「つまりは、お仕置きが効きすぎたってわけだ」
女将は事の顛末を聞くなり、そう言って笑った。
確かに彼女の言うように、シェールは某かの意志を持って家出をしたと言うより、怒れる自分に恐れをなして逃げ出したのだろう。わかっていても、そう言われてしまうと身も蓋もない。
「だけど、私にはあんたが特別厳しいとも思えないけどね。実際、うちの子どもたちなんか、一カ月誰もパドルをもらわないなんてことはなかった。まあ時代だと言われれば、それまでだけど」
女将はかつて、この家で三人の子どもを育て上げたそうで、躾にも相当厳しかったらしい。しかし、そんな彼女も店子であるシェールに対しては、基本的にやさしい女将を貫いている。
「どのみち、お腹がすいたら戻ってくるさ。そんなに心配しないで、たまの休みくらい休んだらどうだい」
心配しているとは一言も言っていないが、終始黙っていたことでそう思われたのかもしれない。
「そうですね」
いずれにせよ、今更騒ぎ立てるようなことでもない。完全に雨の上がった空を仰ぎ見て、タリウスは自室へと引き返した。
玄関を離れ、数歩歩いたところで涙が出てきた。シェールは咄嗟に後ろを振り返りそうになるのを鼻をすすって堪えた。
これまでにも何度か似たようなやり取りはあった。しかし、最終的に折れるのはいつも自分と決まっていた。父は完全に自分を見くびっている。ともかく王都にいる限り、父から離れることは出来ないだろう。ならばいっそ遠くへ行けば良い。そう心に決め、シェールは街道へと出た。
街道は乗り合い馬車の通り道にもなっており、行き交う人が多い。行く宛などないが、それを周囲に悟られてはいけない気がして、流れに身を任せとにかく歩いた。
最初の分岐点で、迷うことなく知っているほうの道を選んだ。そして、それは次の分岐点でも、そのまた次の分岐点でも同じだった。
そうして迎えた幾度めかの分岐点で、彼は見知った地名に行き当たった。
「とりあえず今日はママのとこかな」
これで遅まきながら目的地は決まった。しかし、ここから先は道標がなく、記憶を頼りに目標地点を目指す他ない。
そこで、シェールは以前父と共に故郷へやってきたときのことを思い返した。そして、そのとき父が分岐点ごとに目印となるものを教えてくれたことを思い出した。お陰で、さして迷うことなく目的地までの道程を歩き切ることが出来た。
故郷の看板を目にした瞬間、シェールは踊り出したい気分になった。問題は何ひとつ解決していないが、ともあれひとりでここまで来られたことが嬉しかった。
ところが、いざ街に入ると今度は言い様のない不安感に駆られた。
反対側から歩いて来た男が、自分を見るなり怪訝そうな顔をしたのだ。狭い町ではあるが、みんながみんな顔見知りというわけではない。そして、続いてすれ違った親子連れもまた、不審な視線を寄越してきた。
シェールは急に自分が余所者になった気がして、逃げるようにして街を進んだ。
「ママ」
周囲に誰もいないことを確認し、墓石の主をそっと呼んだ。ここにいる限りは安心だ。
そうして、一息ついた途端に空腹が襲ってきた。時刻を知るすべはないが、優に昼をまわっている筈だ。シェールは荷物の口を開け、中からお菓子を取り出した。
よくよく考えたら、うるさい父がいない今、道すがらいくらでも食べられた。だが、そうしなかったのは、きっとそこまでの余裕がなかったからだ。
ポリポリとビスケットを頬張りながら、何だか無性に淋しくなった。空腹は癒えたが心の中が寒々しい。
「はい、ママの分」
ふと思い付いて、墓石の前にビスケットを供えた。曲りなりにも墓参りにきたのだから、花のひとつも摘んでくれば良かった。シェールはぼんやりとそんなことを思った。
するとそのとき、背後から強い風が吹き抜けた。
「マ、ママ?!」
振り返ると、文字どおり草葉の陰から懐かしい顔が覗いていた。
「あら、見付かっちゃった?」
「何でそこにいるの?」
「何でって、ここママのベッド」
「えっと、そういうことじゃなくって」
母は驚いて目を見張る自分をそっちのけで、墓前のビスケットに手を伸ばした。
「そんなことより、シェール。あんた、ちゃんと良い子にしてる?」
「へ…」
シェールは固まった。どんなに脚色しようとも、今の自分は良い子には程遠い。
「ったく正直なんだから。もう、あんまりタリウスを心配させるんじゃないの」
「わかってるよ。わかってるけど、でもとうさんすぐ怒るし、怒ると信じらんないくらい怖いんだ」
「なら、初めから怒らせなきゃいい話でしょう」
もっともな返しにシェールが黙り込むと、ポリポリとビスケットを咀嚼する音が聞こえた。
「まあね、昔からタリウスはきついから、あんたが大変なのもわかるけど。それにしたって、怒るにも体力いるし、それだけ大事にしてもらってるってことでしょう」
「うん…」
確かに母の言うとおり、父は誰よりも自分のことをおもってくれているに違いない。もちろんシェールにしてもそれは同じである。ただ今ひとつ素直になれないだけだ。
「ねえママ、どうしたら…」
「そんなことママに聞くまでもないでしょう。ああ、そろそろ行かなきゃ」
「そんなママ!待ってよ!」
折角会えたというのに、まだいくらも話せていない。
「待たない」
「ママ!!」
「あんたの帰る場所はどこ?ここ?」
「違う。もう、ここじゃなっ…」
「わかっているなら、とっとと帰ってお父さんに怒られてらっしゃい」
「やっ!ママァ!」
「大丈夫。何とかなる」
そこで母の姿が遠退き、天地が大きく揺さぶられた。
「…シェール、大丈夫ですか?シェール!」
「ん…」
自分を呼ぶ声にシェールは重い瞼を開けた。全身が凝り固まったように痛んだ。
「良かった、気が付きましたか?」
「きょうふちょうさま!」
地べたに寝転んだ自分の傍らに、教父長が膝をついていた。
「一体何があったんですか?」
「えーと、ママと話してて、それから…」
「シェール、あなたはまたとんでもないところでお昼寝していましたね」
「あれ?僕、寝ちゃったんだっけ」
ということは、今のはすべて夢だったのか。シェールはごしごし目を擦り、周囲を見渡した。
「ない!」
「え?」
「ビスケットが、ない」
墓前に置いた筈のビスケットがそっくりなくなっていた。
「こんなところでおやつを食べるからです。ピクニックならもっと別のところで…」
「ママ、本当に食べてたんだ」
シェールは嬉しくなって、その場でぴょんぴょん跳ねた。
「…いたたた」
「大丈夫ですか?少し中で休んだらどうです」
「大丈夫です」
今のはただお尻の後遺症のことを忘れていただけだ。
「それより早く帰らないととうさんが心配するんで」
「あなたまさか、ひとりで来たのですか」
「はい!でももう用が済んだので帰ります」
自分は今日、母の言葉を聞くためにここまで来たのだ。そうだ。そういうことにしておこう。
「本当に大丈夫ですか?時期に暗くなりますよ」
「だったら尚のこと帰らなくちゃ」
そうでなくともいろいろと良くない行いをしたのだ。門限くらい守らなくては、それこそどうなるかわからない。たとえ、去り際に母の言った台詞が本当であったにしてもだ。
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