「ねえ、今日は早く帰って来れる?」
「さあ、どうだろうな」
気のない返事を返しつつ、手際良く上着の釦を留めていく。シェールは父の軍服姿が好きで、また密かに自慢でもあった。
「たまには早く帰って来てくれたっていいのに」
「努力はするが、約束は出来ない」
「そんなあ…」
しかし、こうも仕事が忙しいとなると、別にいつも着てなくとも良いかとも思う。
「話があるなら朝食のときにでもすれば良いだろう。それに、次の休みは一日空けるようにするから」
「次の休みって、夏至のこと?」
毎年夏至の日は祝日になり、どこの街でも大規模な祭が催される。この日にひとりにされないというのは前提条件である。
「それじゃ遅い」
「たった五日かそこらだろう。それが何故待てない?」
「だって」
「いいか、シェール。こんなことを言いたくはないが、俺が働かなければお前を学校にやることも、本を買ってやることも出来ないんだぞ」
「わかってるよ、それくらい」
言われなくても充分理解している。その上で考えがあったのだ。
「だったら聞き分けろ」
しかし、それを説明するにはあまりに時間がない。
「行ってくる。お前も遅刻しないようにちゃんと行けよ」
「はあい」
いってらっしゃい、凛とした背中を見送り、シェールはひとり溜め息をこぼした。
「夏至の日には、家族の人に贈り物をしましょう」
発端となったは、そんな教師のひとことだった。
元々夏至の日には、普段世話になっているひとへ贈り物をする風習がある。ただし、子供をターゲットにしたクリスマスとは異なり、こちらは大人たちだけでひっそりと行われる。それ故、大人の世界を垣間見るようなこの提案に、子供たちは大いに食いついた。
しかし、問題は贈り物の中味である。シェールは小遣いをもらっていない。欲しいものがあれば、その都度タリウスに相談し、それがすぐに叶うこともあれば、我慢を強いられることもあった。
また、彼にはミゼットに頼むという奥の手もあったが、子供ながらにこの方法が反則であるという認識はあり、おいそれと使うわけにはいかなかった。今回の場合も然りだ。
「ねえシェールくん。お金を掛けるだけがプレゼントとは限らないんじゃないかしら」
そんなときに、隣人、ユリアは良き相談相手となってくれた。
「必ずしもそれがものである必要もないと思う」
このことについては、つい先日彼女自身が実証済みである。
「本当に?」
「ええ。実際、シェールくんはよくお女将さんのお手伝いをするでしょう。あれだって一種の贈り物じゃない?喜んでくれているもの」
「おばちゃんに対してはそれでも良いけど、でもお兄ちゃんのお仕事はそうはいかない」
そもそも父の仕事は手の届かないところにある。時々仕事を持ち帰ることもあるが、邪魔をしないのが精々である。
「そうね、じゃあお手紙を書いたら?」
「お兄ちゃんに?何書けば良い?」
「それはシェールくんが考えることよ。難しい?」
「うん、かなり」
思うところはそれこそたくさんあるが、恥ずかしくて、照れくさくて、恐らく一文字も言葉にならないだろう。それきり彼らは沈黙した。
「絵でも、良いかな」
ふいにシェールの脳裏にあることが思い浮かんだ。
「ええもちろん。名案だわ」
今よりも小さかった頃、母に絵を描いてあげたところ殊の外喜んでくれたことがあった。あの頃よりか今のほうが、確実にうまく描ける自信もまたあった。
そうして後は実行に移すだけ、そう思われたが、意外にもこれが難航した。まっさらな紙をいくら眺めても、父の顔が出てこない。30分、せめて15分でも自分との時間を取ってくれたら、そうしたら見ながら描けるのに。
その願いは届かなかった。
真っ白な紙を前にシェールは今朝のことを思い出していた。あれでは本末転倒である。しかし、考えてみたら、自分だけが悪いわけでもないように思えた。
だいたい父はどうしてああ怒りっぽいのだろう。初めて会った頃はもう少しやさしかった筈だ。
苛立ち紛れに、シェールはペンを走らせる。
頭から伸びた二本の角に、口から飛び出た鋭い牙、つり上がった眉につり上がった目。大きな身体を包むのは漆黒のマントで、左手に鎖鎌、右手には鞭を持たせた。最後に、額に第三の目を入れて完成である。これでこの鬼は何でもお見通しというわけだ。
「うわ、こわー」
我ながらなかなかの迫力だと思った。空いた部分に自分の名前を書いて、ついでにおとうさんへと入れる。
こんなものを贈った日には、ここから叩き出されるだろうな。シェールはもう一度しげしげと鬼の絵を眺め、それから小さく折り畳んだ。
それから慌だしく毎日が過ぎ、明日はいよいよ夏至の日である。
「ただいま」
タリウスはいつものように小声で帰宅を知らせた。愛し子は今日も既に夢の中である。随分と不満が溜まっているようだが、どうにか明日一日は身体を空けた。そのことを多少なりとも評価してくれても罰は当たるまい。
「ん?」
彼は自分の枕元にキャンディーがふたつ置いてあるのを見付けた。首を傾げ、そのうちのひとつを摘みあげる。すると、キャンディーの下に手紙のようなものが敷いてあった。
幼い字で綴られていたのはたったひとこと。
「ありがとう、か」
口に出した途端、身体が熱を持った。彼はそれをごまかそうと口の中にキャンディーを放り込む。しかし、すぐにそれが逆効果だとわかる。喉が妬けるほどに甘ったるい。まるで今の心のようだった。
居ても立ってもいられず、シェールの側へ寄った。
そのとき、ベッドと壁の隙間に一瞬何かが光ったように見えた。手燭の光を壁に照らすと、なにやら紙が挟まっているようだった。
かつてこの場所からは、悪戯の成果物が発見されている。今日は目をつぶろう、そう思ったが、結局は好奇心に負けてしまう。
「なんだこれは」
小さく畳まれた紙から、不気味な鬼が睨み付けてくる。しかも、ご丁寧に自分宛である。
「そうか、お前にはこう見えていたのか」
くくく、彼は声を殺しひとしきり笑った。
一夜が明け、彼らは夏至の日を迎えた。
「おはよう」
「おはよ…」
シェールは上半身を起こし、眠い目をこする。お陰様で今朝の父は機嫌が良さそうである。
「昨日はありがとう」
「うん」
喜んでもらえて、本当は自分も嬉しいのだが、どうにも照れくさくてつい目が泳いだ。
「ちょ…ええっ!?」
すると、視界の端にとんでもないものが映った。
「なかなか上手だったから飾ることにした」
「うそ…」
どういうわけかあの鬼の絵が壁に貼られている。
「俺にくれたのだろう?」
「いや、そういうわけじゃ…」
「そうか。おとうさんとは誰のことだ?」
「そ、そこは合ってる。でもそうじゃなくって」
頭が回らないのは起き抜けのせいばかりではない。が、ともかくそういうことにしておこう。
「これは戒めだ」
「………良い子でいないとまたこうなっちゃうよってこと?」
「違う」
父は笑った。その様子は正におかしくてたまらないといったふうである。そんな姿を見るのは久しぶりだった。
「こうならないように気を付けようと思っただけだ」
「ふうん」
ともあれ喜んでくれたのなら何でも良いか。たで食う虫も好き好き、という奴である。
2011.6.29 "My Dear Dad" 了
パパと息子の季節ネタ。