「ゼイン!それ私のハンカチ」

 洗い上がった洗濯物を分けていると、ミゼットが飛んで来て自分の手からハンカチを奪い取った。

「何を言うんだ。どう見たってこれは私のだ」

 飾り気のない真っ白なそれはどこからどう見ても男物だった。

「違う。それは昔あなたにもらったものなの」

「私が?君にあげたと言うのか」

「それだとちょっと語弊があるけど、でも返さなくて良いって言って貸してもらったんだもの」

「全く記憶にない。それは本当に私か」

 そう問うとミゼットはむくれながら頷き返した。記憶には自信があると思っていただけに、なんだか口惜しい。寄る年波には敵わないか。

「あまり良い想い出ではないから、覚えてないなら無理に思い出さなくて良いわ」

 そこでミゼットはばつの悪そうな表情を見せた。



「誰だ」

 真っ暗な廊下を歩いていると、教官室の前に何者かが潜んでいる気配がした。

「せんせい」

「ミゼット?」

 一際高い特徴的な声にすぐさま人物を特定する。

「こんな寒いところで何をしているんだ」

「先生にお話があって、待っていました」

「ずっとここにいたのか」

「はい。どうしても今日中にお会いしたくて」

「それにしたって他を捜すなり、一旦戻って出直すなりあっただろう」

 冬の兵舎は隙間風だらけで極端に寒い。仮に夕食の後から待ち続けているとしたら、身体の芯まで凍り付いているだろう。

「まあ良い。ともかく中へ入りなさい」

 教官室の中も冷えきっていたが、それでも廊下よりかはまだいくらかマシだ。部屋に明りを灯し、続けて煖炉に火を入れる。一瞬、教え子にやらせようか考えたが、手がかじかんでいてとても使い物になりそうもなかった。

「で、一体何の用だ」

 椅子に腰を下ろし、ミゼットを見上げる。彼女はうなだれて自分から視線を逸した。

「ごめんなさい」

 コツコツと指で肘掛けを叩くと、ごく小さな声で謝罪が返される。

「理由も言わずただごめんなさいと言うだけで、あとは私に慮れと言うのか」

「すみません。昨日のこと、です。約束していたのに行かなくて、申し訳ありませんでした」

「ああ、そのことか」

 昨日は非番で特にすることもなかったため、その気があるなら剣をみてやると言ってあった。しかし、約束の時間になっても彼女が現われることはなかった。元より思い付きから生まれた提案だけに、さして気に留めてはなかった。

「昨日はどうしたんだね」

「つい失念してしまって、本当に…」

「済んだことだ。もう良い」

「でもっ!」

 明かりに照らされた彼女は涙にまみれていた。

「あれは単なる口約束で命令ではない。従って、君にも私にも一切の義務はない」

 つまり、当然彼女の行為は命令違反には当たらない。そう言いたかった。

「義務ではないということは、好意で言ってくださったってことなのに。それを無下にしてしまって…」

「ミゼット」

 子供のように泣きじゃくる教え子を前にどうしたものかと頭を掻く。ともかく彼女が心から悔いていることはよくわかった。恐らくもうずっとこの調子なのだろう。泣き腫らした少女を見るにつけ、頭のひとつもなでてやりたくなるが立場上そうもいかない。

「もう良いから泣くのをやめなさい」

「先生は、私を見限りますか」

 これはまた随分と自信をなくしたようだ。いつもなら、見限らないでくださいと懇願する局面である。

「そんなことは一概には言えない」

 ばっさりと斬り捨てると、大きな目からは更なる涙があふれ出した。

「ついうっかりも度重なればそれはもううっかりとは呼べない。たとえ一度きりのことであっても、初対面の人間であればそれこそが君の本質だと思うだろう。ひとの信頼を得るには時間がかかるが、失うのはずっと容易い」

「私…どうすれば…」

 この際だからと言いたいことを言った結果、より深い谷へ突き落してしまったようである。もう戻れまい。

「君は私に何を期待した?ここへ来て泣けば、多少なりとも罪悪感を減らせると思ったか」

 どんな些細なことであっても、命令違反を申告すれば罰を得ることが出来る。しかし、いつもそれに甘んじていてはむしろ成長出来ない。万策尽きた教え子は困り果て固まっていた。自分で追い込んでおいてなんだが、これ以上は見ていられない。

「ともかく涙を拭きなさい」

 一瞬の間の後、ほっそりとした指が目頭にあてがわれる。

「全く、ハンカチくらいいつも持ち歩きたまえ」

「すみません」

 何故こんなことまで、ぶつぶつ言いながら上着のポケットからハンカチを取り出す。きっちりと畳まれたそのハンカチを、彼女は遠慮がちに受け取った。

「もう下がりなさい。それは返しに来なくて良い」

 そんなところを他人に見咎められれば、それこそ厄介なことになり兼ねない。彼女が戸口で礼と謝罪を言い掛けるのを、良いから出て行けと追い払う。しかし、しおれた背中をそのまま見送ることはやはり出来ず・・・

「しゃんとしたまえ。元気だけが君の取り柄だろう」

「はい」

 結局は余計な一言を放ってしまうのだった。



「いずれにしても、随分物持ちが良いね」

 過去った歳月を鑑みるに、記憶と共にもはや化石と化していてもおかしくないと思った。

「たまたま整理をしていたら出て来たのよ。使っていたわけじゃないわ」

「なるほど」

「本当よっ」

 事実、使ったのはあの一度きりで、あとは後生大事にしまってあった。幾度かの引っ越しの折りにも、貴重品と同等な扱いで確実に運び出したのだ。自分にとって、消えない過去にするために。

 2011.3.20 「消せない過去」 了



 某レッスンの帰り途、むちゃくちゃ寒い商店街を歩きながら、ふと降ってきたネタ。罰せられないという罰は、結構しんどい。