子供の頃、生家で犬を飼っていた。

 名前はジョン。あるとき両親のうちのどちらかが、彼のことをもらってきたように記憶している。家族は、とりわけ二つ歳上の姉は、ジョンを愛して止まず、その可愛いがりようといえば、些か度が過ぎているようにさえ感じられた。

 そんな姉に気後れしたのか、彼自身はジョンとは疎遠で、積極的にかまった覚えはあまりない。唯一、宿題と格闘しているときだけ、いつの間にかジョンが近寄ってきて、付かず離れず側にいた。その間、話し掛けるわけでもなく、撫でるわけでもない。それでもジョンは、ただじっと自分の足下に寝そべっていた。


 月日が流れ、大人になった彼の後ろには、少年がひとり寝転がっている。誰であろうシェールである。

 シェールはつい先ほどまで読書に興じていたが、今はもうそれに飽き、うつらうつら夢の世界へと漕ぎ出していた。すぐ隣りに専用のベッドがあるにも関わらず、彼もまたかつてのジョンと同じように、自分の側にいることを好んだ。

 シェールが完全に眠りに落ちたところで、胸の辺りまで毛布を掛けてやる。その寝顔は平和そのもので、疲れた心が大いに癒されていく。そうしてしばらくの間、愛し子の寝顔を眺めていると、ふいに遠い記憶が呼び戻ってきた。


 その日は、何らかの理由で姉が不在だった。そのため、退屈したであろうジョンが自分をあそびに誘ってきた。

 普段、姉とジョンがボールを使ってあそんでいたことは知っており、見よう見まねでボールを投げてはジョンに取らせた。ジョンは優秀でどんなボールも確実に受け取った。次で終わりにしよう、そう思って一際強くボールを上げた。すると、一瞬ジョンが怯み、その直後に硝子の割れる音がした。

「ジョン!」

 取れないボールではなかった。それなのに、ジョンがわざと避けた。そのときの彼は、どういうわけかそう信じて疑わなかった。

 それ故、騒ぎを聞き付けやってきた父親にも、ひたすらジョンのせいだと繰り返した。初めはどうにかして息子を諫めようとしていた父も、そのかたくなな姿勢に腹を立て、最終的には嘘を言うなと怒った。

 しかし、当の本人にしてみれば、嘘を吐いている自覚は全くなく、むしろ自分の説明が受け入れられないことに苛立った。不注意で割ってしまったと言えば穏便に済まされるものを、そうしなかったのは、子供なりに曲げられない意地があったのだろう。

 結局、叱責だけでは済まされず、その後彼はたっぷりと泣かされることとなる。滅多に吠えないジョンがすまなそうに鳴いた。苦い想い出である。


「ねえお兄ちゃん、しりとりしない?」

 そのとき、唐突にシェールが眠りから覚めた。

「ああ、良いよ」

「もし僕が買ったらチョコか飴買って」

 一体どんな夢をみていたのだろう。ふわりとした笑みを見るに、きっと幸せなそれに違いないと確信する。

「良いよ」

「本当!?」

 その喜びようと言えば、早くも自分が勝ったかのようだった。

「しりとり」

「リス」

「すみれ」

「練習」

「馬」

「マント」

「トマト」

「時計」

「犬」

「いぬ!?」

 そこでシェールは勢い良く起き上がった。

「えーと、ぬ、ぬ、ぬ…」

「ほら早く。十!九!八…」

「待って待って!」

 落ち着いて考えれば出て来るだろうに、数を数え始めると、シェールは焦って目を白黒させた。

「お前が負けたら罰ゲームな」

「え!そんなのいつ決めたの?」

「たった今、俺が決めた」

「そんなのズルイよ」

「ほら、あと五秒!四!三!二…」

「ちょっと〜」

「ゼロ!」

「ええっ!うそー!!」

 シェールは金切声を上げ、頭を抱えた。

「何で犬なんて言うのさ」

「知るか」

 負け犬の遠吠えに耳を貸す気はない。

「さて、何をしてもらおうか」

「あんまり変なのやだよ」

「逆立ち五分とか?」

「そんなことしたら死んじゃうよ!無理無理絶対無理!!」

「大袈裟な。それなら、そうだな…肩でも揉んでもらおうか」

「うん、いいよ。いいけど、でも」

「でも何だ」

「そんなの、言ってくれたらいつでもやってあげるのに」

「そうか。それは…ありがたい」

 予想外の台詞を真顔で返され、一瞬返答に窮した。気付くとシェールの指が肩に触れた。指先に力があり、なかなか上手だ。小さな手に指圧をされながら、何とも言えない心地になった。

「ねえもう良い?」

 だが、幼い声にすぐさま現実へと帰る。

「もう?」

「指が疲れた」

「いつでもやってくれるんじゃなかったのか?」

 所詮は子供のすることである。過度な期待を持ってしまったかと彼は苦笑した。

「もっとやって欲しい?」

「ああ。出来ればな」

「じゃあ、もうちょこっとやってあげる」

 それからしばらくの間、シェールは文句を言わず、黙々と頑張ってくれた。身も心もすっかり解き解され、彼は上機嫌でこの罰ゲームを終わらせた。

「さて、買い物がてら散歩にでも行こう」

「うん」

 出掛ける支度をしながら、今日はきっと財布の紐が緩くなるだろうと思った。


 了 2011.8.21 「獣」