今朝のミルズ家の食卓には、三人分の朝食が並んでいた。ひとつは主人であるゼインの分、
もうひとつは万年居候のミゼットの分、そして残りの一つはシェールの分だ。
彼は何もミゼットの念願かなってミルズ家へやってきた、わけではない。現在、彼の兄である
タリウスが、ゼインに代わって地方へ出張に出ている。幼いシェールがずっとひとりで留守番
というのも憚られ、兄が不在の間はミルズ家で面倒を見ることになったのだった。
「今朝はあまり食が進んでいないようだが」
ゼインの言うとおり、食いしん坊のシェールにしては珍しく、皿の上のものがあまり減っていな
い。
「もしかして、おいしくない?」
不安げに様子を窺うのはミゼットである。
「ううん、違う。そんなことない」
おいしいよ、とシェール。実際、ミゼットは料理上手だと思った。初めて彼女の料理を口にした
ときには、悲しいかな自分の母との差を歴然と感じたくらいだった。それ故、味がどうこういう問
題ではなかった。
シェールは慌ててフォークを握り直すが、いまいち食事に身が入らない。彼の視線は卓上の
ある一点に注がれていた。大人二人は首を傾げたまま、食事を続けた。
あらかた食事が済むと、ミゼットがお茶が入ったポットを手にやってきた。そして、テーブルの
上に伏せてあったカップに手を伸ばす。
「ん…?」
カップの陰に何かが潜んでいるのが見えた。と、次の瞬間・・・。
「う、ぎゃあああぁっ!!」
耳をつんざくような悲鳴が上がる。彼女は咄嗟に飛びのき、同時に持っていたポットから湯が
溢れ出る。
「熱っ!」
「ミゼット!」
ゼインは立ち上がり、混乱するミゼットからポットを奪う。
「どうしたっていう………あ…」
ミゼットの足元に、ぴょこぴょこ跳ねるトカゲを見止め、彼は騒ぎの全容を知る。
「トカゲを外に出しなさい。今すぐ」
「は、はい」
それまで茫然と一部始終を見ていたシェールだったが、ゼインの有無を言わさぬ雰囲気に、
すぐさま命じられたとおりの行動を取る。トカゲを戸外へ放ち、室内へ戻ってくるとそこにミゼッ
トの姿はなく、代わりに水を使う音が聞こえた。
「君の仕業だね」
低く言って、真っ直ぐにシェールを捉える。怒ったゼインを見るのはこれが初めてだった。
思わず足が竦んで、目を合わせることもできなかった。
「カップにトカゲを閉じ込めて、驚いたミゼットに火傷を負わせたのは君だね」
「あんなことになるなんて、全然思ってなくて。火傷するなんて、本当に思わなかった」
ゼインの言うことは、確かに半分は事実だが、残りの半分は意図してやったわけではない。
自分はただミゼットの驚く顔が見たかっただけだ。
「では、ミゼットが勝手に火傷を負ったと言うのか」
「それは…」
ミゼットは少しも悪くない。そうだとすれば、責められるのは自分以外にいなかった。
「ごめんなさい」
「私に謝っても仕方なかろう」
はっとなって、炊事場に向かって駆け出す。
「ごめんなさい。ねえ、痛かった?」
「痛いより驚いた。まったく悪戯っ子なんだから」
そう言ってシェールを小突くが、別段怒っている様子はない。
「僕、お茶が掛るなんて思わなくて、火傷をさせるつもりなんてなかったんだ。本当に…」
「わかってる。あなたはそんな子じゃない」
シェールの前に膝を折って、懸命に弁明するのを制する。
「そもそも、火傷ってほどのものでもないし。大袈裟なのよ、先生は」
ほら、と差し出された指は一見すると確かに無傷だった。彼女はそのままシェールの手を
取り炊事場を後にした。
「ミゼットに赦してもらえたかい」
それはシェールの知るところのいつものゼインだった。彼は安堵の溜息を吐いて、ミゼット
を振り返る。
「もちろん。反省してくれたのなら、それで良いのよ」
「だそうだ。良かったね、シェール」
「うん…」
すっかりしおれたシェールを前に、大人二人は視線を合わせ互いに苦笑いを送った。
「オイタをしたとき、君のうちではどうなるんだろうか?」
ゼインの問い掛けに、シェールは驚きを隠せない様子だった。
「んーと、お仕置き…される」
「どんな?」
更なる追及に、いよいよもって困り果てる。ゼインはともかくミゼットには知られたくないと
思った。だから、トコトコとゼインに近付くとじっと顔を見つめる。
「ん?」
そして、自分の前に屈むゼインに、そっと耳打ちするのだった。小さなささやき声に、彼は
にやりと笑う。
「ミゼット」
「私、ちょっとお茶淹れてくるわ」
彼女はいそいそと再び炊事場へ戻る。
残されたシェールは、なんだか物凄く嫌な予感がして、隣のゼインを盗み見た。すると、
彼はそれはそれはやさしく微笑んでいた。
「今日は私が兄上の代わりだからね」
「やっ!」
言うが早い、ひょいとシェールを肩に担ぎ、小さなお尻にピシャリと平手をお見舞いしたの
だった。
「わーん!せんせい怒ってないのに怒ってる!!」
「心外だな。ちっとも怒ってなどいないよ?」
シェールを着地させ、よしよしと頭をなでる。なるほど確かに、その表情はまるで怒りとは
無縁である。
了