「荷造りは済んだのか」

「うん。終わった」

 実のところ、荷造り自体はもう何日も前に終わらせていたが、それでも過不足がないか気になり、何度か抜き差しを繰り返した後で、最後に今一度中身を確かめていた。

「とうさん。やっぱり試験が終わった後、一回帰って来たい」

「試験日から入校式まではさして日がない。その間にやらなくてはならないことがごまんとあるんだ。わざわざ時間をかけて往き来する必要はない」

「でもそれは、うまくいったときの話だよね。もしダメだったら…」

「何を弱気なことを。あれだけ準備しておいて、万に一つも落ちるようなことがあれば、ただではおかない」

「そんなこと言ったって」

 何故父は、この期に及んでプレッシャーになるようなことを言うのだろう。さも不機嫌そうにこちらを見やる父を前に、シェールは溜め息を吐いた。 彼は明日、士官候補生採用試験を受けるために、住み慣れた王都を離れる。言うまでもなく、中央士官学校にはタリウスをはじめとする知り合いが多数いるため、仕官するには必然的に地方へ赴く必要があった。

「何があるかわからないし、せめて帰りの路銀くらいは…」

「仮に試験に落ちるようなことがあれば、そのときは来年まで向こうにいろ」

「そんなこと出来るわけないじゃん」

「ならば、帰りの路銀くらい自分で都合しろ」

「本気で言ってるの?」

「ああ、そうだ。いざとなったら、また菓子屋ででも働かせてもらえば良いだろう」

「信じられない。何年前の話?」

「あんな子供にも出来たんだ。今のお前に出来ないわけがないだろう」

「わかった。もう良いよ」

 これ以上話したところで埒が明かない。シェールは苛立ちを露にし、部屋を後にした。


 自室に戻ったシェールは、ひとり特大の溜め息を漏らした。あんなことを言うためにわざわざ父を訪ねたわけではない。本当は、今日まで育ててもらった感謝の気持ちを伝えたかったのだ。

 普段は照れ臭くてとても言えないが、今夜はひとつの節目としてきちんと礼を言う筈だった。それなのに、礼どころか喧嘩になるとは全く予想していなかった。よりにもよって、最後の晩に一体自分は何をやっているのだろう。

 父が怒りっぽいのはいつものことだ。そんなことより大事なのは、孤児になった自分にかつて父が情けをかけてくれたことだ。ぶつかることも多かったが、それだって本気で自分のことを心配してくれていたからだ。

 頭の中は、明日からの不安と今日までの日々のことが入り交じり支離滅裂だった。考えても考えても少しも思考がまとまらない。ただひたすら、こんな筈ではなかったという思いだけが募っていった。


 翌朝、いつもより格段に早くシェールは目を覚ました。昨夜はあれこれ考えるうちに、気付けば眠りについたため、少しも寝た気がしない。だか、そうかと言って二度寝をする気にもならず、朝焼けの中、シェールは水を汲みに屋外へと出た。

 井戸には先客がいた。

「おはよう。早いな」

「とうさんこそ」

 父もまたろくに寝ていないのかもしれない。だが、そんなことを問えるわけもなく、それ以上の会話が続かなかった。ただこのまま別れるのではあまりに忍びない。

「散歩に行かない?」

「散歩?ああ、良いよ」

 思い付くまま口に出すと、父は快諾した。

 そうして父とふたり並んで石畳を歩いた。思い返せば、幼い頃にはこうしてよく連れだって出掛けたものだ。その際、迷子にならないようにと、大きな手がいつも自身の手を握ってくれた。いつしか自分はその手から離れ、二つの手の大きさも変わらなくなった。

 相変わらず両者の間に会話はない。シェールは頭の中で昨夜考えた台詞を必死におさらいするが、どれひとつとして出てこなかった。

「こっちか?」

「うん」

 分かれ道に差し掛かったところで、シェールは迷わず上りを選んだ。坂を下れば一周して家に帰り着くが、それでは本当にただの散歩になってしまう。

「しばらく帰れないから、上まで行っておこうかなと思って」

 急坂を上り切れば見晴らしの良い高台に出る。頂上へ辿り着くには少々骨が折れるが、そこから町が一望出来た。

 眼下に現れた見慣れた景色を前に、シェールの脳裏にはこれまでのことが次々と思い出された。

「とうさん、今まで本当に…」

「結構だ」

「え?」

 意を決して口を開くも、無情にも父によって遮られてしまう。

「これまでの礼を言うつもりなら、そんなものは不要だ」

「なんで?」

「家を出ると言っても別段一生帰らないわけではない。だいたい二年なんてあっという間だ」

「そりゃとうさんにとってはそうかもしれないけど」

「…られるか」

「え?」

 父が吐き捨てるように何事かを呟くが、よく聞き取れない。

「そうとでも思わなければ、とてもではないがやっていられない。毎日家に帰れば必ずお前がいて、どんなに嫌なことがあろうと、どれほど疲れていようと、お前の顔を見ればすべてがどうでも良くなった」

「そんなの、淋しいのは僕だって同じだし、それにこれからのことを考えたら、本当にたまらなく不安なんだけど」

 この段になって、シェールはようやく父が不機嫌な理由を思い知った。父にとっても、自分の存在はもはや当たり前になっているのだ。

「正直、お前のことは微塵も心配していない」

「は?」

「順当に行けば、まず間違いなく試験には通るだろう。その先のことにしても、お前の事だ、そつなくこなすに決まっている。そうして二年後には、意外と楽しかったとか何とか言って帰って来るのだろう」

「ちょっと待ってよ」

 そこで、シェールはたまらず吹き出した。

「何故笑うんだ」

「だって、見てきたように言うんだもん。おかしいでしょ、どう考えたって」

 シェールは笑いをこらえるのに必死だった。

「大丈夫だよ、とうさん。とうさんはいつだって自分のことは後回しだったじゃん。それなのに、僕が家を出るっていう日に、息子のことより自分の心配してるんだよ。とっくに気持ちを切り替えてる証拠だよ」

 言いながら隣を窺うと、父は苦笑いを浮かべていた。

「お前は本当に良い子だったな」

「うっそ。全然だよ」

 思ってもいなかった台詞に、シェールは目を丸くした。

「散々いろんなもの壊したし、言い付け破ってばっかりだったし、おまけにすぐ迷子になって、いつもとうさんに心配掛けてた」

「お前を心配するのは、もはや趣味みたいなものだ」

「だったら、これからもたまには僕の心配してよね。とうさん」

 俄に強く呼ぶと、初めて父の視線をとらえることに成功した。

「今までありがとう。もうあんまり無理しないで元気でいてね」

 父は一瞬驚いたような、呆(ほう)けたような顔をした後、これまで見たことがないくらい柔和な笑みを見せた。

「人を年寄り扱いするな」

「でももう若くはないでしょ」

「何?」

「だって、本当のことじゃ…痛っ!」

 言い終わる前に、バシンという大きな音がして、続いてお尻に衝撃が走った。

「ごめんってば」

 シェールがばつの悪そうな顔を見せるも、タリウスのほうは何事もなかったかのように、目前の景色に見入っていた。

「お前のほうこそ身体に気を付けなさい。若いからといって過信するな」

「わかってる」

「シェール、行っておいで」

 ふいに見上げた父の瞳には、くっきりと自分の姿が写し出されていた。


 2020.7.11 「瞳」 了