「ただいま」

「おかえりなさい」

帰宅を告げると、息子は読んでいた本から目を上げ、こちらを見た。彼の周囲には今読んでいるもの以外にも本が数冊、乱雑に置かれていた。

「何故お前はいつも出したら出しっぱなしなんだ。きちんと片付けなさい」

「えーと」

シェールはさも不思議そうに辺りを見回し、続けてこう言った。

「寝る前にはちゃんと片付けるよ」

何故だろう。息子の言いように無性に腹が立った。

「口答えをするんじゃない」

「え?ああ、はい」

思わず声を荒らげると、一瞬の間があった後で、今度は素直に返事を寄越した。


着替えを済ませ新聞を広げるが、心が騒がしくて内容が少しも入って来ない。

原因は仕事だ。自分勝手で自制心のない訓練生に苛立ち、有無を言わさず結果を求めてくる上官に追い詰められる。毎度のことだが今年は特に酷い。

そこまで考えて吐息する。家にいるときくらい両者の呪縛から解き放たれて然りだと思った。

すると、今度は目の前の少年のことが気にかかった。少年は相変わらず、書籍に夢中である。ただ読書をしているというより、調べものをしているらしく、時折忙しく本を取り替えていた。 そんな息子を見ているうちに、心を騒がせているもうひとつの原因に行き当たった。

「シェール」

「なあに」

息子は本に視線を落としたままこちらの呼び掛けに応えた。

「ごめん」

「え?」

今度は息子と目が合った。

「さっきのは八つ当たりだ。お前は悪くない」

息子はぽかんとして瞬きをひとつした。

「悪かったな」

「いいよ、気にしてない」

そして、とびきりの笑顔を見せてくれた。

「お前はやさしいな」

「今気が付いた?」

「いや、そんなことはない」

無邪気な笑みを見せられ、荒廃した心がたちまち潤いを取り戻していくようだった。

「ねえ、何があったの?」

「別に何もない」

「絶対ウソだよね」

「お前に言うべきことではない。それに、もう大丈夫だ」

先程、もしもう一度言い返されたら恐らくは言い合いになっただろう。そうならなかったのは、あの場で理不尽と思いながらも息子が引いてくれたからに他ならない。

「お前のお陰だ」

「別に何にもしてないよ?」

「それがそうでもない」

「変なの」

すっかり満ち足りた気持ちでシェールに笑い掛けると、彼もまた笑った。


 2020.3.7 「微笑み」 了