真新しい軍服におろしたばかりの軍長靴、どちらもやっと少年の身体に馴染んできたと見える。言わずと知れた新兵である。
少年は小さな鍵を手に、キョロキョロと周囲を伺う。その姿は挙動不審そのものである。彼はそっと扉を開けると、抜き足差し足で室内へと忍び込んだ。高鳴る鼓動を抑え、ゆっくりと廊下を進む。額に汗が滲んだ。
「手をあげろ」
「わっ!!」
背後から聞こえた怒声に、心臓が止まるほどに驚いた。少年は反射的に両手をあげ、ゆっくりと背を振り返る。
「久しぶりだね、キール=ダルトン。少し見ないうちにこそ泥に成り下がるとは驚きだ。それもかつての師の家を狙うとは大胆不敵。どうせなら、もう少し他の局面でその大胆さを発揮してもらいたかったね」
「ち、違います!自分はただモリスン中佐の着替えを…」
「このうつけもの!よくもそんなふしだらなことを」
「だから違いますって!モリスン中佐に頼まれて着替えを取りに、ほら、このとおり鍵も預かってきました」
キールはポケットから鍵を取り出し、元教官に見せる。
「全くこんなことに部下を使うとは、呆れてものも言えない。貸せ」
「あ!」
ゼインはキールの手から自宅の鍵をひょいとかすめ取ってしまう。
「ここは私の家だ。彼女が何と言おうが勝手なことは許さない。とっとと出て行きたまえ」
「でも」
「出て行け!それから彼女に伝えろ。着替えくらい自分で取りに来い。もっとも、それが出来ればの話だがな」
元教官はまるで悪魔のような笑みを浮かべた。そんな伝言を預かれるわけがない。相手が悪過ぎる。キールは冷や汗を掻きながら、すごすごと元来た道を戻るのだった。
「何で手ぶらで戻って来るのよ!」
「申し訳ありません。まさかミルズ先生がいらっしゃるなんて思わなくて、びっくりして失神するところでした」
「いっそそうなれば良かったのよ。この役立たず。もう二度とあなたには頼まない」
是非ともそうしていただきたいものである。いきり立つ上官を前に、キールは心の底からそう願うのだった。
「もう結構。鍵を返して頂戴」
「えーと、大変申し上げにくいんですけど…」
「何よ」
「ミルズ先生に取り上げられてしまいまして、手元にないんです」
「何ですって!」
形の良い大きな瞳が自分を睨み付ける。こちらは鬼の形相である。
「あの家は先生のものだとおっしゃって…」
「確かにあの家はゼインのものよ。あの鍵だって元々はそう。だけど、今は私のよ。ええ、そうよ。誕生日にもらったんだもの。私のものよ」
そんなことを言われても、どうしようもない。ミゼットが一気に捲し立て、キールは思わず後ず去った。
「取り返して来て」
「そんな…」
「当たり前じゃない!託した書状をなくしたのと同じことよ。とっとと取り返していらっしゃい、今すぐ!」
「はい!」
悲しいかな、直属の上官に逆らえるわけがない。キールは泣きそうになりながらも、再び遣いに出た。
「ダルトン?そんなところで何をしている」
しばらく振りに訪れた兵舎は、自分の知るそれと少しも変わらない。入口付近でうろうろしていると、懐かしい声が自分を呼んだ。
「ジョージア先生!今日はその、上官のお使いで来ていて。ミルズ先生はいらっしゃいますか?いえ、お忙しいようなら出直します」
「丁度執務室にいらっしゃるが」
「そう、ですか…」
途端に教え子の声が尻つぼみになる。見れば、その顔はどことなく生気がない。
「どうした?」
「せんせいっ!」
声を掛けると、教え子はすがるような目を自分へ向けてきた。あらかたの事情を聞きながら、タリウスは苦笑いを漏らした。
「笑わないでくださいよ。私用に使われた挙げ句、何で痴話喧嘩に巻き込まれなきゃならないんですか」
「その点については、些か同情をおぼえる。だが、それにしたって悩むようなことではないだろう」
「悩みますよ、これじゃ板挟みだ」
「お前の上官はどちらだ」
「そりゃモリスン中佐ですけど」
「だったら、自ずと答えが出るだろう。ほら、取り次いでやるから来い」
言うが早い、タリウスはスタスタと歩き始めた。
「彼女の気が短いのは知っているだろう」
「はい」
ここでもまた逆らえない。キールはしぶしぶ従った。
散々歩き慣れた兵舎も、今日は周囲の反応がおかしいくらいに違う。候補生たちは皆、自分の姿を見ると、ぎょっとして道を開けた。
「ミルズ先生、本部から来客です」
「お通ししろ」
この期に及んで部屋の前でもたもたしていると、パシッと軽く尻をはたかれた。キールはつんどめるようにして、主任教官の執務室へ入室した。
「し、失礼します。モリスン中佐の遣いで参りました」
「用件は?」
「鍵を、返してください」
「断る」
そう来ると思った。キールは頭の中で、道すがら必死に考えた台詞をおさらいする。
「た、確かにあの鍵は元々ミルズ先生…ミルズ教官のものですが、でも、モリスン中佐は教官から譲り受けたとおっしゃっています。今はモリスン中佐のものです」
「だから?」
「だ、ですから、お返しください」
「君は私に指図しようと言うのか」
「そういうわけでは…」
これではまた同じことの繰り返しである。キールは両手を握り締め、視線を上げる。
「鍵を返してください。モリスン中佐のご命令なんです」
「ふん」
小さく笑い、ゼインがこちらへ向かって鍵を放る。
「とっとと帰れ。彼女は私よりも気が短い」
「先生、ありがとうございます」
「行け」
主任教官は、どこまでも不機嫌で、まるで取り付く島がない。キールは逃げるように部屋から辞した。
廊下には、既にタリウスの姿はなかった。あんなに苦手だった筈なのに、先ほどは彼のことが唯一の味方のように思えた。いや、事実味方だったのだと理解する。不思議な達成感を胸に、キールは住み慣れた古巣を後にした。
2011.2.5 「ジレンマ〜ある新兵の憂鬱〜」 了
最近、何故だか職場で「ふしだらな」という言葉が流行っています。なもんで、ゼインに言わせたかった、そんだけの話です。