明日から暫くの間、中央士官学校は長期休業に入る。本科生は卒校し、士官となって世に
送り出され、予科生は一昼夜に渡る野外演習を終え、各々自宅へと帰された。
教官たちの正式な休暇は明日からであるが、候補生のいない谷間の今日は、特に勤務が
義務付けられているわけでもなく、各自が整理期間と称して自宅に待機していた。
静まり返った兵舎の中、軍長靴の音が響く。音は予科生の教室の前で止まった。
年期の入った扉を開けたのはタリウスだった。床も机も黒板も、隅から隅まで磨き上げられ、
塵ひとつ落ちていない。幾度かのやり直しを経て、自身の目に適ったのだ。それは至極当然
のことであった。
それならば、何故今更ここへ足を踏み入れたのか。何となくやり残したことがあるようで、
じっとしていられなかったからだ。
そのとき、階下から聞こえた物音に、彼は眉をひそめた。この下は本科生の教室である。
本科生になると、実戦的な訓練が主で、教室での座学は兵法などに限られる。
一体今頃誰だろう。ちょっとした好奇心を胸に、彼は階下へ向かった。
「ミルズ先生」
戸を開けると、予想外の人物が予想外の行為に及んでいた。
「用があるのは私か、それともこの部屋自体だろうか」
「ここです」
短く答え、タリウスは一旦教室の外へ出た。そして、雑巾を手にすぐさままた室内へ戻った。
それから上官とは言葉を交わさず、端から順番に黙々と机を拭いた。
兵舎の清掃は殆どすべて予科生に課せられているが、この場所だけは本科生が行う。それ
故、彼らが実地訓練に出るようになってからは誰の手も入っていなかった。
「ジョージア」
上官の横をすり抜けようとして呼び止められる。
「何も君が付き合うことはない。これは言わば、私の趣味みたいなものだ」
「趣味…?では、毎年やっていらっしゃるのですか」
「ああ。君を見送った後もね」
ゼインは箒を弄ぶ手を止め、教室の前方へ向かった。
「君は確かこの辺りに座っていた。そう、ここだ」
コツコツと机のひとつを人指し指で叩く。タリウスは無言で頷き返した。当の自分ですら
曖昧にしか覚えていないというのに、恐ろしいほどの記憶力である。
「一生教官でいろとは言わない。何年かしたら、必ず元いた以上の部隊へ転属させよう。
だから、しばらくはこのまま辛抱して欲しい」
「いえ、辛抱が必要なこととは思っていません」
確かに希望した人事ではないが、教官の職は天職とはいかないまでも、それなりに適し
た仕事だと思っている。自分では考え得なかった選択だけに、上官にはむしろ感謝して
いるくらいだった。
「しかし、今までも君のように迷い込んで来る教官がいたが、偉くなってからはこぞって私
から箒を取り上げようとしてね。隣で机を拭き始めたのは、君が初めてだ」
言われてみれば、確かに自分が代わると申し出るのが筋だと思った。先ほど、上官の
姿を見た瞬間、忘れ物に気付いたような気がして、半ば身体が勝手に動いた。
「どうやら君と私は、似たような思考回路をしているらしい」
上官は教卓へ肘を付き、そこから自分を見据えた。それはかつて、よく目にした光景だっ
た。
「私は誰彼構わず怒鳴り散らすわけではない。怒るのは見所があるからだ。君だって、教
官になった今、少なからずそういう節があるだろう」
「確かに、おっしゃるとおりです」
成長を期待するからこそ叱り、その期待が大きい分だけ熱くもなる。公私の境なく、それ
は常にそうであった。
上官は自分に対しても期待を掛けてくれていたということか。
「頭でっかちで、自分の目の前しか見えていなかった君も、随分と進化を遂げたようだ」
「恐れ…入ります」
「さて、感傷に浸るのも大概にしなくてはなるまいね。またすぐ目が回るほど忙しくなる。
そうなる前に、精々羽を休めるとしよう」
鬼にも羽があるのだろうか。久々に教壇へ立った師を見ながら、タリウスの脳裏を場違
いな疑問が霞めた。
了 2010.12.12 「軌跡」