「ねえ、お兄ちゃん。まだ?」

「もう少し」

 タリウスはシェールを連れ、山道を歩いていた。珍しくまとまった休みが取れたため、弟に
せがまれるまま少々遠出をしたのだ。そうは言っても、行き先をこの山と決めたのは兄であ
る。初めは元気に駆け回っていた弟も、昼前にはすっかり疲れ切り、先ほどから口にする
のは弱音ばかりである。

「お兄ちゃん…」

「まだだ」

 それから数分後、弟の台詞を皆まで聞かないうちに、彼はぴしゃりとはね付ける。言いな
がら、小さな弟にはまだ少し早かったかと思い始める。そして、帰りは大荷物になるかもしれ
ないと、ひとり覚悟を決めるのだった。

「わかった。この先に泉があるから少し休もう」

 考えてみれば、少しも急ぐ旅ではない。ぐったりした弟の手を取り、あと少し頑張れと励ます。

「もう無理。動けない」

「しょうがないな。俺が水を汲んでくる間、ここで待っていられるか」

「うん。そうする」

 座り込む弟を前にして、タリウスは一抹の不安をおぼえる。こんなところで迷子になられた
らそれこそ命取りだ。

「いいか、ここを動くんじゃないぞ。もし勝手な真似をしたら、本当にもう知らないからな」

 ここから泉まではさして遠くない。それにこれだけ疲弊しているんだ、まず大丈夫だと思った。

 彼はシェールをその場に残し、歩く速度を上げた。

 ひとりになって初めて、前にここへ来た ときのこと思い出した。当時は景色を楽しむどこ
ろではなく、ただひたすら前に進むことだけを考えた。思い出すのは、熱き想いと汗の匂
いばかり。

 まさか子連れでここを訪れる日がくるとは、あの頃の自分は想像すら出来なかっただろう。

 冷たい泉に手を浸し、束の間の涼を得る。そして、ぬるくなった水を捨て、新たに水筒に
詰める。昔の想い出を胸に、来た道を折り返すと、心臓が止まるほどに痛んだ。

「シェール?」

 恐れていたことが現実になった。昨日も今日も、そしてつい今しがたも、絶対に勝手な行
動を取るなと散々言い聞かせたというのに、ものの見事に弟の姿がなくなっていた。弟に腹
を立て、腹の中でそれ以上にひどく自分を罵る。

 目を離したのは精々十分、そんなに遠くへ行けるわけがない。そう自分に言い聞かせ、と
もかく弟の痕跡を捜した。結果、滅多にひとが来ないとあって、新しく踏み荒らされた草むら
を容易に捜し当てることが出来た。折れた枝、破られた蜘蛛の巣、どんな小さな異変も見逃
さなかった。

 そして、見付けた。

「シェール」

 至って冷静に、だが鋭くその名を呼んだ。

「お兄ちゃん」

 弟はきょとんとして自分を振り返った。その様子から、弟は自分のしでかしたことをまる
でわかっていないと理解した。

「俺は何と言って水を汲みにいった?」

「ここを…動くなって」

 ようやく自分のとった行動の意味に気付いたのだろう。弟は青ざめ、自然と瞬きの回数
が増える。

「それが出来なければどうすると言った?」

「ごめんなさい」

「答えろ」

「もう…知らないって」

 言いながら、弟は今にも泣きそうだった。だが、泣かせてやるつもりはなかった。

「わかっててやったんだ。仕方ないな」

 弟に向かって水筒を放る。ためらいながらも、弟はどうにかそれを受け取った。タリウス
は弟を一瞥し、ひとり歩き出した。慌ててシェールが後を追うが、構わずずんずん進んだ。

 それからはただの一度も振り返ることなく、一言も発することなく、先を急いだ。

 シェールは内心泣きたいおもいでいっぱいだったが、そんなことをしている場合ではない
ことは明白だった。どうにか涙を引っ込め、懸命に兄の背を追った。いつもなら手を貸して
くれそうな岩場も、小さな川もみんな自力で越えた。

 一方、タリウスのほうは、振り返りこそしないものの、絶えず後ろに気を配っていた。それ
故、弟が転んだのも、ひとりで這い上がったのも、すべて把握していた。そして、要所要所
で弟が追い付くのをそれと悟られないようにして待った。

「着いたよ」

「え…?」

 気付けば兄との間合いが詰まっていた。

「頂上だ」

 顔を上げると、眼下には息を呑むような景色が広がっていた。街全体がぎゅっと凝縮され、
青い空をバックにキラキラと輝いているようだった。

「あの辺りから来たんだ」

「うそぉ。あんなに小さい」

 ぽかんと口を開けたまま景色に見入っていると、大きな手がぽんと頭に置かれた。

「よく頑張ったな」

 自分を見降ろす兄を信じられないおもいで眺めた。

「その気になれば出来るじゃないか」

 認めてもらえるのが嬉しい反面、それまで弱音を吐き、甘えてばかりいた自分が情けない。
何より身勝手な自分をひどく恥じた。

「約束破ってごめんなさい」

 折角褒めてもらっているのだから、出来ればしばらくこのままでいたかったが、彼の良心が
それを拒んだ。

「勝手なことしたし、いっぱい心配掛けた…」

「何でもひとりで出来るなら、自分で責任が取れるというなら、もう俺は何も言わない。だけど
そうでないなら、きちんと我慢出来る子になりなさい」

「はい」

「もし俺がしてはいけないと言うことが納得出来ないのであれば、そのときに言いなさい。良
いな」

「はい、お兄ちゃん」

 こればかりは、百の言葉より実践ありきだと思った。自分の限界を知り、世の中の恐ろしさ
を体感しなければ、いつまでも弟の無鉄砲なところは変わらないだろう。

「あっ」

 そのとき一匹のトンボが目の前をかすめた。シェールがそれを追おうとして、寸でのところ
で思い止どまる。

「まさかお前、トンボを追って…」

「ごめんなさい!ちょっとのつもりだったんだ」

 必死に弁明と謝罪を繰り返す弟をシッと黙らせる。タリウスは弟の口に当てた人指し指を
今度はそっとトンボに向ける。くるくると小さな円を描きながら、徐々にトンボへ近付く。

「今なら採れるぞ」

 シェールは促されるまま、おっかなびっくり手を伸ばす。手にしたトンボをしげしげと見詰め、
ひとしきりしてもといた枝に返した。

「すごい。どうして?」

「目を回して、一時的に動けなくなったんだ」

「へぇ」

 先ほど、一瞬弟の横顔をたくましいと感じたのは単なる思い過ごしか。そう思ってしまうほ
ど、目の前の少年は幼かった。