タリウスは現在、地方にある士官学校へ出張に出ていた。各地の教官たちが集う意見交換会に出席するためである。最終日である今日は、昼前には会議が引け、出席者は各々街へと繰り出していた。

 彼はといえば、すぐには兵舎から出ずに、士官候補生が住まう建物へと向かった。入口を入ってすぐのところには、名前の書かれた小さな板切れがいくつも下がっている。それらは在籍している候補生の数だけ存在し、週末というだけあって、その殆どが外出中を示す白色をしていた。居並ぶ板切れにざっと目を通すが、見知った綴り字を発見出来ない。彼はもう一度、板切れを端から順に目で追った。

「ん?」

 彼の目が黄色いそれの前で止まる。

「まるで申し合わせたかのように在室しているな」

「まさか、ここへ来ることも伝えていない」

 そこへ教官がひとり詰め所から出てくる。彼はこちらの所属で、自分たちについてあらかたの事情を知っていた。

「あいつだって何も好き好んでいるわけでもないのだろう。まったく情けない」

「そう怒るな。間が悪かったんだ。何でも喧嘩の仲裁をしていたら戻るのが遅れたらしい。実を言うと、昨日の晩解除しようと思っていたが、慌ただしくてな、忘れた」


 二人分の長靴がこちらへ近付いて来る。なんとなく嫌な予感がして、少年はベッドから身体を起こした。音は自分のいる居室の前で止まった。

「はい」

 ノックの音に違和感を覚える。教官ならば、問答無用でズカズカと押し入ってくるだろう。そうこうしているうちに、長靴が一足遠ざかって行く。彼は訝しみながらそっと戸を引いた。

「っ!!」

 あまりのことに、戸を開けた瞬間、思い切り惚けた顔をしたと思う。来訪者は黙って敬礼を寄越した。

「お兄ちゃん…」

 つられて敬礼を返しながら、少年は口の中で呟いた。

「週末だというのに腐っているな」

「いろいろあって、外禁中…なんだよね」

「それはまた災難だ」

「うん、まあ」

 恐らく外套の下には教官の制服を着ている筈である。てっきり怒られるものとばかり思った。シェールは拍子抜けしながら、部屋の中へと兄を招き入れた。

「寮長、断ったんだって」

「もう知ってるの?」

「今さっき下で聞いた。何故断った?誰にでもお鉢が回ってくるわけではないぞ」

「向いてないもん、そういうの。先生に報告しに行くのとかめんどくさいし、ひとのこと言えた義理でもないし。そもそもあんまりいい気がしない」

「………お前らしいな」

 散々な言い様に苦笑いを返す他なかった。これが自分の教え子なら確実に殴っている。

「もしかして、やってた?」

 シェールが好奇な目を向けた。

「いや」

「じゃあ、やりたかったけど出来なかったひと?」

「やりたいとは思わなかったが、やれと言われればやっただろうな」

「………らしいね」

「ふん、生意気な」

 タリウスはすっと立ち上がり、おもむろにシェールの物入れを開けた。

「ちょっ!お兄ちゃん!なにしてんの?」

 慌ててシェールは兄へ取りすがる。構わず、タリウスは下から上へと順に引き出しを開けた。その所作は恐ろしいほど手慣れている。

「全く…どうしていつまでたってもこう子供なんだ」

 棚の上に並べた菓子を前にタリウスは深い溜め息を吐く。

「好きなんだからしょうがないじゃん」

「もう一度言ってみろ」

「スイマセン…」

 ゾクリ、急激に背中が冷たくなる。

「煙草でも出てきたら教官に報告するところだが、そうするのすら恥ずかしい」

「煙草にはもう興味ない」

 なるほど、若いうちに芽を摘んだだけのことはあったか。

「見逃してやるんだ、代償は払え」

「いくら?」

「馬鹿なことを言っていないで、指導鞭を取ってこい」

 候補生の居室にはパドルが据え置かれている。規則違反を発見した際に、その場ですぐに罰するためだ。

 シェールは自身の教え子たちと同じように、極めて素直にこちらへ尻を向けた。傷だらけの尻を想像したが意外にもきれいだった。続けざまに六打打って解放する。その間、姿勢を崩すことはもちろん、声を漏らすこともなかった。実に良く訓練されている。

「ごめん」

 尻を擦りながら、シェールが上目遣いで自分を見た。幼い頃、叱られた後には必ず見せた表情である。

「全然優等生じゃなくって。がっかりした?」

 何を言うか。シェールの成績がずば抜けて良いことは記録を見るまでもなくわかる。子供の時分から自ら指導したのだ、当然の結果だと思った。素行にしたって寮長に推されるくらいなら、決して悪いほうではない。だが、間違ってもそんなことは言えない。

「全くだ。甘やかし過ぎたか」

「それはない!絶対それだけはない!」

 シェールは肩で息をしながら、絶対と繰り返す。

「入校する前、散々みんなに大変だって言われたけど、なんか意外に平気だった。そりゃ訓練はハードだし、規則は細かいし、先生は怖いけど、でも、お兄ちゃんほどじゃない」

 きっぱりと言い放たれ、タリウスには返す言葉が見付からない。

「だいたいベッドメイクとか引き出しの整理とか、子供の頃からやってるし、やらされたし。そんなことで今更怒られるほうがわかんない」

「そう、だな」

 何故躾のなっていない者の教育からしなくてはならないのか、先頃の会議で悲痛な声を上げた教官がいたのを思い出した。こうなることを想定したわけではないが、シェールには身の回りのことを自分でさせるよう早い段階から仕込んだ。それが功を成したのなら万々歳である。

「シェール。それはそうと、食事に出ないか」

「え、でも身分証が」

 シェールが呟く。

「二度とこんなへまをするな」

「うそぉ。そういうの、職権濫用って言うんでしょ」

 先ほど下で預かった身分証を放ると、シェールが何やら妙な勘違いをしたようだった。

「嫌なら来なくて良い」

「うそうそ!行く、行きます」

 無邪気な笑みを見せられ、こんなんで大丈夫なのかと心配になる。本科生に上がり、少しは男になった姿を拝めると思ったが、それはまたもう少し先までお預けのようである。


 了 2011.2.6 「敬礼」