「なっ?!」
廊下の角を曲がった瞬間、顔面に布の塊ようなものを押し当てられそうになった。タリウスは反射的に両手を合わせ、寸でのところでそれをキャッチする。まさに白羽取りの要領である。
「っ!」
ひとまず最悪な事態を免れたとはいえ、反動で翻った布が強か顔に当たった。
「うっそ!やだ!あなただったの?!」
そんな彼を見てミゼットが絶叫する。
「ご挨拶ですね」
布は軍服の上衣だった。何があったのかは知らないが、出会い頭にこんなものを投げつけられる謂れはない。例えそれが上官夫人であったとしてもだ。タリウスは憮然として言った。
「ごめんなさい。大丈夫?じゃ、ないわよね。やだもう、どうしたら良い?」
「私に聞かれても困ります」
「そりゃそうよね。本当にごめんなさい。てっきりダルトンだと思って。ああ、もうどうしよう。こんなんだから、おっちょこちょいが服着てるとか言われるんだわ。医務室行く?それとも冷やす?」
ミゼットは大いに取り乱し、それから途方に暮れた。彼女とはそれなりに長い付き合いになるが、こんな姿を見るのは初めてと言って良い。
「け、結構です。何もしていただかなくて」
それ以上は自制が利かず、タリウスは小さく吹き出した。こうなるともうだめで、彼はしばし肩を震わせた。
「本気で困ってらっしゃるとは思わなくて、すみません。失礼しました」
「こちらこそ無礼が過ぎたし、流石に怒られると思ったんだけど。びっくり。あなたでも笑うことってあるのね」
「それはまあ、たまには」
「そう?一応人間の皮は被ってるけど、中身はオニだって聞いたのに」
「誰がそんなことを?」
恐れ知らずの息子か、はたまた口さがない教え子か。
「せ、せんせい?!」
そのとき、背後から素頓狂な声が上がった。
「なんでジョージア先生が俺の上着持ってるんですか」
「さあな、こちらが聞きたいくらいだ」
言いながら、タリウスは動揺する教え子に上着を放った。顔でも狙いたいところだが、大人げないのでやめた。
「どこ行ってたのよ!あんたのせいでとんでもないことになったじゃない!」
「えー?!自分のせいですか」
「そうよ。言っとくけど、私はあんたのお母さんじゃないのよ」
「わ、わかってますって!」
「どうだか。ジョージア教官、先程の答えはダルトンよ。煮るなり焼くなり叩くなり、好きにして」
「ほう」
「ちょっと、一体何の話ですか」
いずれにせよ、ろくな話ではない。キールはそっと後退しようと試みるも、どういうわけか身体が動かなかった。
「ところで、何故ダルトンの上着を?」
「それよ。枝に引っ掻けて破いたからって、私に縫えって言うのよ。信じられる?」
「ちょ、いいっておっしゃったじゃないですか!何で告げ口するんですか?!」
見たところくだんの穴は既に縫い合わされた後だ。キールは上官の好意に感謝する反面、後からこんな裏切りにあうくらいなら端から断ってくれと恨みがましく思った。
「俄には信じられません。お望みでしたら再教育しますが」
「ええ、お願いしようかしら」
「そんな、勘弁してください!!」
キールは今度こそ逃げ出そうとするが、やはり身体が動かない。それどころか、視線を外すことすら叶わないのだ。差し詰め蛇に睨まれた蛙である。
「それはこちらの台詞だ。全く普段から落ち着きがないからこういうことになるんだろう。だいたいこんなことがミルズ先生に知れたら殺されるぞ」
ミゼットは涼しい顔で頷くかたわら、すぐ隣で直立不動になっている部下に対し、腹の中で手を合わせた。これすなわち尊い犠牲である。
2021.1.18 「犠牲」 了