復にはまだ時間を要しそうだ。今日が学校のない日で良かった。そう思いながら、シェールは朝食に降りた。


 向かい合って食事を摂る親子には、笑顔もなければ会話もない。

 シェールは父親の様子を窺いながら、おっかなびっくり食事を口に運んた。ほんの少しでも食器が音を立てようものなら、身の縮むおもいがした。もっとも、よほどのマナー違反でもない限り、タリウスが食事中に息子を叱るようなことはない。それだけ今日のシェールは過敏になっているのだ。

「ご馳走さま」

 タリウスが先に食事を終え、席を立った。いつもならシェールが食事を済ませるまでの間、そのまま待っているのが常だが、流石に今日はいたたまれなくなったのだろう。

 父親の姿が見えなくなると、シェールはフォークを置き、深い溜め息を吐いた。何をどう食べたのか全く記憶になかった。


 窓の外は相変わらずの雨降りで、そうでなくとも冴えない気分が輪をかけて沈んでいった。重い足取りで自室へ帰るも、取り立ててすることもない。休みの日は、大概ふたりで出掛けるか、そうでないにしろ何だかんだ構ってもらっていた。

「どうした」

 期せずして、新聞を読む父と目が合った。

「出掛けないのかなって」

「この雨だからな。宿題は?」

「昨日やった」

「ほう、感心だな。それなら、午前中は部屋の中で出来ることをしていなさい」

 午後からは天気が回復するかもしれない。シェールがきちんと反省し、午前中一杯大人しくしていたのなら、その後はどこかへ連れ出しても良いと思った。

「出来ることって?」

「それは自分で考えなさい」

 そう言われたところで、すぐに思い付くものではない。しばらく考えた末、シェールは物入れから適当に絵本を抜き取り、膝へ広げた。新鮮さはないがそれなりに面白く、気付けばすっかり読書に興じていた。

 そのとき、どこからか虫の羽音が聞こえてきた。大した騒音ではないが、一旦気になり始めると不快なことこの上ない。シェールはたちまち集中力を削がれた。

 やがて父もそれに気付き、手で小虫を振り払った。父に追われた虫は再びシェールのほうへやって来た。当然のことながら、シェールも視界から虫を追い払う。そうした追い掛けっこが何周か繰り返され、ついには我慢ならなくなる。シェールは左手でクッションを掴み、小虫目掛けて降り下ろした。ところが、反動で手からクッションが離れてしまい、運悪く着地したのは父の新聞の上だった。

「こら!」

「ご、ごめんなさい」

 弾かれたように立ち上がり、目に入ったのは鬼のような形相をした父だった。

「昨日の今日だろう。何で大人しく出来ないんだ」

「だって、虫が…」

「昨日は雨で、今日は虫か。いい加減にしろ」

 たちまち昨夜の恐怖が甦ってくる。シェールはどうしたら良いかわからず、その場から動けなくなった。

「言った筈だ。ここにいる限り俺の決めたルールを守れ。それが出来ないと言うなら、かまわないからどこへなりと行け」

「そんなこと…」

 出来るわけがないと、もう充分わかっている。

「いや、いっそそうしろ。そうすればもううるさいことも言われないし、怒られることもない。みんなお前の好きに出来るぞ」

「でも」

「それとも、俺がいなければ何ひとつ出来ないか」

 ここで父の挑発に乗るのは賢明ではない。わかってはいたが、このときのシェールは、この場から逃げ出したい気持ちのほうが勝っていた。

「わかった。そうする」

「よし、お前に10分やる。その間に荷物をまとめて出ていけ」

 それだけあれば、息子が己の愚行に気が付くのに充分だろう。だいたい外は雨だ。行く当てもなく出掛けることなど億劫になって、玄関で引き返すに決まっている。タリウスは上気する息子を残し、部屋を後にした。

 ところが10分後、事態は思わぬほうへ転んだ。気付けば雨足が弱まり、もう傘なしでも外に出られるほどだ。

「おや、ぼっちゃん。お出掛けかい?」

 一人前に旅装した少年に女将が声を掛けた。

「おばちゃん、花瓶とか硝子とか、たくさん壊してごめんなさい。それから、今までどうもありがとう」

「は?」

「じゃあ、さようなら。元気でね」

 女将は、決死の覚悟で玄関から消える少年をあんぐりと口を開けて見送った。

「ほう、俺には何の挨拶もなしか」

「何だい、今度は勘当かい?」

 全くこの親子ときたら、毎日がドラマだ。女将は肩を竦めた。