夜勤明けの朝、タリウスは軽い足取りで玄関の木戸をくぐった。昨夜はこれといったトラブルもなく、お陰で朝食が済むと共にすんなり解放された。

 扉を開けようとしたところで、階段の上に本が一冊、ぽつんと置き去りにされているのが目に入った。反射的にそれを拾い上げ、彼は苦笑いを漏らした。

 歴史の入門書である。今年に入ってすぐ、教科書として息子に買い与えたことは、未だ記憶に新しい。

 全く何のために学校へ行っているのだろう。今頃、忘れ物をしたことを教師に見咎められ、叱責されていているだろうか。それであれば良い。だが、教師にもいろんな種類がいる。

 そんなことを考えながら、頁をめくると、ふいにタリウスの目が止まった。教科書の易しい文体に似つかわしくない、細かな書き込みを発見したのだ。明らかに見覚えのある筆跡である。そう思い更に頁を繰ると、書き込みは続いた。そして、栞がしてある場所まで来て、確信する。

「そっちか…」

 落とし主は息子ではなかった。

 さて、どうするべきか。わざわざ届けに行くのは、流石に過保護というものだろう。だいたい要領の良いユリアのことだ。商売道具のうちひとつを忘れたとて、機転を利かせ難なく乗り切るかもしれない。

 そう思う一方で、栞のある頁には今日の日付と宿題まで書かれている。そうでなくとも、教師が忘れ物とはいただけない。何より、見付けてしまった以上、このまま黙殺するのは心苦しい。今日に限って、早い時間に帰って来られたのは何かの縁かもしれない。

 結局、タリウスは宿屋に入ることなく、まわれ右をして妻の元へ向かった。


 ユリアの話から彼女の新しい職場が女の園であることは、疑いようがなかった。軍装をしている以上、不審者でこそないだろうが、それでも場違いなことこの上ない。

 どうしたものかと考えあぐね、目的地の敷地沿いに歩いていると、外周に面した花壇に、しゃがみこんで作業をしている人物が見えた。彼女はエプロン姿で、無心で雑草を抜いていた。

 下働きの女性だろうか。それならば、言伝てと共に忘れ物を託すのに都合が良い。タリウスが女性に声を掛けようとしたそのとき、彼女はふいに顔を上げ、額の汗を拭った。

 二人は期せずして、目が合った。女性は立ち上がり、こちらに向けて丁寧に会釈した。タリウスが黙礼を返す。

「当校に何かご用ですか?」

 想像したより堂々とした、張りのある声だった。

「少々、届けものがありまして」

「保護者の方でしたか」

「いえ、その、妻がこちらでお世話に…」

「奥様?ああ、もしかしてジョージア先生の!申し遅れました。私、院長のクレメンスです」

「い、院長先生でしたか。これはまた大変な失礼を」

 まさか院長がこんなところで草むしりをしていると思わなかった。タリウスは居住いを正し、改めて名乗った。

「院長が土いじりなどするべきではないと叱られるのですが、大事な花壇を人任せにするのは何だか憚られて。ごめんなさいね、こんな格好で」

「いいえ、こちらのほうこそ突然押し掛けて、申し訳ございません」

「かまいません。それで、届け物と言うのは?私がお預かりしますよ」

「それではあまりに申し訳ない」

「良いんですよ。院長の仕事なんて殆どが雑用みたいなものです」

 遠慮は無用です、と院長は笑った。

「それはそうと、ジョージア先生には驚かされました」

「はい?」

「輝くような笑顔に、あの物腰でしょう。たちまち生徒たちの人気者に」

「ああ、そうですか」

 ここで言うジョージア先生がユリアのことだとわかるまでに、若干時間を要した。

「それが、授業中にああも変貌するものだから。正直なところ、初めて彼女の授業を見たときには、私も驚きました。彼女は今や当校きっての鬼教師ですわ」

「は?」

「まあ、すみません。人様の奥方を捕まえて鬼だなんて。失礼いたしました。失言です。取り消します」

「ああ、いえ。そういうことでは」

 俄には信じがたい台詞に思わず聞き返したところ、院長は自分が気分を害したと思ったようだった。過剰なまでに謝り倒され、タリウスは恐縮した。

「なんと言うか、私自身はそう感じたことがないものでして」

「なるほど、士官学校では標準的な指導方法で?」

「申し訳ないのですが、おっしゃっている意味がよく…」

「今、少しお時間ございます?百聞は一見に如かずと申しますもの」

 院長はタリウスを伴い、花壇に沿って歩いた。

「ここからですと、どの授業も聞き放題なんですよ。庭仕事の隠れた利点です」

 確かに、開け放たれた窓からは、教師たちの声がよく聞こえてきた。


「それでは、前回のおさらいです。まずは問の一から、答えてください」

 耳馴染みのある声が聞こえてきたところで、院長が足を止めた。タリウスもまたそれに倣う。

「正解です。それでは、続いて問の二です」

 声の主は、自分の知っているそれと寸分違わず、涼やかに授業を行っていた。

「どうしましたか?問の二、答えてください」

「わ、わかりません」

 蚊の鳴くような声が返されるのが、辛うじて聞き取れた。いつものユリアなら、某かの助け船を出すか、はたまた質問自体を変えるかする局面である。

「何故?」

 だが、予想に反して、教師は冷ややかに問うた。

「つい先日も、同じような問題でつまずいていましたね。そのとき、次回までによくさらっておくよう命じた筈です。それから、こうも言いました。ひとりで手に負えなければ私のところへ来るようにと。でも、あなたは来なかった。つまりは、自分の力で理解したことになります。それなのに、答えられないのは何故ですか」

 教師は、立て板に水の如くすらすら言葉を発した。表向きは、あくまで柔和な姿勢を崩していないが、一方で言葉では言い表せない圧をも感じた。恐らく、この状況でも彼女は笑っているに違いない。

「この時間はあなたひとりのものではありません。質問に答えなさい。今すぐに」

「すみません、先生。おさらいを…しませんでした」

「お話になりませんね。まるで時間泥棒だわ。学ぶ意志がないのなら、退席していただいて結構です」

 立ちなさいと、教師は凄んだ。

「ごめんなさい、先生。今度は、必ず…」

 少女の言葉が途中から嗚咽に変わった。

「結構です。ただし、約束を果たすまで、あなたの席は一番後ろです」

 椅子を引く音がして、それから小さな足音がコツコツと床を鳴らした。

「待って。忘れ物よ」

 教師の言葉に、ピタリと足音が止まった。

「板書も忘れずにね」

 先程よりかいくらか角の取れた声だった。

「立ったまま石板に教科書では、どうしたって手が足らないでしょうに」

 そう言う院長は呆れているようにも感心しているようにも思えた。タリウスは小さく吐息した。自分があの中のひとりなら、間違いなく胃を悪くしていると思った。

「もう充分です。そろそろ失礼します」


 その日の夕刻、階段を上がる軽い足音にタリウスは隣人の帰宅を知った。ノックの音に、すぐさま戸を開けると、突然正面から抱きつかれた。

「ユ…!?こら!」

 咄嗟にたしなめるも、ユリアは一向に意に返さず、自分に取り付いたままこちらを見上げてきた。

「ただいま戻りました」

「もし、シェールがいたら…」

「確か今日はお稽古の日ですよね」

「そうですが」

「それに、シェールくんがいたら、きっと率先してドアを開けてくれている筈です」

 だてに何年も隣に住んでいません、そう言って笑うユリアに、応酬する言葉が出て来ない。タリウスは吐息し、ひとまず彼女を部屋へ招き入れた。

「それはそうと、今朝はありがとうございました。確かに鞄に入れたと思ったのですが、見当たらなくて、焦りました。まさか届けてくださるなんて」

「お役に立てたのなら何よりです。今朝は考え事でも?」

「いえいえ、今朝はそんな余裕とてもありませんでした」

「何故です?」

「それは、ですね…」

 ユリアがそっと身を引こうとするのをタリウスが阻んだ。

「まさか、また?」

「でも、間に合いましたよ?」

 無邪気に言い放つユリアを前に、今朝のことがまるで嘘のように思えた。

「間に合ったは良いが、それで忘れ物をしていては世話ないでしょう。あなたの生徒たちがどう思うか」

「え?」

「そうでなくとも、二度目の失態には随分厳しいようにお見受けしましたが?」

「嫌だわ。嘘でしょう」

 途端にユリアが血相を変えた。

「授業を見ていらしたの?」

「院長に些か強引に誘われて」

「院長と?一体どこから見ていらしたんですか」

「見ていたと言うと語弊がありますが、花壇のところから聞いていました」

「ああ、そういうことでしたか」

 そこで、ユリアは大いに合点がいったようで、しきりに頷いていた。

「他の先生たちがおっしゃっていたんです。院長は滅多に授業を見にいらっしゃらないのに、ようでもないことをよくご存知だって。まさか外にいらしたとは。驚きました」

「それはこちらの台詞です」

「はい?」

 彼女はさも不思議そうにタリウスを見上げた。

「ミス・シンフォリスティでなくなった途端、ああも豹変するとは…」

「豹変、ですか」

 ユリアは困ったような表情を見せ、それからとうとうと語り始めた。

「あの子達と彼らとでは立場が違います。私は、予科生も含め士官候補生を尊敬していました」

「尊敬?」

「ええ。彼らはあの若さで、自らの意志で個を捨て、陛下に忠誠を。彼らは学生ではありませんし、当然、すべては自己責任です。ですから、授業中に居眠りをしようが、課題を怠けようが、彼らの勝手です。手を抜いた代償はどこかで彼ら自身が支払うしかありませんから」

「しかし、それでは」

 タリウスが反論し掛けるが、ユリアはかまわず先を続けた。

「もっとも、初めの頃はもう少しシビアでしたけれど、主任先生は教養で不可を付けることを許してくださいませんでした。つまり、是が非でも可以上を取らせるような授業をしろということだと、理解しました」

「はあ」

 初めて耳にする話だった。毎年ひとりの落第者も出さないのは、てっきり彼女のやさしさ故だと思っていた。

「そう考えたら、彼らのために授業することが楽しくなりました。ただ知識を詰め込むより、あの時間を目一杯楽しんで欲しいと思いました。そして、いつか何かのときに役立ててくれたらいいなって。教養は人生を豊かにするものですから」

 そうして、とびきりの笑みを見せられ、最終的に黙らざるを得なくなる。彼とて思うところはあったにしてもだ。

「方や、今の生徒たちは、自分の意志とはほぼ無関係にあの場にいます。彼女たちの殆どが、ご両親の愛、この場合はお金と言うことになりますが、そのお陰で教室に。こちらとしては、学費をいただいている以上、ある程度は無理にでも成果をあげさせる必要があります。良いやり方ではないかもしれませんが、そうでもしないと、あの子達勉強しないんですもの」

 子供の頃から好奇心旺盛で、学ぶことに貪欲であった彼女には、理解しがたいことなのだろう。ユリアは深いため息を吐いた。

「私が子供なら、是非とも遠慮願いたい、胃の痛くなるような授業でしたが」

 そう言ってからかうと、ユリアは負けじと挑発的な笑みを浮かべた。

「心臓に悪い授業よりマシでは?」

「私のは訓練だ」

「その二つの違いは何ですか」

「わかりませんか」

「ええ、ぼんやりとしか」

 あどけない瞳が間近に迫る。

「正解を身体に教え込むのが訓練です。叩き込むと言っても良い。丁度こんな具合です」

「タ、タリウス?!」

 反射的に後ずさるユリアを捕まえ、すぐさま膝の上へ引き倒す。

「嫌っ!!」

 こうなったら最後、次に何をされるか、考えるまでもない。ユリアはイヤイヤと身体をくねらせた。

「大人しくしなさい」

 そんなことをしても無駄だとわかっていても、自然とお尻が逃げた。しかし、屈強な平手は、左右に揺れるお尻を的確にとらえた。

「いやあ!」

「教師が、言うに事欠いて寝過ごすとは何事ですか。その上忘れ物では、全く示しがつきませんね」

「ごめんなさい!もうしないわ」

「あなたのもうしないはいい加減聞き厭きました。一体これで何度目ですか」

 痛くて辛いお仕置きを受けながら、ユリアの意識がふいに記憶の彼方へと飛んでいく。


『一体これで何度目なの』

 幼い自分のお尻を叩くのは、若い頃の継母だ。

『いい加減、あなたのごめんなさいは聞きあきたわ』

 泣きながら謝罪を繰り返す自分を、継母はなおも執拗に打ち据えた。ほんの一瞬でもこの苦しみから逃れたくて、懸命に手足をバタつかせては、はしたないと更なる叱責を受けた。

『ユリア!』

 そうして強く名前を呼ばれる度、胸がきゅっと苦しくなった。


「…か?」

 ふいに、何事かを問う声が耳を掠めた。

「聞いていますか?ユリア!」

「は、はい?」

 あの頃と同じようにきつく名を呼ばれ、ユリアははっとして我に返る。

「ごめんなさい、少々考え事をしていたものですから…」

「私のお仕置きの最中に上の空とは、良い度胸をしていますね」

 彼女の背中を冷たいものが伝った。

「いえ、そんなつもりは…」

「立ちなさい」

 鋭く命じられ、ユリアは恐る恐る立ち上がった。タリウスはそんな彼女には目もくれず、反対側のベッドへ向かった。部屋の中央から向こうは、この部屋のもうひとりの住人のものだ。

 彼はおもむろに引き出しに手を掛け、目当てのものを探り当てると、こちらへ取って返した。

「どうやら、あなたを甘やかし過ぎたようだ」

 タリウスは息子のところから拝借してきた折檻道具で、自分の手の平をピシャリと打った。

「い、嫌です…」

「平手では効かないのでしょう?ならば致し方ない」

 恐怖から棒立ちになっているユリアの腕を取り、再び膝へ押さえ込もうとする。彼女はどうにかして逃れようと、床を蹴って暴れた。

「そんなもので叩かれたら、どうかなってしまうわ!無理です!」

「あいにくあなたに選ぶ権利はありません。痛い目にあって反省しなさい」

 冷酷無比な囁き声に、一瞬で身動きが取れなくなる。

「痛っ!!」

 パシンという大きな音が鳴り、すぐさまお尻が熱くなった。ユリアは思わず身体を仰け反らせるが、構うことなくお仕置きは続行される。

「嫌っ!ごめんなさい!!」

 先程とは違い、タリウスは終始無言だった。そのせいか、今度は継母の幻像に惑わされることもなかった。

「いやあ!ああ、ごめんなさい!」

 それどころか、厳しい仕打ちに、むしろ現実から逃れようがない。堅いパドルでひとつ打たれる度に、お尻がビリビリと焼けるように痛んだ。

「ごめんなさい!!」

 回を追う毎に重く積もっていく痛みに、これ以上は到底耐えられない。

「もう許してください。もう、もう、本当に!良い子にしますから!!」

 ユリアは絶叫した。その後は言葉にならず、声をつまらせて泣きじゃくった。

「大丈夫ですか」

 お仕置きする手を止めた後も、子供のように泣きべそをかくユリアを前に、やりすぎたかとタリウスは苦笑した。ともあれ、やさしく抱き起こし、背中を擦ると、涙に濡れた瞳が恨みがましくこちらを見た。

「子供の頃のことを思い出していました。母の膝の上で、同じようにお仕置きを。痛くて、恥ずかしくて、怖くて。嫌で嫌でたまりませんでした。大人になって、ようやく解放されたと思ったのに…」

「ならば、これが最後にしますか?」

「そんなことっ!そんなことは、今考えられません」

 ユリアが興奮気味に喚いた。そうして大粒の涙をこぼしながらこちらに身を預けてくる。タリウスは、まるで壊れ物を扱うかのように彼女を抱き止めた。

 しばらくそのままなだめていると、ふいにユリアが顔を上げた。ばつの悪そうな表情を見せる彼女に、もう大丈夫だと思った。

「本当に嫌なときはすぐに言ってください」

「嫌だったわけでは、ありません。ただ…」

「ただ?」

「確かに寝坊しましたけど、でも間に合いました。教科書だって、届けていただいたお陰で事なきを得ました。結果的に大惨事にはならなかったのに、あんなに叩かなくたって」

「大惨事にならなかったからです。失敗して、この世の終わりのように落ち込むあなたを見たくはない」

 ユリアがはっと息を呑んだ。身に覚えがあるのだろう。それも幾度となく。

「でも!」

「パドルを使ったのは、全然反省が見られなかったからです。お仕置きの途中で物思いにふけるなんて、怒られて然りです」

「それにしても、物凄く痛かったわ」

「それは良かった。しっかり反省出来たでしょう」

 ユリアは口を尖らせるが、ふわりと髪を撫でてやると、心なしか機嫌を直したようだった。

「これで生徒の忘れ物に対しても、遠慮なく叱れますね」

「ええ、お陰さまで!」

 だが、すぐに憤懣やる方ないといった様子で、キッとこちらを見やった。それでこそユリアである。


 了 2021.3.14 「覚醒」