石造りの回廊に軽い靴音が響き渡った。

 新兵の頃は、この靴音が他人のものか自分のものか俄には区別がつかず、随分と難儀したものだ。

 緊張した面持ちで廊下を歩むも誰にも出合わず、油断して目線を下げたところで正面から上官と出会す。無論、上官からは無礼だと怒鳴られた。

 思い返せば、あの頃はとにかくよく叱られていた。仲間意識が強い代わりに、ほんのわずかでも慣例やしきたりからはみ出せば、徹底的に制裁を受ける。

 とどのつまり、出る杭は打たれるのだと知り、それからしばらくは目立たぬよう、ひたすら己の足下ばかり見詰める日々を送った。


「おはようございます」

 部下である。彼もまたあの頃の自分と同じように、終始不安げな面持ちをしていた。

「何?」

 部下の視線が遠慮がちにこちらへ送られてくる。

「い、いえ。いつもと何か違うような感じがして…」

「今朝は起きるのが遅かったから、髪を編んでいる暇がなかったのよ。おかしい?」

「いえ、自分はそっちのほうが良いかと」

「は?」

「何でもありません。失礼します」

 慌てて敬礼を寄越すと、部下は脱兎のごとく去った。ミゼットの口から大きな溜め息が漏れた。

 時代は移り変わり、今では自分とて畏怖の対象となった。そんな自分が恐るるべき存在もそうそう多くはない。だがしかし、ある種の畏怖だけは心の深奥に巣食い、未だ畏怖の親玉となって、陰鬱な靄を生み出している。


「髪型を変えたのは良いとして、猛烈に生気のない顔をしているのはどうして?まさかお前…」

「何でもありません」

「新兵じゃあるまいし、健康管理くらいして欲しいものね。もう若くないんだから」

 彼女については、畏怖は元より嫌悪すら通り越し、もはや憐れみの域に達している。

「手遅れになる前に受診しなさい。変な病気を流行らされたらたまらないもの」

「恐れ入ります」

 ミゼットは自嘲した。冷徹な彼女にそんな台詞を言わせてしまうほど、今の自分はひどい有り様なのだ。


 一日の任務を終え帰宅する段になると、靄はますます濃くなっていた。

 家に帰りたくない。そんなことを考え、これではまるで子供だと思った。今の自分は悪戯の発覚を怖れ、無意味に遠回りを繰り返す子供と大差ない。

 苦肉の策でさりげなく夜勤に志願するも、件の上官が今日に限って妙な気を回したために、それも叶わなかった。

 諦めて自宅へ戻ってからは、夫の急な夜勤を期待した。こんなときに都合良く緊急事態でも起きはしないかと考えかけ、流石にそれは不謹慎かと思い直す。

 そうこうしていると、玄関の木戸が開く音が聞こえた。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 極めて自然に振る舞うつもりだったが、緊張に声が震えた。

「お茶を飲む?」

「いや、今は良い」

 夫は二階へは上がらず、その足でダイニングの椅子へ腰を下ろした。

「ミゼット、今朝の続きをしよう」

 やはりそうきたか。夫の言葉にミゼットはその場に立ちすくんだまま動けなくなった。

 事の発端は今朝へと遡る。


「今日は休みかい」

「いいえ、今何時…?」

 ベッドの上で薄目を開けると、目の前に懐中時計を垂らされた。

「う、うそでしょ」

 時計の針は普段家を出る時刻の五分前を指している。確か夫の時計は二分ばかり早い筈だが、それにしても残りあと七分である。そう思ったところで、無情にも長針がカチリと振れた。

「きゃああぁぁぁあ!!」

 絶叫の後、ミゼットは素足のままベッドから飛び降りた。

「何だね、品がない。悪いが先に行くよ。戸締まりを忘れずに、ああ、それから火の元にも…」

「使わないわよ!」

 恐ろしい剣幕で怒鳴り散らす彼女は既に軍服姿で、今は長い髪をどうにかしようとリボンと格闘中である。

「起こしてくれたっていいじゃない」

「だから今、起こしてやっただろう」

「だからもう少し早く…」

「甘ったれるのも大概にしたまえ」

 一瞬、身支度をする手が完全にお留守になった。

「どうやら私は君を甘やかし過ぎたようだ。たった今、そう確信した」

「ゼイン」

「行って来る。今日という今日は簡単には許さないからそのつもりでいなさい」

 顔面蒼白になったミゼットを一瞥し、ゼインは家を後にした。


「最近の君は、どうも気が緩んでいるようだ」

 夫は椅子の上で足を組み、下から自分を見上げた。

 確かにここへ移り住んできてからというもの、それまであった緊張の糸が徐々に融けつつあった。長いことひとりで生きてきた者に、これからは依るべき者があるとなったら、そうなって然りだと思った。

「ここのところ帰りが遅かったものだから、ちょっとその…」

「疲れていたなんていうのは理由にはならない。そんなものはみんな同じだ」

 夫の切り返しを受け、もっともな話だとミゼットは項垂れた。

「頼られるのも甘えられるのも嫌ではないし、むしろ歓迎だ。だが、そのことで君をだめにしてしまうというなら話は別だ」

 夫は毎朝、先に目覚め隣で身支度を始める。そうしてミゼットが自発的に起きるよう仕向けていたのだが、彼女は無意識のうちに気付かないふりをしていた。必ず最後には夫が声を掛けてくれると踏んでのことである。

「ごめんなさい。今後は行いを改めるから」

「君の自覚のなさが招いた失敗だ。たまたま私が夜勤だったらどうなったと思う」

「ひとりのときはちゃんと起きてる」

「それこそ私に頼りきっている証拠だろう。それに、普段から危機感を持たなければ、必ずいつか大怪我をする。そうだろう?」

 返す言葉が見付からないまま、時だけが流れていった。

「今日の君はまるで子供だったね。だらしのない娘は、お尻を叩かれて反省すると良い」

「ちゃんと反省してる。そんなことをされなくても…」

 今朝のお仕置きで充分肝が冷えた。

「私にはあのまま君を置き去りにしていくことも出来たのだよ」

 しかし、あのときはすぐにそうとは思わなかった。それを言われると立つ瀬がない。ミゼットは項垂れたまま、下着に手を掛けた。

「結構。膝に来なさい」

 足を組んだゼインの膝へ覆い被さるようにして身体を乗せた。手足を床に付け、お尻だけが高く突き出される。羞恥に体温が上がった。

 程なくして、ピシャリと平手が落とされた。しかし、大した強さはなく、恥ずかしさだけが加速した。

 ピシャピシャと小気味の良い音を立てながら、徐々にお尻が熱くなっていく。既に相当な回数を叩かれている計算になるが、限界にはまだいくらかある。何かがおかしい、そう感じたときだった。

「私を信じてもらうのは構わないが、見境なく甘えてもらっては困る。ここらでその甘えた考えを叩き直さなくてはなるまい」

「いたっ!」

 突然襲ってきた質の違う痛みに、ミゼットは思わず後ろを振り返った。

「指導鞭?!」

 夫の手には、手のひらサイズのパドルが握られていた。一体どこに隠し持っていたというのだ。

「兵舎からくすねてきたわけではない。君のために新調した」

「いらないわよ、そんなもの」

「わがままも大概にしなさい」

 更なる痛みがお尻を襲った。予期せぬ痛みにミゼットは大きく足を蹴りあげた。今日は鞭の出番はないと完全に油断していたのだ。

「反抗的だね。とことん子供になるつもりか」

「違う!そんなつもりは…」

「ならばお行儀良くしていなさい」

 そこから更に数回打たれたところでお尻が悲鳴を上げ、重い痛みが徐々に中へと積っていく。

「今回のことは、今日まで君を甘やかした私にも責任がある。だから責任を持って君を矯正する」

「わかった!もうしない!だからもう許して」

「水はね、高いところから低いところへ流れるのだよ。つまり、その逆をするのは至難の技ということだ。そういうわけだから、まだまだ許すわけにはいかないな」

 言い終わるや否や、強烈な痛みがお尻に降り注ぐ。ミゼットはあまりの痛さにうっかり叫びそうになって、寸でのところで口に手をあてがう。夫はと言えば、そんな自分に構うことなく左右のお尻をリズミカルに打ち据えた。

 いくら星の数を増やそうとも、この男が畏怖の対象から外れる日は未来永劫来ない。絶望の中、そんなことが脳裏をよぎった。


 了 2012.6.5 「畏怖」