「シェール!待ちなさい!」

 待てと言われて待つくらいなら、初めから逃げたりしまい。弟は息急き切って駆け出し、
一瞬にしてタリウスの視界から消えた。

 いかに油断していたとは言え、相手は子供である。本気になるまでもなく捕まえられそ
うなものだが、いかんせんすばしっこい。そして、更に厄介なことに、弟は障害物によじ
登ったり、狭い隙間を通り抜けたりとおよそ自分には予測できない動きをするのだ。

「さて、どうしたものか」

 タリウスは空を仰ぐ。腕白な弟が、この追いかけっこを楽しんでいるのは明らかだった。
 このままでは相手の思うつぼである。彼はしばし考えた後、弟が消えたのとは逆の方
向へ走り出した。

「捕まえた」

 流石に息が上がったとみえて、弟はぺたりと草むらに座っていた。

「何で?!」

 背後ばかりを気にしていたのだろう。正面からやってきた兄に、シェールはぎょっとした。

「さあな。あまり俺を舐めてもらっては困る」

 あの後、タリウスは弟の向かった先に検討を付け、回り道をして逆方向からやってきた
のだ。行き先さえ分かれば、こちらのものだった。

「さあ、追いかけっこはおしまい。今度はお仕置きの時間だ」

「そんなぁ。ここで?」

 弟は情けない声と共に、自分を見上げてくる。もう逃げられないと一応は観念したようだっ
た。 

「宿屋へ帰ったって良いが…」

 言いかけてはっとなる。自室へ戻ったらやらなくてはならないことがある。それに、道す
がらまたいつ追いかけっこの続きが始まるかもわからない。

「いいや、だめだ。立ちなさい」

 渋々立ち上がる弟を脇へ挟むようにして抱える。シェールは地を蹴って暴れたが、構わ
ずズボンに手を掛ける。

「全く、部屋の中では大人しくしていろと言っただろうが」

 大きな掌がピシャピシャとお尻を叩く。これが初めての注意ではない。怒るよりもむしろ
呆れた。

「それをお前は何をした?」

「逆立ちの、練習。もう少しで出来そうだったんだけど…」

 なんとも惜しそうなその声に、反省の色なしと判断する。

「そんなことは今聞いていない」

 タリウスは叩く手を強める。一方、本気でお尻の痛くなってきた弟は泣きわめきながら
結構な力で暴れた。

「その逆立ちの練習のせいで、水差しを割ったのだろう」

「ごめんなさい。でもわざとじゃないもん」

「わざとでなければ良いというものではない。あんな狭いところでそんなことをしたらどう
なるか。少し考えればわかるはずだ」

 まだまだ反省し足りない弟のお尻を、容赦なく赤く染め上げていく。

「ごめんなさいっ。ごめんなさい!もう、もうしないからぁ」

 先ほどまでとは違い、弟は必死に訴える。お尻がジンジンと痛む。痛過ぎて感覚がなく
なりそうなものだが、あいにくはっきりと痛みがあった。

「今日だけでいくつ悪いことをした?」 

「えーと、お部屋で逆立ちして、水差し壊して、それから…。あ、逃げた!」

「それが一番悪い!」

 パシン!と一際強く打つと、うぎゃあという叫び声が上がった。あとは、ひたすら泣き叫
ぶだけだ。

 毎度のことながら弟の涙には弱いタリウスである。叩く手を止めても未だなお声をあげて
泣くシェールを見ていられない。

「いいか、どんなに罰が怖くても逃げ出すなんて卑怯なことはするな。どの道叱られるんだ。
最初から潔くしなさい」

 ごめんなさい、と擦れた声を絞り出す。顔もお尻も真っ赤である。

「ではあと10回、逃げた分のお仕置きだ。素直に出来ないとどうなるか、よく覚えておきな
さい」

 とりあえず終わりは見えたが、まだ終わりではない。シェールは逃げ出したい気持ちで
いっぱいだったが、ここで兄を怒らすのは得策ではないと既に学んでいる。彼はお腹の
下に入れられた兄の腕に、ぎゅっと掴まった。

 パン!パン!と規則正しくきっちり10回、お尻に平手が降った。

「おしまいだ、シェール」

 後から後からやってくる痛みに耐えるので精いっぱいだった。それ故、いくつ打たれた
のか、数えている余裕はなかった。やさしくズボンを上げられて、お仕置きが終わったこ
とを知る。

「もういいよ」

 うわあっと泣きながら自分に抱きついてくる弟を、今度はなだめる。しばらく小さな背中
を擦っていると、やがて落ち着いたのか両手で涙を拭い始めた。

「帰るよ。まだすることがあるだろう?」

「お片付け?」

 確かに弟がしでかしたことの結果である。本来ならば自分で始末させるのが筋だったが、
割れた破片で怪我でもされたらたまらない。 

「それは良い。だが、あの水差しはそもそも誰のものだ?」

「おばちゃんの…。そっか、おばちゃんに謝らなきゃ」

 女将の性格からいって、こんなことで目くじらを立てることはないだろう。それでもやはり
けじめはつけさせなければならない。弟がすんなり理解したことに、タリウスは胸を撫で下
ろす。

「帰る」

 言ってタリウスの手を取る。

 兄の心配をよそに、宿屋へ辿り着くまでの間、シェールがその手から離れることはなかった。




 了