ほんの少しのつもりだった。もちろん眠るつもりなんて微塵もなくて。ただ野菜に火が
通るまでの間、椅子に座って一息吐こう、そう思っただけだった。

「ただいま、ミゼッ…!」

 帰宅したゼインを迎えたのは、モクモクと立ち上る黒い煙に、鼻を衝くひどい臭い、
そしてその横で呑気に眠りこけるミゼットだった。

「ミゼット!」

「お、おかえりなさい…」

 ゼインの叫び声とびしゃっという盛大な水音で、ようやく彼女は覚醒した。椅子から立ち
上がり、目の前に広がった景色を茫然と眺める。焼け焦げた鉄の塊とその周囲に出来た
大きな水たまり。そして、辺りを霧の如く包む黒い靄。彼女はショックのあまり大きく息を吸
い込み、その後で大いに咽かえった。

「大丈夫かい?」

 ゲホゲホと咳き込むミゼットの背をやさしく擦る。

 一体どうしてこんな事態になってしまったのだろう。心配そうに自分を覗きこむゼインを前
に、彼女は一言も言葉を発することが出来ないでいた。

「ミゼット」

 穏やかに名を呼ばれ、ふと我に帰る。とにかく現状を回復させようと思った。彼女はふらふ
らとレンジへ向かい、黒焦げになった鍋へ手を伸ばす。

「こら。指がなくなってしまうよ」

 そんな彼女の腕を背後からゼインが捕える。

「ここは良いから、君は寝室にでもいなさい」

 決して強い言い方ではなかったが、あまりに取り付く島がなくて、ミゼットは思わず泣きそう
になった。 ほら、とゼインに促され、渋々炊事場から引き揚げた。


「まったく君には驚かされるよ」

 寝室へやってきたゼインは、これでもかと言うほど深いため息を吐いた。 まるで身体全体
が怒りを孕んでいるようだと、ミゼットは思った。

「今後、疲れているときには火を使わないと約束して欲しい」

 ミゼットは答えず、黙ったままゼインを見返す。

「何でもかんでも完璧にやろうと思わなくて良い」

「それはつまり、私に、何もするなということ?」

 ぽつりとミゼットが呟く。その目が鋭くなる。

「そんなことは一言も言っていない。ただ私は君に家事をさせようと思って、ここへ呼んだわけ
ではない。君が望むなら家政婦を雇ったっていいと思っているくらいだ」

「私にはメイド以下の働きしか求めていないと?それとも、私が余計なことをするより、メイドに
やらせたほうがマシだということかしら」

「だからそんなことは言っていない。君に負担を掛けたくないんだ。ともかくあまり無理をするん
じゃない」

「無理なんてしていない」

「しているだろう。その結果がこれだ」

 容赦ない言葉にミゼットは閉口する。

「君はもう少し自分の許容量を正確に把握するべきだ」

「なんですって」

 瞬間的に身体がカッと熱くなる。 忙しい仕事の合間をぬって、自分にできることをしてきたまで
だ。 もちろんゼインのためである。 それなのに、何故こうも失礼なことを言われなければならない
のだろうか。フツフツと湧き上がってきた怒りを抑えることなど出来なかった。

「たかが鍋を焦がしただけじゃない。誰にも迷惑掛けてない」

 その刹那、ゼインの顔つきが豹変した。すっと利き手を振り上げる。

 殴られる、そう思い咄嗟にミゼットは歯を食いしばった。 だが、振り下ろされることなく、その手は
空中で強く握られた。

「そういう問題ではないだろう。君はとんでもないことをしようとしたのだよ」

 怒りを抑え、静かに問う。

「そりゃ、もしかしたらあなたの家を燃やすところだったかもしれないけれど」

 刺すような視線から逃れられず、彼女は言いながら身体が震えるのを感じた。

「そうじゃない。本当にわからないのか?」

「ええ、そうよ」

 そのとき、彼女の中で何かが外れた。

「わからないったらわからない!わかるもんですか!!」

 大きな目を見開き、ゼインを睨み付ける。発する言葉が次第に大きくなっていった。

「私はあなたのように頭が良くないもの。あなたが涼しい顔で難なくこなすことも、私には三日かかっ
たって出来ないことだってある。 もっともあなたは、そんなことには一生気付かないでしょうけど」

「そんなことはない。ミゼット、落ち着きなさい」

「うるさい!」

 火のついたように喚き散らすミゼットを前に、流石のゼインもどうしていいかわからない。

「オニのあなたには人の心がわからないのよ。傲慢で、高慢ちきで、いつだってお高くとまっていて…。
このうすらとんかちのこんこんちき!」

 一気に捲し立て、言い終わると肩で息をした。

 辺りが水を打ったような静寂に包まれる。ゼインに目をやると、どこまでも冷ややかな視線を返して
きた。

「うすらとんかちのこんこんちきも、人一倍君を心配しているんだが」

 淡々とした語り口に、徐々に霧が晴れていくように思考が明瞭になってくる。

「鍋なんていくつ燃やされたって構わない。この際、家を焼かれても良しとしよう。 唯一、君さえ無事で
いてくれたらね」

「ゼイン…」

 そんなことは考えもしなかった。水浸しになった黒いレンジを見たときは、本当に後悔したのだ。 取り
返しのつかない失態に、気が遠くなった。何の申し開きも出来なかった。 ゼインに見限られたかもしれ
ないという思いが心を支配し、身動きが取れなくなったのだ。

「どうしても家事をしたいというのなら、もう止めはしない。君の好きにしたら良い。 だが、そのせいで折
角いただいた職を辞すことになったとしたら、上官としても、 それから君を愛する男としても非常にいた
たまれない。私の言っていることを理解できるね」

 コクリと頷き、目の前にいるゼインの胸へ額を付ける。

「ごめんなさい。もう私、どうしたら良いのかしら」

 相変わらず混乱した頭であれこれ考えるが思考がうまくまとまらない。そんな彼女の髪を撫で、もう良
いんだとゼインは繰り返す。しばらくそのまま泣いていたミゼットも、時期に落ち着きを取り戻し、ふっと
顔を上げた。

「それにしても、だ」

 そのとき、唐突に変わったゼインの声音に、ミゼットの背中を冷たいものが伝う。

「随分お口が悪くなったようだね」

「みゅ!?」

 両手で頬を挟み、ぷにっと上へ引っ張る。

「私は君を、そんなふうに育てた覚えはないよ」

「ごめんにゃ、しゃい」

 毒気を抜かれ、すっかり怯え切った瞳が自分を見上げてくる。

「まあ良い。一からレッスンし直すまでだ」

「れももおひいって」

「鍋を焦がしたことについてはね。だが、私に暴言を吐いたことはまた別だ。君が私をどう思って
いるか、もう少しよく知りたい」

 ゼインの瞳が妖しく光る。

「本当に君は、どこまでも躾け甲斐のある娘だね」

 その台詞に、今夜もまたうつ伏せでしか眠れないとミゼットは悟った。


了 こえを聴く


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