ある午後のこと、予科生たちは半目で勉学に勤しんでいた。この日も朝から激しい訓練を
受けており、ろくに休んでいない。どの顔も眠たさが最高潮を迎えていた。

 そんな彼らを前に、教鞭を執っているのは、若き代用教員ユリア=シンフォリスティである。
その優美な立ち振る舞いと、やわらかな笑顔に、少年たちは皆羨望のまなざしを向けていた
が、 今となっては、彼女の話し声は子守歌にしか聞こえない。

 そのとき、廊下に響いた軍長靴の音に、一瞬にして彼らの意識が明瞭になる。だが、テイラ
ー=エヴァンズだけはその音が耳に届かないほど深い眠りに落ちていた。

「起きろ、テイラー。先生だ」

 親切な友人が後ろから小声で呼び掛ける。だが、未だ理性より眠さのほうが勝っているのか、
彼は一向に覚醒しない。こんなところを教官に見られたらどうなるか。恐らくテイラーひとりが怒
鳴られるだけでは済まされない。そう思ってオロオロしていると、突然ドカっという衝撃音がこだ
ました。

「ん?!」

 テイラーの夢が途切れる。あまりのことに、勢い付いて思わず椅子から立ち上がった。廊下を
歩いていた教官もまた、何事かと教室を覗いた。室内に緊張が走る。

「ミスター・エヴァンズ」

 そして、場違いなほど涼やかな声が静寂を破った。

「今の一節の中で、あなたが一番好きなところはどこですか」

「え…」

 今の今まで居眠りをしていたのだ。自分が何を問われているのかすらわからない。苦し紛れ
に視線を教科書に移すが、呪文のような異国語が並んでいるだけで、全くもってちんぷんかん
ぷんだった。

「三行目?それとも四行目かしら」

「さ…三行目…です。ミス・シンフォリスティ」

 穏やかな笑顔を前に自然と口が動く。

「結構です」

 彼女はテイラーを座らせ、黒板に向き直る。そして、サラサラと異国語を綴り始めた。思わず
溜め息が漏れるほど、美しい文字だった。

「では、彼が好きだと言った一文を書き写してください」

 少年たちは、一斉に視線を落とす。カリカリと板書する音が響いた。その様子に、教官は何
事もなかったように教室を後にした。


 授業の後、テイラーはすぐさま前へ進み出た。

「ミス・シンフォリスティ」

 何と言って良いかわからなかった。ピンチを救ってくれたことに対して礼を言うべきか、それ
とも居眠りを謝罪するほうが先だろうか。

「なにかしら」

「い、いえ、その。荷物をお持ちします」

 実際、荷物というほどのものは持っていない。だが、彼女は礼を言って、持っていた本の類
いをテイラーに渡した。

 ふたりは並んで廊下を歩いた。しかし、あれ以来声を掛けられないまま、結局教官室まで来
てしまった。普段自分からは滅多に立ち寄らない場所だけに、なんとなく落ち着かない。

「ここで結構よ。ありがとう」

「いえ、その…オレのほうこそ…」

「もし、気が向いたら」

 口ごもるテイラーを無視し、ユリアが口を開く。

「他の章も読んでみてね」

「は、はい」

 彼は自分を残し、ひとり部屋の奥へと入るユリアの背中をぽかんと見送った。


「お疲れ様」

 教材を置いて椅子へ腰掛けていると、背後から伸びた手がカップを置いた。

「ありがとうございます」

 湯気の立ったカップを手に振り返る。予想したとおりの顔がそこにはあった。タリウスである。

「一体どんな魔法を使ったんですか」

 午後のこの時間に、予科生全員がまともに授業を聞いているのは、ちょっとした奇跡だと思っ
た。

「それは内緒ですけど、でもヒントでしたら」

「ヒント?」

「教室へ行くことがあったら、哀れな教卓を見てやってくださいな」

「は?」

 それきりユリアはだんまりを決め込み、美味そうにお茶を啜っていた。
 それから時が流れ、この些細な出来事はあっという間に日常に忙殺されていった。

「これは何だ」

 その日、珍しくタリウスは教室にいた。休暇前ということもあり、兵舎のいたるところを点検
して回っていたのだ。

「それは…」

 彼と予科生の視線が交わった先には、ぽっかりと穴の空いた教卓がある。

「誰がやった」

「えーとですね…」

「答えろ」

 いかにも答えづらそうにする少年をねめつける。

「ミス・シンフォリスティが…なんというかその、蹴っ飛ばしまして。つい、うっかり」

 仲間を売るより良心が咎めたが、自分に火の粉が掛るのはたまらない。彼はすみませんと
腹の中で何度も若き教師に手を合わせた。

「いい加減なことを言うな。彼女がそんなことをするはずが…」

 品の良い、優美なユリアがすることとはとても思えなかった。普段物に当たることはおろか、
声 を荒げることすら滅多にしないのだ。

「いえ、でも本当に…」

 少年は動揺していたが、それでも嘘を吐いているようには見えなかった。そこへ、ぼんやりと
過ぎ去りし日の記憶が戻ってくる。あの日、眠りこける少年を前にした彼女は、自分に見つかる
前に盛大な音を立てて起こしにかかったのだ。

「わかった、もう良い」

 頭の中で、教卓を蹴り上げるユリアを想像しようとしたが、やはり出来なかった。


 了