「ファルコン、お前も今帰りか」
その日は、珍しく昼過ぎには仕事がひけた。自身の受け持つ警備区域に工事が入り、立ち入りが制限されたからだ。しばらくは他所の手伝いにまわり、その後は普段後回しになっている事務処理に時間をあてたが、やがてそれも終わった。そうして、たまには良いかと城下へ出ようとしたところで、レックスはファルコンと行き逢った。
「いや、中央士官に書類を届けに行くところだ」
「なつかしいな。そういや、先生元気かな」
ファルコンは数年前から、中央教育隊に籍を置いている。士官候補生は卒校した後、一時的に全員が教育隊に入隊するため、教育隊の長ともなれば、士官学校とやり取りすることも多いのだろう。
「自分で確かめたらどうだ」
「え?いや、俺はいいや。先生が元気ないなんてことないだろうし」
「どうせ暇なんだろう。暇に飽かせて日のあるうちから帰ろうなんて良い身分だな」
「たまたまだよ」
「やっぱり暇なんじゃないか。付き合え」
レックスはまだ四の五の言っていたが、構わずファルコンは歩き出した。旧友の性格上、恐らくついてくるとふんでのことだ。
「ミルズ先生、先日お話しした資料をお届けに参りました」
「ご苦労。で、城門を警備している筈の君はここへ油を売りに来たのか」
「はい、そうです。先生」
結局、何の因果か、レックスはかつての師の執務室まで付き合うことになった。
「まったく相変わらずだな」
「城を出るときに偶然会ったので、ついでに連れてきました」
「わかった。私はまだやることが残っているから、それが済むまで待っていなさい」
「ちょっと、ここで何してるのよ」
いつものとおり、何の前触れもなく訪れた夫の執務室で、ミゼットは閉口した。
「ご挨拶だな。仕事だ」
「ちなみに俺は油を売り歩いてる。どうだ、買わないか?」
「いらないわよ。もう、用が済んだんなら出てってよ」
「お前の部屋じゃないだろう」
「先生のものは私のものよ」
「そりゃあ良い」
ファルコンが不敵に笑う。
「ミゼット、お茶いれろや」
「はあ?」
「お前随分と偉くなったもんだな。昔はあんなに助けてやったというのに。下級生に風呂を覗かれたと言ったときだって…」
「ああ、もう。わかった。お茶飲んだら帰ってよ」
ファルコンには、訓練生時代に受けた並々ならぬ恩がある。お陰で、今となっては夫以上に頭が上がらないのだ。
「なんだって、こんなところに来るのよ。それもよりにもよって二人揃って」
ミゼットはブツブツと文句を良いながら、乱暴にお茶の仕度をする。食器がカチャカチャと音をたてた。
そこへノックの音がして、教官が入ってくる。
「ああ、申し訳ありません。かわります」
タリウスは不満げにお茶を淹れるミゼットに駆け寄った。
「結構よ」
そこには座りたくない、そう小さな声でつぶやくもタリウスには届かない。結局、お茶の葉が開いたところで、タリウスにティーセットを取り上げられてしまう。ミゼットはしぶしぶ二人の向かいに腰を下ろした。
「教官、ここの出身だろう?山越えのとき何時台に帰ってきた?」
「山越えですか?確か…」
山越えとは、予科生から本科生に上がるための通過儀礼のようなもので、三人一組で近隣の山に登り、そのタイムを競うものだ。
「確か零時を少し回ったところだったか」
ちょうどそのとき、仕事を終えたゼインが入室して来る。
「よく覚えていらっしゃいますね」
「そうか?こちらの三人のときほど鮮明には覚えていないよ」
「やめてよ…」
ミゼットが絶望的な声を上げ、片手で顔を覆った。
「優秀だな。自分はこの二人と一緒だったが、戻って来たときには夜が明けていた。今考えてもあれは悪夢だった」
「ああ、俺も今だに追い詰められるとあのときの夢みるわ」
思い出しただけでも胃の痛くなるような思い出だと、彼らは沈痛な面持ちを見せた。
「へえ」
唯一ミゼットを除いては。
「何で他人事なんだよ!」
「お前のせいだろう!」
男二人が盛大に噛みつく。
「私は何回も棄権したいって言ったじゃない」
「お前が棄権したら、大幅に点数が減るだろう」
「どんなにお荷物でも、おいそれと捨てられないなんて、本当によく出来たシステムだと思ったよ」
「おにもつって…」
「山越えの目的は山登りではない。三人揃って帰らなければ意味がないというのは、今も昔も変わらず大前提だ」
ゼインの言うように、山越えに必要なのは単なる登山スキルではなく、仲間との協調である。したがって、どんなに早く到着したとしても、三人揃っていないと得点が入らない仕組みになっている。
「だいたい私ばっかり悪いみたいに言わないでよ」
「開始早々、灯りを消しちまったのは誰だよ」
「確かに私だけど、でも一旦戻って火をもらい直そうと言ったはずよ。それをそのまま強行したのはファルコンでしょう」
「今の君からは考えられない、痛恨の判断ミスだね」
「あのときは、遅れをとってはならないと、焦っていたんです」
「確かに、当時の君は何をやらせても一人勝ちで、誰かに負けることなどなかった」
それ故、序盤から出遅れるというあってはならない状況において、冷静な判断が出来なくなっていた。
「灯りはない、地図はなくす、崖から落ちる」
「地図は私じゃない」
「崖はお前だろ」
不毛な争いは止まるところを知らない。
「何故このチームが明け方までかかったか、わかるかい?」
「てんでバラバラですからね…」
その後も繰り広げられる過ぎ去りしの犯人探しを前に、ゼインがぼやき、タリウスが苦笑いを返した。
「だけど、日付が変わったくらいから、だんだん点数のこととかどうでも良くなって、とにかくこいつ連れて帰らなきゃみたいな」
「ああ、謎の使命感な」
どこでどうしてそうなったのか、いつの間にか彼らの共通目的は、自分達より格段に体力の劣る妹分を一早く下山させることとなった。
「そうなの?」
「今思うと本当にわけわかんないけど」
「私がこれまで見てきた中には、ごく希にだが、棄権を選んだチームもあった。だが、何だかんだで君たちは、三人一緒に戻ってきたじゃないか。正直なところ、夜が白む頃には、私も諦めかけたよ」
「そりゃあ、なあ」
「ああ」
ゼインの言葉に、彼らは遠慮がちに互いを見やった。
「なんだね」
師は言いたいことがあるなら言えと言外に凄んだ。
「先生の前でなんですけど、もしあの場にミゼットひとり置いて二人で戻ったりしたら、確実に先生に殺される。そう思ったら…」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない」
ゼインがあからさまに不快感を示す。些か強い物言いに、教え子たちが一瞬固まった。
「当時は自分も本気でそう思っていました。もし、殺されなくとも、そんなことをしたら一生言われ続けたんじゃないでしょうか」
「もしもの話はしない」
教官はあくまで涼しい顔のままだ。
「山越えは、訓練生にとって中間試験だが、教官にとってもまた自身の手腕を試される最初の試練だ」
ゼインの言葉に教え子たちが皆一様に顔を上げた。
「一度送り出したら最後、戻ってくるまでの間、もう自分の声は届かないし、何もしてやれない。君たちがどれほど育ったか、裏を返せば、自分がどれほど育てられたか、そればかり考えていた」
彼らははっとして、互いを見た。教官がどんな思いで自分達の帰還を待っていたのか、今の今まで考えたこともなかった。
「ともかく、君たちのことでは私も勉強になった。やはり、リーダーを二人並べるべきではなかったね」
「は?」
教え子たちの目が点になる。
「どのチームもなるべく力が均一になるよう編成するんたが、いかんせんそこのお荷物が酷すぎてね。苦肉の策で、一番手と二番手と組み合わせたが、それが失敗だった」
「失敗って…」
ファルコンが絶句する。レックスもまた言葉がない。ミゼットにいたっては、顔を上げることも出来ないでいた。
「君たちは元々仲が良かったし、あまり自分を主張するほうでもなかった。互いに妙な気を遣った結果、仕切る者がいなくなったのだろう」
私の編成ミスだ、申し訳ない、と教官は少しも悪びれることなく言った。
「先生、なんだって今になってそんなことを」
「流石に時効だろう。それに、わざわざ訪ねてきてくれた教え子をただで返すのも忍びない。散々世話してやったと言うのに、こうして顔を見せてくれる者は存外に少ない」
「まあ、積極的に来たいと思うような場所ではないですからね」
実際、レックスがここに来たのも卒校以来初めてだ。しかも直前まで行き渋った。
「そうか?彼の教え子はよく来るのに」
「そんなことは…」
言うほど頻繁に訪ねてくる教え子などいない、そう言おうとするのをファルコンが遮る。
「確かに、何度かここで面白いのを見掛けたような」
「ミゼット、今日面白いのは?」
「非番よ。ねえ、面白いのにさっきの話絶対しないでよ」
「すみません、面白いのというのは」
タリウスが遠慮がちに口を挟んだ。
「ダルトンのことでしょう。なんでみんな人のものを欲しがるのよ」
「面白いからだろう」
「珍しいね。君までそんなことを言うなんて」
「そうですか?あいつは当たりです。ここを出たときの成績は、あまりぱっとしないようでしたが」
「成績と言えば、先生、卒校のときの成績、あまりあてにならないように思うんですけど」
「あてにならないとはなんだね」
思い出したとばかりにレックスが言うと、ゼインが心外だと声をあらげた。
「すいません。失言でした。でも、ここを出るときの順位と、教育隊の査定は毎年全然違いますよ」
卒校時の成績だけを鵜呑みにして引き合いをしたら、自分の部隊はなかなか大変なことになっただろう。ファルコンが起こした緻密な報告書に救われたのだ。
「意図的に順位を動かしていますよね」
ファルコンが真っ向からかつての師と対峙した。
「こちらにはこちらの事情がある」
「二世に上乗せしているんでしょうが、そもそもを昔の二世はもう少し真っ当でしたよ」
「言っておくが、ここはミルズ士官学校ではない。私も君たちと同じ組織を構成する螺子のひとつに過ぎない。私の意思がどうであれ、君には上の決定を伝えるまでだ」
ファルコンは前々から、卒校時の成績や順位を何者かが意図的に書き換えているのではないかと疑っていた。俄には信じようとしないレックスに、彼はくだんの報告書を見せた。それから毎年、同じことを続けた結果、今ではレックスも旧友と同意見だ。
「先生のお立場はお察ししますが、本当のところをしるしか何かで教えていただけませんか」
「書面には残せない」
教え子が懇願するのを、ゼインがにべもなく切り捨てる。ファルコンはレックスと顔を見合わせ、閉口した。
「直接ここに聞きに来れば?」
静寂を破ったのは、ミゼットの呑気な台詞である。
「それはありなんですか?」
まさかと思いゼインを見ると、これでもかと言うほどにこやかに微笑んでいる。それこそが答えだろう。
「お前、そうやって面白いのを手に入れたのか」
「ダルトンは確かにぱっとしないけど、逆に著しく劣っているところもなかったのよね」
ミゼットはかつての師ではなく、部下の師に視線を送った。
「強いて言うなら、素行が…」
「素行に関しては他人のことが言えた義理ではない」
ゼインの言葉に、三人が三人ともお茶に口を付けたり、足を組み替えたりしながら外方を向いた。
「まさか級長の君にまで裏切られていたとはね」
「誤解です。自分はいつもこいつらの起こした騒ぎをおさめていました」
「おさめ方、な」
「結構強引だった」
旧友たちがファルコンに一目置いている理由のひとつが、その行動力の高さである。そして、彼は時として極めて冷静に信じられないようなことをやってのける。
「こいつらが風呂を覗かれたとかで大騒ぎしたとき、あれはひどかった」
「大騒ぎするわよ。私の下着を盗んでいくついでに覗いってったのよ、あの糞野郎」
最後の台詞は超絶小声である。
「なっ…!君もエレインも泣きついてこなかったじゃないか」
「先生いなかったんじゃなかったっけ?」
「ああ、確かそうだった」
本当のところ、よく覚えていないがともかくそういうことにしておこうと思った。
「で、どうやって事をおさめたんだ」
「別の日に、同じ状況を作り出して罠に掛けて、ファルコンが…」
言って良い?とミゼットがファルコンを仰ぎ見る。彼は憮然としたまま頷いた。
「お風呂に沈めた」
一同沈黙する。
「今も昔も私刑は禁止されているが?」
「先生に言うほうが気の毒かと」
「正直、息があったかも疑わしい状況だったけれど…」
「これも時効ですよね」
ゼインは答えない。答えようがない。
「とにかくお前は、抜け駆けして面白いのを手に入れたわけだ」
話が変な方向に行くのを、レックスが無理やり軌道修正をはかる。
「しつこいわね。だいたいあなたには優秀な部下が何人もいるじゃない」
「優秀な部下な、地方に出すことにした」
「なんでまた?」
その場にいる全員の疑問だった。
「今この国の端っこで何が起きているのか、一度自分の目で見てきたほうが良い。平和ボケなのかなんなのか、あいつらにはまるで危機感がない」
「貴重なご意見だね、城門警備隊長」
「申し訳ありません。そういうつもりでは…」
「かまわないよ。君の言うとおりだ。王都から出たことがない者は、皆当たり前に平和を享受しているが、いかにしてその当たり前の平和が保たれているのか、知らないどころか知ろうとしない。こればかりはいくら口で説いても、自分事にならないとわからないだろう」
これこそが、中央と地方の埋められない溝の原因である。
「それで、どこに行かせるつもりだ」
「西にやってもあまり意味がなさそうなので、北か南と考えています」
西部は内陸に位置し、王都ほどではないが、比較的平和が担保されている。それ故、士官候補生を目指す者たちの中には、倍率の高い中央を避け、端から西部を志願する者がいるくらいだ。
「北はおすすめしない。学べることは多いと思うけれど、二年かそこらいても大して役に立たないし、迷惑なだけよ」
「迷惑…か」
言われて初めて、自身や部下にとっての実入りばかりを考え、先方の都合など二の次になっていることに思い至った。これではどちらが平和ボケしているのか、わかったものではない。
「そもそも私、歩けなかったし」
「はい?」
そんな思考をまたしてもミゼットの声が断ち切った。
「あっちの人って雪道歩き慣れている上に、氷上訓練も雪上訓練も受けてるけど、私何もしてなかったから、最初の一年は歩くだけで一苦労」
「それで?」
「まあしょうがないから北部士官行ったわね、非番の日に」
「お前のそういう恥も外聞もないところ、本当尊敬する」
「恥も何も、誰も知り合いなんていないし、それに下手したら死ぬだろうなって思ったから」
背に腹は変えられないもの、そう言ってミゼットは笑った。
「先生、さっきの話ですが」
そこで、ファルコンが意を決して再度ゼインと向かい合った。
「ここへ伺えば、本当に教えていただけますか」
「成績など単なる数字遊びだ。もし、君が私の個人的見解を聞きたいと言うのなら、いつでも来ると良い」
その数字遊びに皆が一喜一憂していることをこの恩師はどう思っているのだろう。ゼインの言葉に安堵するとともに、ファルコンは苦笑いを漏らした。
「ああ、だが細かいことは、彼に聞いてもらったほうがより正確だ。君たちの言う面白いのを見出だし、育てたのは彼だ」
俄に隣で控えていた若き教官に視線が集まる。
「教官、忙しいところ申し訳ないが、頼まれてくれるか」
「あくまで私の私見ということをご理解いただけるのでしたら」
上官が快諾している以上、自分が断る謂れはない。
「恩に着る。代わりにこちらに出来ることがあれば言って欲しい」
「それでしたら…」
タリウスは一瞬思考した後、控え目に口を開いた。
「教育隊の査定を自分にも見せていただけないでしょうか」
最初にこの話を聞いてときから気になっていた。自身の教え子がその後どのような評価を受けているのか、純粋に知りたいと思った。ダルトンのように、直接評判を聞くことは稀である。
「全然かまわない。ただ査定と言っても殆ど趣味みたいなものだし、自分以外にはこいつにしか見せてない。そんなもので良ければの話だが」
「交渉成立だ」
それまで成り行きを見守っていたゼインがポンと手を打った。
「じゃあ、私はこれで」
それを皮切りに、ミゼットが席を立った。手には自分の使ったカップがある。
「置いておいてください」
「良い良い。俺ら暇だから。教官は仕事戻るなり帰るなりして。で、良いですか、先生」
「かまわないよ」
上官に促されタリウスが下がる。レックスもまたカップを持って立ち上がり、ファルコンもそれに倣う。
「三人も要らなくない?」
言いながら、ミゼットは部屋の主のカップを受け取り、自分のそれに重ねた。
「わかった。ミルズ夫人はお帰りください」
「あら、そう」
重ねたカップをレックスに渡し、ミゼットは部屋から辞した。
「先生、ずっと気になっていたことをお聞きしてもよろしいですか」
去り際、レックスが戸口で足を止めた。
「なんだ、改まって」
「あいつを、ミゼットをよく北へやりましたね」
「彼女をあのまま手許に、私の力が及ぶ範囲に置いていたら、ろくなことにならなかっただろう。まさか十年以上、帰って来ないとは思わなかったが」
「なんらかの成果をあげるまで帰れなかったのでしょうか」
「どうだろうな。案外水が合っただけかもしれない。彼女は暑いところが不得手だから」
「そうかもしれませんね」
そこで、レックスはファルコンと並んで黙礼する。部屋の主は相変わらず微笑んだままだ。
「ったくどこまで計算だったんだ」
恩師の部屋を出てから数秒後、レックスは毒づいた。
「悪い。俺ひとりで先生と交渉できる気がしなくて、何となくお前を連れていったらうまくいくんじゃないかと思った」
結果は予想以上の収穫だった。だが、そのために旧友を利用する形になってしまったことにファルコンは申し訳なさを感じた。
「ああ?それは良いけど、じゃなくて先生だよ。なんだかんだで最後は自分のものにしたじゃないか、あいつのこと」
「お前まさか、まだ」
「ない。流石にそれはない。だいたい、昔からあいつは先生のことが大好きだっただろう」
「確かに。 ミゼットがこっちに戻って来て、そう間を置かずに先生と一緒になったと聞いても、大して驚かなかった。十年もの歳月を物ともしないなんて、やっぱり鬼のミルズははかり知れないな」
今し方別れたばかりの恩師にファルコンが想いを馳せるその一方で、レックスは複雑な表情を見せた。
2020.2.5 「休息」了