仕事を終え、ゼインは家路に就く。疲れ果てた自分を迎えるのは、静まり返った暗い部
屋と決まっていた。もともと寝に帰るようなものだ。慣れてしまえば、淋しくもなんともない。

 彼は小さな鍵を取り出し、鍵穴に入れる。ここまではいつもと同じ。まるで儀式のようだ。
しかし、どういうわけか差し込んだ鍵は意図する方向へ曲がらない。仕方なく反対方向へ
とまわし、鍵穴から抜く。今朝も確かに施錠して出掛けた筈である。泥棒にでも入られたか。

 彼は至って冷静に、だが注意深く扉を開けた。

 誰も居ない筈の我が家から人の気配がした。しかも、それだけではない。部屋の奥から
立ち上る芳しい香りは、鼻孔を刺激し、自身が空腹であることを思い出させた。彼は良い
香りに誘われるようにして部屋の中を進む。

 ふと、炊事場から明りが洩れている。意を決して戸を開けた。

「お帰りなさい。ミルズ先生」

「た、ただいま」

 反射的に返事を返したものの、ゼインにはさっぱり事情が呑み込めない。何故だかわか
らないが、ミゼットが台所に向かい、顔だけをこちらに向けた。

「早く帰れたから寄ってみたんです。迷惑だったでしょうか?」

「い、いや。迷惑だなんて思っていないよ。ただその、意外だったから」

 ひたすらに驚いたのだ。

「ああ。私が料理するなんて思わなかったわけですね」

 ミゼットは鍋を掻き混ぜる手を止め、いささか気分をがえしたように言った。慌ててゼイン
は手を振る。

「そうではない。私のためにしてくれるなんて、全く思っていなかったから」

「先生にしかしませんよ」

「そうか…。それは、ありがとう」

 自分の家だと言うのに何だか妙に落ち着かない。身の置き場がないのだ。無意識に、効
き手が家の鍵を握りしめる。

「そういえば、ミゼット」

 掌に乗った鍵を見ながら、ゼインの脳裏をある疑問が過る。

「はい?」

「君はどうやって家へ入ったんだ」

 ほんの一瞬、ミゼットの動きが止まった。だが、何事もなかったかのように鍋へ視線を落
とす。

「どうだって良いじゃないですか。もう出来ますから、着替えていらしたら?」   

「あ、ああ…」

 ゼインは促され廊下へ出る。そのまま階段を上がりながら、火照った頭が徐々に冷えて
くる。階段を上り切ったところで、半分だけ開いたままになった窓が視界に入った。

「まったく、君は…」
 

 ミゼットお手製の夕餉は、彼を心底満ち足りた気持ちにさせた。決して豪華なものでも、
また、必要以上に手の込んだものでもなかったが、それはあたたかく、彼を癒やした。

 食事の後、片付けをするというミゼットの申し出を丁重に断り、代わりにゼインが台所へ
立った。心配そうにする彼女を、男やもめを舐めるなとゼインは笑った。

「今日は本当にありがとう。嬉しかったよ」

 後片付けが済むと、ゼインはソファに沈むミゼットの隣へ座った。やさしく髪を撫でられ、
ミゼットは子猫のようにゼインへもたれた。

「だが、少々お転婆が過ぎたようだ」

 その言葉に、ミゼットはピクリと肩を震わせる。

「二階の窓。力任せに開けたは良いが、閉まらなくなったのだろう。まったく、子供みたい
なことをするね、君は」

「子供にあんなこと出来ないですよ。でも、窓硝子を割ったほうが良かったかしら」

 子猫は少しも悪びれることを知らない。

「ミゼット」

 少しだけ強く名を呼ぶと、大きな瞳が困ったようにゼインを見つめ返した。

「だって、急に思いついて来たものだから、仕方がなかったの。それに、高いところによじ
登るなんて、訓練でよくやったし、落ちはしない。もし落ちたとしても、私丈夫だし」

「士官になるからと言って、女を捨てる必要はないと言った筈だが?それから、品位を損
なうようなことをしてはいけないとも言ったね」

「だって」

「いい加減にしなさい」

 本日一番厳しい声で、釈明する言葉を遮る。ミゼットはたまらず目を伏せた。

「素直に謝りさえすれば、小言を言うだけで終わりにしようと思ったんだが。君ときたら言
い訳ばかりだ。…と、どこへ行くつもりだね?」

 身の危険を感じ、そっと逃げ出そうとするが、一足遅い。逞しいが、それでもゼインに比
べればか細い腕を強く取られた。

「さて、お転婆娘にレッスンをしよう。ミゼット、お尻を出しなさい」

 手を当てなくても、顔が赤らんでくるのがわかった。

「素直にしないと後悔することになるよ」

「ごめんなさい、先生」

「良い子だ。さあ、言うとおりにするんだ」

 ミゼットは渋々スカートをたくし上げ、下着に手を掛ける。そこまで終えると、ゼインは
まるで抱きかかえるかのように、丁寧に彼女を膝へ横たえた。

 パシ! パシ! パシ! パシ!

 が、それまでの一連の様子とは裏腹に、お仕置きは厳しい。十回も打つと、ミゼットの白
いお尻が綺麗に色付いた。

「もうしないね」

 ミゼットを起こし、隣へ座らせる。しかし、彼女は両手で顔を覆ったまま、微動だにしない。

「ミゼット?」

 ゼインが心配そうに名を呼ぶが、彼女は答えない。

「そんなに痛かったか?」

「…くくく」

「ん?」

 明らかにミゼットの様子がおかしい。

「あっははは。心配しました、先生?」

 見れば、目に涙を浮かべ、ミゼットが笑いのつぼにはまっていた。

「こらっ!!」

「キャーッ!」

 再び彼女を引き寄せ、バシバシと赤くなったお尻を思い切りひっぱたいた。

「私が良いと言うまで、その格好のまま反省していなさい!」

 激昂したゼインは、ミゼットのお尻をむき出しにしたまま、ソファの背に上半身を預け
てしまった。遠ざかる足音を聞きながら、彼女の頬を別の涙が伝う。

「おいで、ミゼット。お茶にしよう」

 しかし、それから数分後、彼女が聞いたのはそんな呑気な台詞。すぐさま衣服を整え、
ゼインの元へ向かった。

「もう怒っていませんか?」

「いや、最初から怒っていないよ。まさか本気で私が怒ったと思ったのか」

 耐えられないといった具合に、ゼインは笑い転げた。

「ひどい!」

「ひどいのは君も同じじゃないか。ああ、おかしい」

 こうして、夜空をつんざくような一組の馬鹿笑いは夜更けまで続いた。


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