「ねえ、ゼイン。良いでしょう?」

 ゼイン=ミルズは執務机に向かい、カリカリと忙しくペンを走らせていた。主任教官ともなると、士官候補生の指導よりも、こうして事務仕事に割かれる時間のほうが遥かに多い。

「ミゼット。君には私が今何をしているように見える?」

「何って、書類の決裁をしているのでしょう」

「そのとおりだ。この他にも今日中に片づけなくてはならない書類が山のようにある。どう考えたって、君の相手をしている暇は…」

「それなら私が半分手伝ってあげましょうか。私、あなたのサインの真似なら得意よ」

 突然の、それも思い掛けない告白にゼインの手が止まった。

「なるほど。それは初耳だ」

「ええ、言ってないもの。ともかくゼイン。手伝ってあげる代わりに、空いた時間で私のお稽古に付き合って頂戴よ」

 困惑するゼインを尻目に、彼女は昂然と言い放った。この場はひとまず、このままやり過ごすほうがかえって得策かもしれない。

「お稽古ねえ。そんなもの何も私に頼まなくても、君は城勤めをしているんだ。格技場へ行けばいくらだって相手がいるだろう」

「ゼイン。私は女よ」

 いつになく不機嫌な声に彼は目線を上げた。

「北部にいた頃ならともかく、こっちには知り合いもいないし、見知らぬ女の相手なんて誰もしてくれやしない」

「ああ…そうだったね」

 女相手に手合わせをして、万が一劣勢になるようなことがあれば恥を掻く。しかし、そうかといって下手に本気を出せば何をムキになっていると思われなくもない。女の相手は敬遠されて然りだ。

「わかった。午後には時間を作ろう」

「本当?」

 元より彼女の我が侭に対しては、まるで断る術を持ち合わせていない。それをこうも無邪気な笑みを見せられようものなら、一体どう拒めば良いのだろう。

「その代わり、君もこの山を崩すのを手伝いたまえ」


 昼を回り、書類の山が粗方片付いてきたところで、何者かが扉を叩いた。ゼインは小声で何かを言い付けると、書簡のようなものを手渡した。どうやら相手は週番のようである。

「後は私一人でやるから、君は先に行っていなさい」

「行くって?」

「演習場に決まっているだろう。剣を見て欲しいと言ったのは君じゃないか」

「ええ。そうだけど」

 真昼間の演習場は、本来の使い方をしていて然りだと思った。

「場所はわかるだろう」

 半ば追い立てられるようにして、ミゼットは執務室から退出した。

 じりじりと夏の太陽が照りつけ、歩いているだけでたちまち背中が汗ばんでくる。彼女は日陰を求めるようにして林へと分け入った。演習場に向かうには若干遠回りだったが、たとえ束の間でも涼を得られるのならそれで良い。数分後には汗だくになるとわかっていても、出来るだけ見苦しくない姿でいたかった。

 程なくして演習場に辿り着いた彼女は、居並ぶ訓練生を前に絶句した。どういうわけか、彼らは自分と相対する位置に就いていた。


「どういうことでしょうか」

 入室許可を得ると同時にタリウスはそう訊いた。

「どうって?」

「何故彼女が訓練に?」

「ああ」

 そのことか、上官は涼しい顔で書類の決裁を続けた。まるで苛立つ自分のことなどどうでも良いと言わんばかりだ。

「たまには一風変わった者に相手をさせるのも悪くなかろう。彼らにとって良い経験になる」

「彼女が悪いと言っているわけではありません。ただ、何故いつもこう突然なんですか」

 週番が上官の言伝を持ってやってきたのは、訓練の準備もほぼ整ったところだった。命令とは常に一方通行であるが、普段と違う動きをさせるならそれなりの説明があって然りだと思った。

「戦いなんてものはいつだって突然だ。違うかね」

「それはそうですが」

「彼らは実に従順で、奥ゆかしく、そして愚かしい」

 鋭い視線をまともに受けながら、彼には一瞬にしてその言葉の意味するところがわかった。それだけに、次の台詞が出てこなかった。

「勿論愚かしいという点では彼女もどっこいどっこいだが、あれでも世に認められた人間だ。際立った才能も、後ろ盾も何もない小娘が、気付けば結構な高みに昇った。それは一体全体何故だろうか」

 上官は彼女に、ミルズの最高傑作と名高いミゼット=ミルズに、ひとりの戦士として何かを見出したのだろう。そして、自分を押し退けてまでそこに彼女を据えようとした。それが一体何故なのか、堪らなく知りたかった。

「答えを知りたくば付いて来い」

 そんな自分の胸のうちを見透かすように、上官は立ち上がった。


「ねえ、もう少し骨のあるのはいないの?」

 少年を三人まとめて蹴散らし、ミゼットは頭を掻いた。成り行きで予科生の訓練に付き合うことになったは良いが、その結果は惨憺たるものだった。

「ああもう。はい、次!」

「お、お願いします」

 ミゼットが剣を手に構えを取ると、たちどころに少年が怯む。その時点でもはや勝負は見えた。上手い下手の問題ではないのだ。

「ねえあなた、気迫って言葉知ってる?」

「聞いたこともないようだ」

「ゼイン!………ミルズ先生」

 背後から割って入った声に、ミゼットは思わず叫び、慌てて名字と敬称を取ってつけた。彼らは互いに夫婦であることを公にはしていなかった。

「愚か者は愚か者なりに、未熟者は未熟者なりに、今日まで訓練を積んできた筈だ。それが敵を前にして全く動けないというのはどういうことだ」

「敵と言っても、こんな偉い人に敵うわけありません。自分には無理です」

「あのねえ、そういう…」

「確かに無理もない」

 そういう問題ではないと言い掛けるのをゼインが遮る。他の訓練生たちもまた挙って頷き合う。一体どういうつもりかとミゼットは隣を窺った。すると、彼の口元に笑みが浮かんでいるのが見え、同時に背筋が寒くなった。

「君にはあまりに荷が重いというのなら、ここはひとつ教官にお出ましいただこう」

「はい?」

 言うが早い、ゼインは後方に控えていた教官を呼び寄せた。ミゼットには状況が把握出来ない。当然、相手もまた同じだと思った。しかし、若き教官は一瞬怪訝そうな顔を見せた後、すぐに模擬剣を手に取った。

「何なのよ」

 彼女の呟きはざわめきの中に吸い込まれていった。


「始め!」

 互いに一礼し、間合いを取る。

 タリウスは前後に足を開き、腰を落として構えを取った。剣先にいるのは今や上官の想い人ではない。手加減をすれば、彼女はそれを侮辱と捉えるだろう。一呼吸置いた後、彼は最初の攻撃を繰り出した。

 カキンと小気味の良い音が鳴った。

 敵は危なげない所作で剣を受け、身体をひねって即座に斬り返してきた。もともと舞踊をやっていたらしく、その姿勢は文句なしに美しかった。しかし、優れているのは姿勢だけではない。軍服に散りばめらた星々は伊達ではないと知った。

 敵の攻撃を自らの剣で受け流し、こちらから積極的に切り掛かった。やがて彼女はそのすべてを受け切れなくなる。肩や腕、背中に至るまで幾度となくその身を打つ。模擬剣とは言え金属製の武器に変わりはない。甲冑を身にまとっていない以上、時機に全身痣だらけになるだろう。しかし、余計な手心を加えるつもりはなかった。

「…っ!」

 完全に守りが疎かになったところで、腹に膝蹴りを食わせる。彼女はよろめき、一瞬顔をしかめたが、すぐにまたこちらを睨み返してきた。戦意は衰えることを知らず、むしろ闘志に火が点いたようだった。

 彼は獲物を握り直し、再び地を蹴る。声を張って威嚇すると、敵もまた負けじと甲高い声を発した。辺りに二種類の奇声と金属音が響き渡った。

 時が経つほどに、戦況は益々教官にとって有利な方へ向かった。彼はその技量もさることながら、腕力と体格において圧倒的に優位だった。それ故、ミゼットのほうは、武器を叩き落とされないようひたすら攻撃を躱すことに終始した。

「っ!!」

 再び剣先が交わったところで下から武器をすくい取られた。彼女はなす術もなく、そのまま強い力で横へ押しやられる。そして次の瞬間、ひんやりとしたものが首筋に当たった。

「参りました」

 その言葉を聞くや否や、教官は武器を納めた。ミゼットもまたそれに倣う。いくつかの溜め息が漏れ、どよめきが広がった。

「随分と苦心していたようだが、君には勝算があったのかね」

 如何にも底意地の悪い質問に皆が沈黙し、荒い息遣いだけが聞こえた。

「いいえ。体格も何も違いすぎます」

「では何故剣を取った」

「それは…」

 ゼインを盗み見ると、いつもどおり微笑み返された。しかし、言うまでもなく目は笑っていない。

「負けたくないと思ったからです」

「なるほど。少しも変わっていないな」

 辺りは静まりかえり、彼女は思い切り不快感をあらわにした。

「成長していない、とも聞こえますが」

「勘ぐり過ぎだ」

 その一触即発のやりとりに、若き教官を含む誰もが固唾を飲んだ。


「ちょっと!ゼイン=ミルズ大先生」

「何だろうか」

「何が何だろうかよ。あんなコントみたいな猿芝居に付き合わせておいて、一体どういうつもりよ」

「思う存分お稽古できただろう。それに、ジョージア相手にあれだけ動ければまず問題ない。恐らく、昇段試験にも受かるだろう」

「あのねぇ…」

 結局、あの後も時間いっぱい予科生の相手をさせられた。散々焚き付けただけあって、闘志を漲らせた少年たちを一度に相手するのは相当な荒技だった。

「そんなことよりもだ。君は私のサインを何に使った?答え如何では、いくら君でも…」

「仕事絡みで使ったことはないわ。ええ、誓ってない」

「ほう。一体どこの誰に誓うと言うんだ」

「エレイン」

「却下」

「じゃあ、亡くなったあなたのパパにする」

「よかろう。で、何に使った?」

「それは…」

 ミゼットは顔を伏せ上目遣いで自分を見た。誤魔化されてなるものか。

「白状したまえ」

「だからその、ちょっと値の張るお買い物をしたときとか、たまたま持ち合わせがないときとか」

「なるほどね」

 確かにここ最近、身に覚えのない請求書が幾度か回ってきたが、忙しさにかまけ深く考えずに支払いを済ませた。そのことが彼女に味をしめさせてしまったらしい。

「君だってそこそこ給金をもらっているんじゃないのか」

 それに加え、生活費はほぼすべて自分が面倒を見ている。

「欲しいというものも大概買い与えていると思うが」

「確かにそうだわ」

 言いながら、ミゼットは次第に自分と間合いを取る。

「ミゼット」

 強く名を呼び、正面から利き腕を捉えた。

「ごめんなさい!もうしない」

「当然だ」

 秒速で降参するとは剣士の風上にも置けない。

「全くオイタが過ぎるにもほどがある」

「いやよ!何処も彼処も痛いんだから、勘弁して頂戴」

 掴んだ腕に力を入れ、こちらに引き寄せる。彼女はそれはそれは情けない顔でゼインを見上げた。

「腹を蹴られるよりかいくらかマシだろう」

「あんなの全然平気よ。ねえゼイン、今度だけ。許して、ね?」

 あどけない瞳に覗き込まれ、わさわさと揺れ動く心をどうにか保つ。今度だけと言いつつ、冷静に考えれば、結局のところ既に複数回被害に遭っているのだ。

「お断りだ。躾けは初めが肝心だからね」

 かくして、ミゼットの受難は始まったばかりである。


 了 2011.9.9 「剣技」