「頭が痛い」
それが今朝一番シェールの言った台詞である。額に触れると確かに熱い。そこで、ひとまず朝の勤めを免除し、もう少しベッドにいるよう言った。
しばらく様子を見て一緒に食堂へ下りたが、いつもの半分もいかないうちにフォークを置いてしまう。どうやら本格的に体調を崩したようだった。
「すぐに戻るから、大人しく寝ていなさい」
再びシェールをベッドへ戻し、タリウスは宿屋を後にする。幸いにも仕事のほうは、後日夜勤を代わることを条件にすんなりと休むことが出来た。これもひとえに日頃の行いであろう。
「こら、シェール。何をしている」
女将に置き薬を分けてもらい、湯に溶いたものを手に自室へ戻る。すると、ベッドはもぬけの殻になっていた。朝はなかなか起きないくせに、寝ていても良いというとこれだ。
「んーと、いろいろ」
「今、お前のすべきことはただひとつ。寝ることだけだ」
出窓へ張り付いた子供の尻をぽんと叩く。
「ぶったぁ」
「いいな、警告はしたぞ」
どうしようもなく背中が気になって、仕方なくシェールは窓からベッドへと移動する。
「横になる前に薬を飲んでしまいなさい」
「やだ」
「やだじゃない。風邪が治らなければ、いつまでもベッドの上だぞ」
「それもやだ」
普段からシェールは健康そのもので、それ故医者にも薬にもあまり縁がない。端からすんなり飲んでくれるとは思わなかったが、これは予想以上に骨が折れそうだ。
「シェール」
子供に目線を合わせ、やさしく言葉を掛ける。しかし・・・
「やだもん」
両目からぽろぽろ涙をこぼし、嫌だ嫌だと繰り返す。熱のせいでいつもよりか思考が幼くなっているようだった。
「いくつになった?薬くらい、泣くようなことではないだろう?」
「だって、お薬苦い。飲みたくないんだもん」
「気持ちはわかるが、だからってじゃあ良いよというわけにもいかないんだ。きちんと薬を飲んで、早いところ元気になれ」
「うぅ…」
心配されているのはよくわかる。もちろん自分だって早く良くなりたい。だが、底の見えない深い色の煎じ薬を見るにつけ、どうにも決心がつかない。恐らく、この見るからに渋い外見に反して、これが実は物凄く甘い、といったようなことはまずなさそうである。そもそも弱った鼻孔をも刺激する独特な匂いは、正面から不味いと主張しているように思えてならない。
「ヤダ」
薬から目を背け、口をへの字に結ぶ。そんなシェールを見てタリウスは途方に暮れた。
「嫌なことは早く済ませたほうが良いだろう」
「でもやだ!」
シェールは頭を振って、裸足でベッドから飛び降りる。しかし、頭がクラクラして思うように歩けない。やっとのことで扉まで辿り着く。
「わかった、もう良い」
「へ?」
その声の冷たさにチクリと胸が痛む。文字通り、これで薬から解放されると喜んでいる場合ではない気がした。
「言うことが聞けないのならもうどうなろうと俺は知らない。何も言わない代わりに何もしない」
好きにしろ、最後にそう言い捨てて、タリウスは自分に背を向けた。てっきり追ってくるとばかり思っていただけに、シェールは大いに取り乱した。ともあれ、この気まずい空気を何とか打破しなくてはならない。よろよろとベッドへ戻り、向かいに座した兄を盗み見る。
「お兄ちゃん」
そっと呼んでみるものの、あからさまに目を逸らされ、ついでに無視を決め込まれた。こんなことになるとはまるで思わなかった。薬が飲みたくないのは半分で、残りの半分は甘えたかっただけだ。
「ねえお兄ちゃん。ちゃんとお薬飲むから、そんなに怒らないで」
「本当だな。後でやっぱり嫌だとか言うなよ」
タリウスは薬の入ったカップを手に取り、スプーンで撹拌してから子供に差し出す。しかし、小さな手は一向にそれを持とうとしない。
「飲ませて」
「はぃ?」
「ね、いいでしょう」
ダメだと言えばまた振り出しに戻る。しょうがないなと、言われたとおり薬をスプーンですくって口まで運んでやる。差し詰め、雛に餌をやる親鳥にでもなった心地がした。
「おいしくない」
「そりゃ薬だからな」
だからこそ一気に飲んでしまえば良いものを、全くもって理解に苦しむ。
「何でお薬はおいしくないんだろう」
「さあ。お前が大人になったら、おいしい薬でも考えたらどうだ?」
「そうする」
「ほら、これで最後だ」
最後の一口を与え終わり、ようやくお役ご免となる。
「水を飲むか」
「お水よりお菓子が良い」
「………わかったよ」
乞われるがまま今度は口の中へキャンディを放り込む。この数分間で、何だか妙に疲労した。これならば仕事をしているほうが何倍も楽だと思った。
「今日はお仕事行かないの?」
「ああ」
「どうして?」
「お前を見張るためだ。ほら、観念して寝なさい」
「せっかくお休みなのに」
生意気盛りな瞳にも今日は力がない。
「元気になったらまたあそんでやるから」
相変わらず、何のために休みを取ったか理解出来ていないシェールに、毛布を掛け直し、前髪をそっと撫でる。しばらくは不満げにしていた子供も、時期に目を閉じ、眠りへと落ちていった。
午後になり、徐々にシェールの熱が上がり始めた。ぐっしょりと汗を掻いた身体を拭き清め、着替えをさせる。意識が朦朧とし、時折うわ言を言うほどひどく熱に侵されていた。
ぬるくなった水を換えようと、水差しを持って部屋を出る。その間ものの数分である。
「シェール!寝てなきゃだめだろう」
階段を上りつめたところで、部屋の前を彷徨う子供が視界に入る。慌てて駆け寄り、腕を取った。
「だめぇ」
「ん?」
「行っちゃヤダ!お兄ちゃんじゃなきゃだめ」
どうやら良からぬ夢をみて、丁度目が覚めたところ自分がいなかったようだ。
「わかったわかった。ほら、兄ちゃんはここにいるだろう」
「うん」
「もう怖くない」
小さな背中を押して、部屋へと戻る。
「良い子だから、ベッドへ戻って」
「いやだ。目つぶるといろいろ出てくるんだもん」
「いろいろって?」
「目がいっぱいあるやつとか」
想像力がたくましいというのはなかなか難儀なものだ。そう思う一方で、珍しく気弱になった子供がいつもに増して愛おしい。
「心配しなくても、お前には兄ちゃんが付いている。ずっと傍にいるから」
シェールを抱き上げベッドへ寝かせる。
「ほんとにずうっと一緒にいてくれる?」
「ああ。ほら、これなら眠っていても迷子にならない」
タリウスは不安げに自分を見上げる子供の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫、すぐに良くなる」
熱が下がると共に、この甘えたがりの子供は姿を消し、年相応の生意気な少年に戻るだろう。それでも、やはり我が子には何はなくとも元気であって欲しい。
2011.3.7 「お薬騒動」 了
甘えっ子シェールとごく甘パパ。