「悪いが他をあたってくれ」

 今日だけで一体何度同じ台詞を聞いただろう。タリウスは溜め息を吐かずにはいられなかった。悔しいが、自分の選択が誤っていたと思わざるを得ない。

 そもそも子連れで宿を取るのがこうも大変だとは知らなかった。これまで木賃宿だろうがそこそこ値の張る宿屋だろうが、何の苦労もなく泊まれた上に、生業を理由に宿賃を値引いてくれることも珍しくなかった。それ故、宿の心配などしたことがなかった。

「お兄ちゃん!」

 玄関を出ると、戸外で待たせておいたシェールが駆け寄って来る。大人しく待っていてくれたのは良いが、この街で小さな弟と共存するのは、想像以上に困難なことなのかもしれない。

「昼にしようか」

「うん」

 それでも、もうこの手を離すわけにはいかない。彼は空を仰いだ。

 彼らは今、街の中心部からやや離れた通りを歩いている。前にタリウスが住んでいたときには、あまり足を踏み入れたことのない地域である。

「ん?」

 ふいに小さな手が自分を引っ張る。歩みを止めると、路上に出された小さな看板をシェールが見詰めていた。よく見ると定食屋兼宿屋のようである。

「ここが良いのか?」

 コクリとシェールがうなずく。そこで彼は弟を伴い、店内へと入る。

「いらっしゃい。おや、こりゃまた男前なお客さんだね」

 女将は、シェールを見るなり重そうな盆を抱えたままこちらに近付いて来る。そして、感嘆の声を上げ、目を細めた。

「あそこへお座り。おばちゃん自慢の庭がよく見えるからね。定食で良い?それとも飲むかい」

「いえ」

 もとより日の高いうちは飲まない主義である。ましてや今はそんな悠長なことをしている場合ではない。

 ほどなくして、定食が二皿運ばれてくる。内容はどちらも同じだが量は調節されている。ふたりで行動するようになって初めてのことである。

「ぼっちゃんにだけね」

 女将は囁き、小さな包みを一掴み寄越した。シェールはカラフルな菓子を前に顔をほころばせる。そんな弟を見て、何故だろう、若干心が軽くなる。

 女将に礼を言い、ついでに弟には食事が済んでからだと釘をさす。その後は、会話を交わすことなく食事を進めた。

「シェール」

 テーブルの上で食器が音を立てる。視線を上げると、弟が窓から身を乗り出し眺めていた。菓子までぺろりと食べ終えたようである。

「遊んで来て良いよ」

「でも」

「ここで見ているから」

 大丈夫だと言うと、弟はもう一度窓の外へ目をやり、くるりと踵を返した。

 弟を見送り、荷物から地図を取り出す。もうこの近辺の宿屋は殆どあたった。これ以上中心から離れれば、兵舎との行来に時間が掛かる。それもこれも自分ひとりなら何の問題もない。彼は窓の外に目をやり、またひとつ溜め息を吐いた。

「若いけど、息子さん?」

 唐突に背後から声を掛けられる。

「いえ」

 女将がお茶のおかわりを注いでくれる。

「ここへ来る前にいろいろとあって、孤児になってしまって。結局放っておけず私が面倒を見ることに」

「あんたひとりで?正気かい?」

「その、つもりですが」

 情に流されたわけではない、そう思ってはいるものの、やはりあのときの自分は正気の沙汰ではなかったのか。

「あんた、軍の人間だね。今時騎士道精神を地で行くなんて立派じゃないか」

「買いかぶりです。その実、今夜の寝床すら探せていません」

「確かに子連れは嫌がられるからね。それにしたって今夜一晩くらいどうにかなるだろう」

「まあ一晩なら。それでもそろそろ手を打たないと、時間切れだ」

 タリウスは壁に掛かった時計に目をやる。ぼやぼやしていたら、あっと言う間に日が暮れてしまいそうだった。

「昼間子供を置いて、働きに出たいと考えていましたが、土台無理だったようです」

「ああそういうこと。うちの二階、下宿になってるんだけど、なんなら使うかい?料金は朝夕ついて一泊こんなもんだけど、月極めならもっと負けるよ」

「待ってください」

 早々に交渉を始める女将をタリウスが制す。

「そんなに簡単に良いんですか?私が留守の間、子供が迷惑を掛けるかも知れません」

 つい先ほどまで、散々自分が言われてきたことである。

「こっちも商売だからね。あんたの言う迷惑とやらが度を越したら出て行ってもらう。だから、そこはもうあんたたち次第だよ」

 自分たち次第、頭の中で女将の言った台詞を反芻する。

「どんな事情があるのかは知らない。だけど、今となっちゃあんたしかあの子を守れないんだから、責任持って躾けな」

 なるほど、パンだけで子供は育たない。それを補うのは他ならぬ自分である。

「それにこっちもいろいろあってね。わりかし広い部屋を空けたままなんだよ。滅多な客には貸せないと思っていたから丁度良いね」

「それはどういう…」

 この手の話には大抵落とし穴がある。一体どんないわくがついているのやら。彼は身構えた。

「別に何も出やしないよ。ただ隣りを若いお嬢さんが使っててね。朗らかな良い娘なんだけど、いかんせん危機感がなくて。でも、あんたたちなら安心だ」

「そうですか」

 女性のひとり客もまた珍しい。この店が大々的に看板を出さない理由がわかったような気がした。

「見てのとおりうちはランチ営業もやってるから、いくらか余計に払ってくれるなら、ぼっちゃんの昼の世話もしたって良いよ」

「それは助かります。本当にとても。ですが、何故そこまで?」

「そりゃあんた、惚れちまったからだよ」

「は?」

 女将のうっとりとした瞳の先には、楽しそうに庭を散策する弟の姿がある。

「ありゃ絶対いい男になるね」

「はぁ」

 ともあれ弟のお陰で危機を脱したようである。思えば、最初にこの店に入ろうとしたのも弟だった。前途多難なのは間違えなさそうだが、シェールとふたりなら案外なんとかなるかもしれない。

「じゃあ交渉成立だね。ぼっちゃんおいで!裏庭ならまたいつだって遊べるよ」

 女将が窓からシェールを呼んだ。弟は何事かと自分の顔色を窺う。

「お前と住む家が決まった」

「ほんとう?」

「本当だ」

 嬉しそうに窓から顔を覗かせる弟に、思わず笑みがこぼれた。期待が確信に変わるまでに、そう時間は要しないだろう。


 了 2011.1.24 「序章」