ユリア=グロリア=リードソン、それが新たな名であり、正式な名である。故に、以後はそう名乗るように。

 男は、何の前触れもなく母の葬儀に現われ、自分が父だと名乗ると共にそう彼女へ命じた。それだけである。他には慰めの言葉ひとつなかった。

 ユリアは母を亡くした悲しみに暮れる間もなく、父の住む屋敷へと連れてこられた。広大な敷地にそびえ建つ豪奢な館、色鮮やかな調度品に、多くの使用人たち、そこには小さな頃絵本で見たおとぎ話のお城と寸分違わぬ世界が広がっていた。

 何もかもが、正に絵本のままだった。どんなに楽しげな絵からも決して笑い声が漏れ聞こえないように、この家はいつも静まり返っていた。彼女はいまだかつて家人が嬌声を立てるところを聞いたことがなかった。

「ユリアさん、少し良いかしら」

 夕餉も済み、自室へ籠っていると扉が叩かれた。

 義母である。義母は、その身体に王家の血が入っているというだけあり、気高く、美しく、そしてまた、にこりとも笑わなかった。

「今朝、また朝食に遅れたそうね。ここのところ毎日のようだけど、何かあったの?」

 義母とは大概別々に食事をしている。恐らく、姉妹のうちの誰かか使用人が報告したのだろう。

「起きるのが遅くなってしまって、間に合いませんでした」

「それはどうして?昨日の夜、遅くまでお勉強していたの?」

「いいえ」

「じゃあ、本を読んでいたの?」

 勉強も読書も好きだが、それでも昼間だけで充分に時間はとれる。それらが夜更けにまで及ぶことは滅多になかった。

「いいえ、昨日は時間どおりに寝ました」

「それならどうして?メイドがあなたにだけ声を掛けなかったの?」

「違います…」

「ユリアさん、きちんと話して」

 言い淀むユリアを義母は些か厳しい口調で促した。

「起こしてもらった後で、あんまりにもベッドがあたたかくて、やわらかくて、とても気持ちが良かったので、うっかりまた寝てしまいました」

「呆れた。なんてだらしのない娘なの」

 途端に不快感をあらわにする義母をユリアは見ることが出来ない。下を向いてじっと唇を噛んだ。ベッドも他の調度品と同じく一級品である。ついつい誘惑に負けてしまったのだ。正直に話したのだからそれで良いではないか。

「ひとを馬鹿にするのも大概になさい」

「そんなこと!」

「うそおっしゃい」

 ユリアは即座に目を上げる。違います、言い掛けるが鋭い声にすぐに掻き消された。

「だったら何故今朝のことを私に言いにこないの?今朝だけじゃないわ、今までずっとどうして黙っていたの?あなたには何でも話すよう、最初に言った筈です。お父様だって、良い子にしているようあなたにおっしゃったじゃない」

「それは…」

 そういう意味だとは思わなかった。

「いいこと、あなたがどう思おうと、ここにいる限り私はあなたの母親です。あなたのことは娘として扱いますからそのつもりでいなさい」

 物凄い剣幕である。義母がこんなにも大きな声を出せるとは知らなかった。

「わかりましたか、ユリア!」

「はい!」

 突然厳しく名を呼ばれ、ユリアは椅子から立ち上がった。

「ところで、このお部屋だけれど、あなたは気に入った?」

 一呼吸置いて、義母のトーンが元に戻る。

「はい、とても」

 初めて自室へ案内されたときは、まるでお姫様のお部屋だと思った。見るものすべてに彼女は心を奪われた。

「そう。この辺りの小物はみんな私が選んだのよ」

 言いながら、義母は洗面台を物色した。洗面器と水差しは白い磁器製で、共に薔薇の蕾があしらわれおり、縁は金で覆われていた。彼女の一番のお気に入りである。

「あら、良いブラシね」

 義母の目が小さなブラシの前で止まった。木製のヘアブラシは、きらびやかな洗面台からひとつだけ浮いていた。

「大きさといい、厚みといい丁度良いわ」

 咄嗟に、だめだと叫びそうになる。それは彼女が生家から運び出した数少ない思い出の品である。

「それはっ」

「あなたのお尻に、ぴったり」

「………え?」

 一瞬、時が止まった。ユリアは義母の言葉の真意がわからず、ただ茫然と立ち尽くした。

「頭と身体は対でひとつ。あなたはさっき頭ではわかってくれたみたいだから、身体のほうにも教えないとね。いらっしゃい」

 義母はブラシを手にベッドへ腰を下ろした。ユリアは未だ動けぬままだ。

「さあ、いらっしゃい」

 硬直した身体に義母が触れる。途端に呪縛が解けたかのように彼女は手足を動かす。

「いやっ」

「暴れるんじゃありません。お仕置きのお作法もしらないの?」

「知りません!」

 なんだかわからないがともかく身に危険が迫っていることだけは確かである。ユリアは逃げようと必死にもがいた。

「まさかここまで躾がなってないとは思わなかった。いいわ、教えてあげる!」

 娘を掴む手に力を入れ、強引にベッドまで引きずる。ユリアは半狂乱になって抵抗した。

「大人しくなさい!」

 膝の上へユリアを横たえ、ピシャリとお尻を打つ。

「きゃあ!」

 一体義母のどこにこんな力があるのだろう。もはやどんなに暴れても逃げ出すことはかなわなかった。

「だらしのない娘はお仕置きです」

「いやっ!やめて!!」

 たっぷりとしたドレスをまくり上げ、レースのたくさんついたドロワーズを下げる。幼さの残るお尻が露になる。

「きちんと反省なさい」

「いやあ!痛い!やめて!」

 義母の手が容赦なく肌を打ち据える。白いお尻に平手が浮かび上がり、幾重にも重なり、やがて全体がまんべんなく赤く色付いた。

「朝は誰だって眠いものです!お布団はいつだって気持ちの良いものです!だからと言って、欲望に忠実に生きたら、とんでもなく自堕落な一生を送ることになりますよ!」

「ごめんなさい!もうしませんから!」

 耐えがたい痛みが後から後から襲ってくる。ユリアは泣きながら必死に許しを乞うた。

「いけません。あなたのようにだらしのない人間は、またすぐ同じことをするでしょうからね」

「うっ!」

 鈍い音に重たい痛み、あまりのことに、何が起きたのかわからなかった。

「お尻の痛みはあなたの弱さです。よく反省なさい」

「ああ…ごめんなさい!許してください!お義母様!!」

 重い痛みは身体の内部にまで響き、ユリアは絶叫した。あとは言葉にならなかった。

「いいこと、ユリア。今この瞬間から心を入れ替えなさい」

「はい…」

「もういいわ。ドレスを直しなさい」

 ヒリヒリと痛むお尻に義母の手がやさしく触れる。

「いつまでもはしたない格好をしていてはいけません」

 その手のあたたかさに、うつらうつらしかけるのを義母の声が呼び戻す。今度は自分でお尻をさすりながら、ユリアは身体を起こした。

「私に何か言うことは?」

「ごめんなさい」

「それはもう聞いたわ」

 他にこれといって思い浮かぶ台詞がない。

「私はあなたにお仕置きをしてあげたのよ。お礼を言うべきでしょう」

「そんな!私、欲しいなんて言ってません」

 娘は泣きはらした顔で猛抗議をする。

「私だってあげたかったわけではないの。ともかくこれはマナーです。きちんとおっしゃい」

 誰が言うものかとユリアは思った。突然膝へ組み伏せられ、裸のお尻を嫌と言うほど叩かれ、この上何故お礼まで言わなくてはならないのか。

「あれほど痛い目に遭ったというのに、学習しないなんて、頭の良い子だと聞いていたのにがっかりだわ」

 義母の手が再びブラシに伸びる。

「いや!」

「ユリア!!」

 一体どうすれば良いのだろう。ぐるぐると思考が頭を回る。

 涙が一筋頬を伝う。

「あ…りがとうございました」

 目を閉じたまま頭を下げる。悔しさに涙があふれた。

 遠ざかる足音と扉を開閉する音に、義母の退出を知る。彼女は声を上げ泣いた。

 ベッドへ入った後も嗚咽はおさまらなかった。焼けるようなお尻の痛みも、その痛みに屈した自分も、どちらもたまらなく耐えがたかった。

 ここから逃げ出したい。家に帰りたい。お城もドレスもみんな要らない。魔法ならもう良いから解けてと懇願した。


「ユリアさま」

 しばらくそうしていると、メイドが扉を叩いた。誰にもこんな姿を見られたくない。もう眠ったことにして無視すれば良い。彼女はベッドの奥深くに潜る。

「おやすみのところ申し訳ございません」

 メイドが入室してくる気配がして、鍵を掛けておけば良かったと後悔する。

「お手当てをしにまいりました」

「手当て?」

「はい、奥様のお言いつけでございます」

「そんなの要りません!」

 一体どこまでひとを傷つければ気が済むのだろう。

「いけません、女の子の肌に傷が残るようなことがあれば一大事です」

 この身体ですらもう自分のものではないのだろうか。そう思うと、たまらなく悲しくなった。

「大丈夫でございますよ。みなさんよくあることですから、少しも恥ずかしいことはございません」

「みなさん?よく…ある?」

「ええ。お義姉様方はもちろん、奥様だって昔は」

 彼女はメイドの言葉を信じられない思いで聞いていた。てっきり自分だけがこんな仕打ちを受けるのだと思っていた。

「ほら、ユリアさま」

 メイドは布団をはぎ、先ほど義母のしたようにお尻をむき出しにした。その手際の良さに抵抗する暇もなかった。

「あらあら、奥様も随分と手加減なさったもので」

「手加減?これで!」

「ええ。一昨日のオーガスタさまなんて、それはもう見るも無残なお尻でしたよ」

 オーガスタは長女で既に成人を迎えている。義母に似て美しく、ユリアの知る長姉は従順そのものであった。確か昨日の朝もいつもどおり朝食の席についていた筈である。

「まあ事が事でしたから、仕方がありませんけどね。夜更けにお屋敷を抜け出すなんてねぇ。それから、ルーシーさまだって」

「あの」

 メイドがお尻に氷を乗せる。ユリアはなおも続くメイドの言葉を遮った。

「もう良いです。なんだかお義姉様たちに悪いわ」

「失礼しました」

 そこでメイドはおしゃべりを止めた。

 熱くなったお尻を急冷されるのは、思った以上に心地良い。そうとは知らず、先ほど義母を非難したことを心の中で小さく詫びた。

「奥様を恨んではいけませんよ」

 メイドの話から、この家でお仕置きと称して恥ずかしい、痛い目に遭わされているのは自分だけでないとわかった。だが、問題はそれだけではない。

「お義母様は私が嫌いだから」

「そんなことはございませんよ」

「だって、私の本当のお母さんは、お父様と…」

「奥様はユリアさまのことをとても心配されています」

 メイドはお尻から氷をはずし、変色した部分に軟膏を塗る。

「先ほどのことにしても、ユリアさまが遅くまで根を詰めて、お勉強なさっているのではないかと、心配なさってのことです」

「そんな…」

「そうでなければ、お淋しくてなかなかお休みになれないのかもしれないと、それはもう心を痛めておいででした」

 そんなことはひとことも言われていない。ユリアには義母という人間がわからなくなった。

「さあこれで大丈夫です。明日は一度でお目覚めくださいませ」

「はい、ありがとうございました」

 お尻の痛みは俄かに楽になり、心のほうも心なしか軽くなった気がした。しかし、それでも言いようもない疲労感は拭えず、彼女はそのまま夢の中へと誘われた。次に目が覚めたとき、まだこのお城にいたとしても、それはそれで良いかも知れない。


 了 2011.1.11 「気高い」