ある日の夕暮れ時のことだ。兵舎からの帰り道、角を曲がれば宿屋というところで、タリウスの視界に見知った影が飛び込んできた。
「そんなところで何をしている」
「とうさん?!」
シェールは驚いて、勢い良く立ち上がった。そんな息子のすぐ近くには、もうひとつ、地面にしゃがみこむ影があった。
「お疲れさまです。今日は随分と早いお帰りですね」
「そんなこともないと思いますが…」
退っ引きならない事情があれば話は別だが、繁忙期ではない普段の日は、夕食前には帰宅するのが常である。
「それより、こんなところで二人して何を?」
「べ、別に何も」
シェールが慌てた様子で答える。見るからに不自然な様に、明らかに何かあったと直感する。
「ええ、お散歩をしていただけです。丁度そろそろ帰るところでした」
「え?でもまだ…」
「良いのよ。さあ、もう帰りましょう」
何事かを言い掛けるシェールを制し、ユリアはそそくさと宿へと向かった。シェールもまたそれに続いた。
二人して何か良からぬことをしていたに違いない。そう思い気にはなったが、ユリアがいる限りそうそう滅多なことにはならない筈だ。ふいに思い直し、タリウスはひとまず見なかったふりをした。
その夜、ユリアは気分が優れないと言って夕食に降りてこなかった。そんな彼女のことを心配しつつ、タリウスはそれとなく息子の様子を観察した。だが、特にこれといっていつもと変わったところはない。
「シェール。もし何か困ったことがあったら、いつでも力になる。遠慮しないで言いなさい」
「わかった。でもとりあえず、僕は大丈夫」
シェールは一瞬きょとんとしてこちらを見たが、すぐに口角を上げた。
「そうか。なら良い」
恐らく、息子の言葉に嘘はない。タリウスは安堵のため息を吐いた。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
そのとき、窓の外に一瞬灯りが揺れるのが見えた。何となく気になって下を覗くと、灯りはみるみるうちに遠ざかっていった。
タリウスはハッとして、部屋を後にした。
「ユリア」
思い立って隣室の扉を叩くが応答がない。
「失礼」
しびれを切らせ、中に押し入ると部屋はもぬけの殻だった。やはり思った通りだ。タリウスは階下へと向かい、それから閂の外れた扉を開けた。
宿から少し行ったところで、ぼんやりとした灯りが浮かび上がっていた。先程、妻子と行き逢った場所である。
灯りのすぐそばでうごめく影に、タリウスは無造作に手を伸ばした。
「きゃあぁぁあ!!」
ユリアが絶叫する。いつぞやの待ち伏せ事件の反省から、いざというときのために声を上げる特訓をしたとミゼット=ミルズから伝え聞いたが、それが早速功を成したようである。
「落ち着いてください。私です」
「タリウス?!どうして」
「それはこちらが聞きたい。一体何がどうしたんですか」
ユリアは答えない。それどころか、しゃがみこんだままその場を動こうとしなかった。
「シェールが何かご迷惑を?」
「違います。シェールくんは関係ありません」
「だが…」
「ごめんなさい!」
「ユリア?」
「本当に、本当に、ごめんなさい」
闇の中、彼女は声を震わせて泣いていた。
「怖がらせて申し訳なかった」
人目も憚らず泣きじゃくるユリアに、タリウスはひどく動揺した。ともあれ彼女を落ち着かせようとその場に膝を折り、そっと髪に触れた。
「違うんです」
「はい?」
「そうじゃなくて、わたし…」
ユリアが懸命に話そうとするものの、嗚咽に紛れてよく聞き取れない。
「大丈夫ですか?ともかく帰ろう」
「帰れません」
「どうして?」
「だって…」
ふいに、近隣の民家に明かりが灯るのが見えた。まずい。そう思った矢先、またひとつ明かりが増えた。
「やむを得ません」
タリウスはランタンを手繰り寄せ、腰に掛けた。
「え…?」
そして次の瞬間、ユリアの身体が宙に浮いた。
「えっ?!」
まさかの事態にユリアは驚愕した。
「騒がないでください。これではまるで、本当に誘拐している気分だ」
「誘拐って…」
タリウスはあわてふためくユリアを抱き抱え、暗がりをずんずん進んだ。
「そう思われたくなかったら、少し静かにしていてください」
ユリアは、この段になってようやく状況を理解したのか、急速に大人しくなった。そうして間近に聞こえた鼓動に、顔を赤らめた。
「何があったのか尋ねても?」
数分後、ユリアを居室へ戻したところで、タリウスは再び疑問を口にした。
「ごめんなさい。私、指輪をなくしてしまいました」
「指輪って、あの?」
思わず聞き返すと、ユリアは無言で肯定した。
「勘弁してくれ」
タリウスは唖然として、考えるより先に言葉が口をついて出た。まるで身体中の力が抜けていくようだった。
「ごめんなさい」
「ああ、いや、そういうことではなくて」
自分の言葉に責められたと感じたのだろう。ユリアはほろりと涙をこぼした。
「泣くようなことですか」
「だって」
ユリアは左手の薬指を恨めしそうに見やった。そこには、数日前にはめたばかりの小さな石が光っている筈だった。
「元々あの指輪は魔除けのつもりで贈りました。あなたの代わりに指輪が厄災を引き受けてくれたのだとしたら、それはそれで構わない」
石には、古来より持ち主を災いから守る力があると信じられている。それ故、石が割れたり、なくなったりすることは、殊更悪い兆候ではないとされていた。
「でも…」
涙に濡れた瞳が忙しなく瞬く。
「それでも諦めきれないと言うなら、明日一緒に捜します。その上で、見付からなければ、また代わりのものを差し上げます。心配しなくとも、そのくらいの甲斐性はありますよ」
「いいえ、それではあまりに申し訳ないです。それに、そういう問題では…」
「確かに、そういう問題ではない」
そこでタリウスは意図的に声音を変えた。
「はい?」
ユリアが身構える。それが何を示すのか、彼女は本能的にわかっている。
「指輪を失くしたのは、不可抗力でしょう。もとより責めるつもりはありません。ですが、仮病まで使って、こんな時間に無防備に指輪を探し歩くなど、正気の沙汰とは思えません」
ユリアはしゅんとなり、それから、ごめんなさいと言ってこちらを見上げてきた。
「時々あなたが子供に見えて仕方がない」
「だって」
自分でもそう思ったのか、言い掛けてユリアは目を伏せた。その姿が言いようのないほど愛おしかった。
「さて、悪いことをした娘は、どうなるんですか」
「それは…罰を…いただきます」
「あなたにはどんな罰が相応しいと?」
「そんな、タリウス。意地悪言わないで」
「いいえ。これは躾です。ユリア、来なさい」
真っ向からユリアを見詰め、あえて厳しく命じた。彼女は小さく返事を返し、ほんの少し躊躇った後で、自らスカートをたくし上げ、下着に手を掛けた。
彼女の躾を請け負うようになって随分経つが、これまで一度たりとてそんなことを命じたおぼえはない。それだけに、彼女が本心から悔いているのがわかった。
「良い心掛けです」
察するに、彼女が悔いているのは指輪を失くしたことだ。そう思ったら、このまま何もせず解放してやりたくなった。だが、それでは彼女の気が済まないだろう。
ユリアを膝に横たえ、程なくして最初の一打を見舞った。白いお尻にくっきりと指の跡が浮かび、同時にビクンと身体がはね上がる。想像していたより遥かに痛い筈だ。
「しっかり反省しなさい」
その後も、少しも力を緩めることなく、左右のお尻に平等に平手を落とした。その間、ユリアは身体を固くして、ひたすら痛みを享受した。その姿は、まるで痛みを噛み締めているようにも思えた。
「少しは懲りましたか」
どうにもいたたまれなくなり、タリウスはお仕置きする手を止めた。
「ごめんなさい、タリウス。わたし、どうしたら良いかわからなくて…」
「そういうときは聞いてください。ほら、ユリア。おいで」
ユリアを膝から下ろし、そっと抱き寄せると、彼女のほうから強く胸にしがみついてきた。そのまま黙って抱き締めていると、ぽつりとユリアが呟いた。
「本当は、お顔を見たときからずっとこうしたかったです」
「それならそうと言ってください」
全く素直じゃないなと、タリウスは苦笑した。
「また買ってあげるから」
「イヤよ。気に入っていたんだもの」
「わかった。捜すから、いい加減、泣き止みなさい」
「だって、お尻が…」
「指輪が不要なら、いっそ鞭でも贈りましょうか」
「け、結構です!」
ユリアはぎょっとして声を上げ、それから頬を上気させた。
了 2021.9.7 「指環」