それは冬の終わりのこと。日中であっても日蔭は寒く、吹き付ける風は未だ冷たい。

「タリウス殿!」

 中央士官の敷地を歩いていると、背後から呼び止められた。自分をそう呼ぶのはひとり
しかいない。もっとも、その人物も兵舎の中では別の呼び方をするのが常である。よほど
焦っている証拠だろう。

「すみません、時計、持っていらっしゃいますか?」

「ああ、時計ならありますが」

 言って、彼はポケットから懐中時計を取り出す。

「申し訳ないのですが、貸していただけますか?私の動かなくなってしまって」

 見れば、ユリアの手にある古びた銀時計はぴたりと時を止めている。どうぞと彼は自分
の時計を差し出した。

「ありがとうございます!」 

 彼女はタリウスに礼を言い、時計を掴んで一目散に掛けて行く。そんな彼女を不審に思
い、彼は後を追った。

「10分46秒、47、48、49、50…」

 彼女は手にした時計を見ながら、声高らかに叫ぶ。視線の先には玉の汗で彼女の前を
駆け抜ける候補生たちの姿があった。どう見ても訓練中である。

「何故あなたがこんなことを?」

「私が知りたいです」

 サラリと言って、再び時計に視線を移す。そして、自分の前を通過する少年たちに向かっ
て先ほどと同じように時を告げる。そして、一団が通り過ぎると、彼女は深い溜め息をつい
た。

「ノーウッド先生がお風邪を召したとかで、寒いのは嫌だと仰って。ひとがいないらしくて、
カウントに私が借り出されているんです」

 私は何の先生でしたっけと、ユリアはぼやく。タリウスは自分が代ろうと言おうとして、もう
遅いと気付く。実際、それから間もなくして終了を告げる教官の声が聞こえた。

「いやぁ、ミス・シンフォリスティ。助かりました、どうもお疲れ様です」

 候補生たちを解散させ、ウィリイがこちらにやってくる。すみませんと言いながら、少しも
すまなそうにしていない。

「もう勘弁して下さいな。私だって寒いんです」

「申し訳ない。ですが、お陰で助かりました。これで主任にどやされなくて済む」

「はい?」

 ユリアの目が点になる。

「どういうことだ」

 聞き捨てならないとばかりにタリウスが口を挟む。

「いやぁ、例年に比べて予科生のタイムが悪くて、何とかしろと主任からせっつかれていた
んだよ。それで、この前たまたまミス・シンフォリスティにカウントを頼んだ時、妙に記録が
良かったから、もしやと思ってね」

 悪びれずに話すウィリイに、ふたりは揃って溜め息をこぼす。

「俺だって初めはふざけるなと思ったよ。だけど、今日タイムが上がらなかったら、俺自身
の身が危ない。そう思ったら、もう何でも良くなってきたんだよ。とにかく助かりました」

 言うだけ言うと、ウィリイは上機嫌でその場から立ち去った。大方、ゼインの元へ報告に
行ったのだろう。

「お役に立てて何よりですとでも、言うべきだったかしら…」

「さあ…」

 呆れるほかなかった。

「そう言えば、時計ありがとうございました」

「いえ。それにしても、あなたの時計は、随分と働き者のようだが」

 ユリアから時計を受け取りながら、先ほど目にしたユリアの銀時計を思い出した。

「もう、時計としての機能を果たすのは無理かもしれないですね」

 彼女は淋しそうに止まったままの時計を見つめる。確かに古いが、隅々まで見事な細工
が施されたその時計は、とても美しく、素人目にも高価な品だということが分かる。

「母の形見なんです。昔、父が贈ったものだとか。なかなか受難でして、捨てられそうになっ
たり、落としたり。そうそう、前に失くした時はシェールくんが見付けてくれたんですよ。それ
からです、彼と仲良くなったのは」

「そうでしたか」

 初耳である。そもそも、彼はいつユリアが弟と親しくなったのかすら、よく知らなかった。気
付いたときには、そこにいるのが当たり前のようになっていた。

「私が母を失くしたのも今のシェールくんくらいでしたけど、私はあんなに強くはなかったです
ねぇ。本当、不思議。彼は全然強がっている風がないんですもの」

「あいつはあいつで、たくさん荷物を抱えていますよ」

 時折、悪夢にうなさる弟の姿が思い出される。

「もちろんそうでしょうけど、でもわかったんです。彼は今、しあわせなんだって。自ら時を止
めた私とは違って、彼はきちんと今を生きている」

 ユリアはパチンと時計のふたを閉めた。


 了