タリウスは途方にくれた。一体全体どうしてこんなことになってしまったのだろう。目の前には今にも泣き出しそうな弟の姿が、そして背後には、中央士官学校の厳つい門扉があった。

「シェール、ひとりで帰れるか」

 屈んで弟の顔を覗き混むと、その目がさも不安そうにこちらを見た。口は一文字に結ばれている。

「無理、だろうな」

 タリウスは本日何度目かの深い溜め息を吐いた。いずれにしても、いつまでもここで困り果てているわけにはいかない。そろそろ何某かの決断をしなければならない、そう思ったときだった。

「今日は子連れ出勤かい?」

 上官のおでましである。

「ミルズせんせい!」

 それまで頑なに沈黙を保っていた弟が、嬉しそうに背後を振り返った。

「おはよう、シェール。良い天気だね」

「申し訳ございません。意図して連れてきたわけでは…」

「呆れたな。こんなにも可愛い尾行に気が付かないなんて、兄上は一体どうしてしまったんだろうね。心配だね」

 自分でもそう思った。それだけに、返す言葉が見付からなかった。

「すみません、考え事をしていて」

「言い訳は結構。どうするつもりだ」

 苦し紛れに弁明する言葉を最後まで言わせてはもらえない。タリウスは先程から頭にあった答えを示した。

「ひとりでは帰せませんので、一旦戻って置いてきます」

「演習はどうする。言った筈だ。教官が遅れては示しが付かない。これで何回目だ」

 二回目です、などと言えるわけもなく、タリウスは謝罪を繰り返した。シェールを連れて兵舎と宿を往復すれば、どんなに急いでも始業には間に合わない。どうして良いか本当にわからなかった。

「それに、帰ったところで、この可愛らしい手はすんなり君を離してくれるのか」

「離させます」

 自信はないがそうするより他ない。

 弟は普段は従順で、自分を困らせることがあまりない一方で、淋しさやかまって欲しい気持ちが高まると、なかなかに突飛な行動に出る。

わかっていたのに、気付かないふりをしていたつけがまわってきたのだ。今回は、出仕する自分の後をこっそりつけてくるという形で。

「午前中はひとまず私が預かろう」

「よろしいんですか」

 願ってもない展開にタリウスが感嘆の声を上げる。だが、ゼインはそれには応えずシェールの前に膝を折った。

「あいにく兄上はお仕事だ。私の部屋で良い子に待っていられるかい?」

「はい!」

 良い子のお返事である。

「良い返事だ。おいで、私の部屋から特別に演習を見せてあげよう」

 そうして、ゼインに手を引かれ厳つい門扉の先に消えていく。自分と遊びたくてここまで付いてきたのではないかと、一瞬複雑な心持ちになるが、もうこの際何でも良いと思い直した。


 ゼインの執務室からは、教官として働く兄の姿がよく見えた。シェールのすぐ近くにはゼインがおり、書類に目を通したり、中庭に厳しい視線を送ったりしつつも、絶えず朗らかに解説をしてくれる。お陰でしばらくは退屈せずに過ごすことが出来た。

「失礼します」

 遠慮がちに戸が叩かれて、少年がひとり入室してくる。

「ミルズ先生、統括がお呼びです」

 週番である。日に何度か、授業や訓練の合間にこうして教官の御用聞きとしてやってくる。

「わかった。シェール、おいで」

 少年は、主任教官の向かいでお絵描きに興じる子供に好奇の目を向けた。

「私の教え子の子だ。訳あって預かっている」

 ほらとゼインが促すも、シェールはなかなか立ち上がろうとしない。朝からゼインが離席する際には、どこに行くにも必ず一緒だ。その度に、小難しい話に付き合わされ、いい加減飽きてきたのかもしれなかった。

「あの、よろしければ自分が見ていましょうか」

「君が?」

 大事な預かりものを又貸しするようで気が進まなかったが、無理やりシェールを連れていくのも気が引ける。勿論、統括を待たせるわけにもいかず、悩んだ挙げ句に、ゼインは少年の申し出を受けることにした。

「その子を部屋から出すな。それから、絶対に目を離すな」

「わかりました」

 大人しくひとりあそびをしている子供に、少年は完全に油断していた。それ故、教官の姿が見えなくなるとともに、やおら立ち上がり、一目散に執務机へ向かう子供を見て、大いに驚いた。

「だめ!だめだって、それに触っちゃ」

「見るだけ」

 慌てて後を追いかけるが、子供は既に書きかけの書類に手を伸ばしているところだ。

「見るだけでもだめ。返せ!うわ!」

 子供と押し問答を繰り広げた拍子に、乱雑に積まれていた書籍の山が崩れてきた。バサバサという派手な音に、少年の心臓が大きく波打った。慌てて本を拾い、順番通り慎重に元へと戻す。

子供は一瞬、罰の悪そうな顔を見せたが、すぐさま他に興味が移ったようで、今は新たな獲物を物色している。

「もう勝手に触ったらだめだって。先生に言い付けるよ」

 伝家の宝刀だった。この子供と教官の関係ははかりかねたが、これを言えば大概の子供は大人しくなると思った。

「や、やだ!それはだめ!」

 思った通り、途端に子供の落ち着きがなくなる。たが、次の瞬間、事態は思わぬほうへ転んだ。

「待って!ちょっとどこ行くんだよ」

 あろうことか、子供が部屋を飛び出した。すぐさま後を追うつもりだったが、床にしゃがんで本を拾っていたため瞬時に動けない。慌てて廊下に出たときには、既に子供の姿はなかった。

「嘘だろ」

 とにかく事態を収拾しなくてはならない。少年は小走りで階段を目指した。手すりから身を乗り出して上下を確認すると、上のほうから足音が聞こえた。

「待って!」

 下から声を掛けると、子供は走る速度を上げたようだった。

「そこで何をしている。全く騒々しい」

「ミルズ先生!」

 最悪の事態に少年は絶望した。

「すみません。目を離した隙に逃げられてしまいました」

「この愚か者が!あれほど部屋から出すなと言っただろう!」

「申し訳ありません」

「捜せ!いや、もう貴様には頼まない。ジョージア教官を呼べ」

「ジョージア先生ですか」

「そうだ。あの子の保護者だ」

「ええぇぇぇええ?!」


「ジョージア先生、すみません」

 演習を終え、片付けをしていると、少年がひとり血相を変えてこちらに走って来た。物凄く嫌な予感がした。タリウスは少年を一瞥し、次の言葉を待った。

「先生、すみません。本当にすみません」

「何のすみませんだ」

「えーと、ミルズ先生から先生のお子さんをちょっと預かったんですけど、目を離した隙に見失ってしまいました」

 すみません、少年が頭を下げるのを見ながら、全身の力が抜けるのを感じた。思った通り、いやそれ以上の事態だ。

「最後に見たのはどこだ」

「二階から三階に上がる階段です」

「二階から三階?三階にはいなかったのか」

 階段は一ヶ所だけ、更には三階が最上階である。

「わかりません。自分はその後すぐここに来たので」

「もう良い。お前はミルズ先生のところへ戻れ」

「先生、本当にすみませんでした」

「目を離したのはせいぜい数分だろう」

「いえ、そんなに長くありませんでした」

 ものの三十秒もあればシェールが姿を眩ますのに充分である。タリウスの脳裏には、悪戯盛りの子供が舌を出している様が浮かんだ。

「ならば、すぐに見付かる筈だ。そんなに心配せずとも良い。それよりも、巻き込んで悪かったな」

「いえ」

「ミルズ先生からうちのを頼まれたのか」

「頼まれたというか、その、そういうわけではなくて、あの、自分が…」

 子供と侮って安請け合いしたのだろう。

「悪いがそれだと助けてやれない」

 上官のことだ。出来もしないことを願い出たと言って、少年を叱り付けるだろう。ここで自分が取りなしても恐らくは意味がない。だが、そうは言っても、元をただせば、自分がシェールを連れてきたことがことの始まりである。

「何を言われてもひたすら謝れ。それしかない」

「え?」

「行け」


 タリウスは考えあぐねた。シェールに対しては負い目がある。そのことを自覚しているからこそ、今回のことを叱れずにいた。だが、そのことで自分以外に被害が及ぶならば、もはやそれとこれとは別問題だ。

「先生?シェール!」

 階段を上がったところで、上官がシェールを伴い三階から降り来るところだった。どうやらあれからすぐに発見してもらえたらしい。

「ジョージア、大変申し訳ないことをした」

 上官が一礼し、シェールをこちらに引き渡した。

「たった今、軽々しく子供を預かる等と言うべきではないと週番に言ってきたばかりだが、そっくりそのまま己に言いたい」

「一番言われるべきは私です。ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした」

 上官に頭を下げ、続いてシェールに目を向けると、一瞬こちらを見たがすぐに目を伏せてしまった。

「私は統括と打ち合わせがある。必要であれば私の部屋を使いたまえ」

「恐れ入ります。一旦帰宅して、午後の訓練までには戻ります。シェール、先生にお詫びを。先生の部屋で大人しくしている約束だっただろう」

「ごめんなさい」

 シェールはゼインに向き直り、素直に謝罪を述べた。

「もう結構だ。君と遊べて楽しかったよ。今度は私の家に遊びに来なさい」

 上官はシェールの頭を一撫でして、踵を返した。

「シェール。先生はああ仰ったが、俺はまだ許すつもりはない。何故だかわかるか」

「えっと、えーと」

 シェールが目を白黒させる。窮地に陥っている証拠だ。

「かまってやれなくて悪かったと思っている。淋しい思いばかりさせて申し訳ないとも思う。でも」

 タリウスはそこで一旦言葉を切って、シェールを見据えた。

「俺を困らせたいのなら、俺だけを困らせなさい。ここにいる人間は、誰もが自分の務めを果たそうと真剣だ。お前に邪魔をする権利はない。シェール、お前にはお仕置きが必要だ」


 部屋を出ようとしたところで、反対側から勢い良く扉が開かれ、教官が入室してくる。すぐ後ろには小さな子供が泣きながらくっついている。 手をひかれているというより、引きずられているようだと思った。

「先生、見付か…」

「退け」

 教官親子に駆け寄るも、強い意志で拒まれる。少年は慌てて道を譲った。無事に迷子を捕獲して一件落着とはいかないようである。

「やだぁ!やだー!!」

 子供は繋いだ手を何とか振りほどこうと、最後の抵抗を試みていた。

「いい加減にしなさい」

 決して大きな声ではなかったが、子供はぴたりと動きを止めた。

 教官はどっかりと椅子へ腰掛け、泣き叫ぶ子供を膝の上へ押さえつける。そして、すぐさま強引に着衣を下ろし、いたいけなお尻を露にする。これから何が始まるのか一目瞭然である。少年は目のやり場に困り、そうかといって逃げ出すわけにもいかず、おろおろと成り行きを見守った。

 ピシャンという大きな音に、思わず首をすくめる。あの音にどれだけの苦痛が伴うか想像に難くない。無遠慮に泣き叫ぶ子供に、教官は構うことなく平手を与えた。

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」

 どれほど泣いて許しを乞おうと、教官は取り合わない。暴れる子供に狙いを定め、黙々と罰を与え続けた。

少年の心に同情と羞恥が入り混じる。やはりみていられない、そう思って目を逸らすと今度は幼い泣き顔と目が合った。

「たすけて」

 一瞬、そう口が動いたように見えた。

 そんなことを言われても、自分にはどうすることも出来ない。少年は泣きわめく子供を完全に視界から追いやる。だが、それでも耳に届く音までは遮断出来ない。

「せんせい」

 考えるより前に、思考が声となった。

「何だ」

 教官の手が止まる。

「も、もとはといえば、目を離した自分の責任です。それに、もう、じゅ、充分に反省している筈です。だから…」

「だから?」

「だからもう、ゆるしてあげてください」

 お願いします、震える拳を握りながら、なんでこんなことをしているのかと自分でも不思議に思った。

「こいつのお陰で、お前は散々ミルズ先生にどやされたのだろう」

確かに、あの後主任教官は全力で自分を罵った。馬鹿だの愚かだの言われながらも、教官の助言通りひたすらに謝罪を繰り返したところ、意外にもあっさり解放された。

「それは自分が悪いので、仕方がないと思っています」

 教官とまともに視線がぶつかる。数秒後、先に視線を逸らしたのは教官だった。彼は再び子供に向き直り、ぴしゃりとその肌を打った。少年はうなだれた。

「おしまいだ」

 教官の声に少年が視線を上げると、丁度子供を膝から下ろすところだった。

「シェール」

「はい」

 目にたくさん涙をためて、それでも子供は泣き止もうと必死だった。

「ここはお前の好き勝手していいところではない。それくらいのことはわかるだろう」

 こくんと子供が頷く。

「わかっていてどうして良い子に出来ない。シェール、きちんと謝りなさい。ごめんなさいだ」

 子供は教官に促されて、自分に向かって頭を下げた。

「え?」

 一瞬、何のことかわからなかった。だが、一連の言葉は自分に向けられていると知り、もういいよと小さく返した。正直なところ、自分も一緒に叱られてもおかしくないと思った。

「こいつが迷惑を掛けたな」

 教官は椅子から立ち上がり、子供の頭に手を置いた。

「いいえ」

「お前ももう下がれ」

 すれ違いざま、教官は小声で自分を呼んだ。

「ありがとう」

「お礼を言われるようなことは、何も」

「こいつを庇ってくれただろう」

 驚いて顔を上げると、ほんの一瞬教官が歯を見せた。


 了 2020.1.26