-->  タリウスが士官学校へと異動になってから、三か月が経とうとしていた。その間、
戸惑うことも多かったが、最近では教官としての自分も板に付いてきた。辞令を受け
たときには、それまで部下や後輩、果ては先輩の指導にまで当たっていたこともあり、
そう大変な仕事でもないと思った。

 しかし、実際には善意で教えるのと職として行なうのでは全く別物だった。また、候
補生たちは皆一様に幼さの残る、少年と呼んで良い年頃だったことも、余計に彼を
疲労させた。

「先生、点呼をお願いいたします」

 執務室の外から声を掛けられ、もうそんな時間かと立ち上がった。今夜は、十日に
一度ほどの割合で回って来る当直の日だった。

「皆揃ったか?」

 普段の日は、朝から晩まで厳しく行動が制限されている候補生たちだったが、この
日は休日とあって、ほとんどの者が外出していた。

「それが、その…」

 タリウスの問いに、少年が口ごもる。

「どうした?きちんと答えろ」

 鋭い視線を送ると、少年が姿勢を正した。

「アルベリック=バルマーがまだ戻って来ていません」

「そうか、わかった。ご苦労様」

 少年を下がらせると、タリウスは分厚い黒表紙を手に取った。そこには候補生に
まつわるあらゆる規則が事細かに記されていた。既に幾度となくこの規則集を開い
ていたし、また彼自身もここの卒業生であったが、いかんせん数が多過ぎてすべて
を覚えるのは不可能だった。

 規則集を手にホールへ向かうと、候補生たちが整然と並んでいた。号令を掛け、
連絡事項を伝えていると、ひとりの少年が遅れて列に付いた。アルベリックである。
彼はタリウスが話し終わるまでの間、じっと下を向いていた。

「以上。規律を乱した者はこの場に残れ」

 候補生たちが次々と退出して行く中、アルベリックだけが取り残される。

「アルベリック=バルマー」

 二人だけになるのを待って、違反者を呼び寄せる。

「何故門限に遅れた?」

「申し訳ありません。時計が遅れていることに気がつかなくて、それで…」

「それは理由にはならない」

 弁明する言葉を無情に遮る。

「門限破りの罰はなんだ」

「パドル、3ダースです」

 開いたままになっている規則集にも確かにそのように書いてある。

「門限に遅れたのは何度目だ?」

 しかし、まだ続きがあるのだ。

『但し、二回目以降は教官の裁量に依る。』

「今日が初めてです。本当に申し訳ありません。反省しています」

 一気に言って、深々と頭を下げる。

「10分後に教官室へ来なさい」

 アルベリックは教官の姿が見えなくなるまで、そのままの姿勢を保った。

 執務室に戻ると、タリウスはすぐさま書庫へと向かった。本棚には、候補生ひとり
ひとりの記録が名票順に並んでいる。彼は目当てのファイルを抜き取ると、パラパラ
と頁をめくった。

 アルベリック=バルマー、成績優秀で、素行も問題ない。性格は極めて真面目で、
従順である。

「猿も木から落ちたかな」

 言いながら、アルベリックのファイルを元へ戻す。狭い隙間にうまく入らず、背を叩
いて押し込むと、反動で上に置いてあった冊子が床に落ちた。拾い上げ、表紙を見
ると、当直日誌だった。これも後で記入しなくてはならない。何気なく開くと、頁が一
枚折れていた。気になって折れ目を直と、今見たばかりの名前が飛び込んで来た。

『門限破り。該当者氏名、アルベリック=バルマー。充分な反省が見られたため、罰
せず。』

 これならば懲罰履歴には載らない。日付は一月前、担当は初老の教官だった。

 タリウスの表情が険しくなった。

「入ります」

 丁度そのとき、アルベリックがやってきた。当直日誌を持ったまま、タリウスは書庫
から出る。

「門限に遅れた罰を与える。用意をしろ」

 少年を一瞥すると、記載台を顎で指した。

 アルベリックはベルトを外し、お尻がむき出しになるよう着衣を下げる。そして、記載
台に両手を付くと、頭を下げた。その姿は従順そのものだった。

「もう一度聞く。門限を破ったのはこれで何度目だ」

 記載台を挟んで、アルベリックと向かい合う。

「今日が、初めてです」

 タリウスの刺すような視線に怯えながらも、平然と言い切る。

「だったらこれは何だ」

 当直日誌を広げると、アルベリックに突き付けた。

「それは…」

 自身の名を前に目を見開く。明らかに狼狽していた。しかし、次の瞬間突然激しくか
ぶりを振った。

「違います。それは何かの間違いです」

「間違い?」

「そうです。僕はこんなの知りません」

 懸命に釈明するが、決してタリウスと目を合わせようとはしない。

「では、教官が嘘を言っている、そういうことか」

「ノーウッド先生は、その…お年だから。記憶が曖昧なんです」

「お前…」

 あまりのことに言葉を失う。

「よくもそんな嘘がつけるものだ。まるで子供だ。いや、うちのチビだって、もう少し
マシな嘘をつくよ」

 タリウスは呆れ果て、額に手をやった。これが弟ならともかく、その倍近くは生きて
いるであろう士官候補生が相手なのだ。

「嘘じゃありません」

「いい加減にしろ!」

 懲りずに熱演を続けるアルベリックに、堪忍袋の緒が切れた。腕を掴むと無理矢
理に自分へ引き寄せる。そして、椅子に腰掛け、膝の上へアルベリックを組み伏せ
てしまう。

「な、何をするんですか!」

 必死の抵抗を試みるが、まともにやり合うには体格差があり過ぎる。

「お前など子供のお仕置きで充分だ」

 裸のお尻をピシャリと打ち据える。

「やめてください!こんな、こんな恥ずかしい…」

「お前のしていることのほうが、よっぽど恥ずかしい。何だあの言い種は!教官に
対して、無礼極まりない。その腐り切った性根を叩き直してやる」

 いくら平手と言えども、続け様に、それも本気で打たれればかなり痛い。歯を食
いしばって懸命に堪えたが、時折呻き声が漏れた。

「悪いことをしたら何と言うんだ?」

 タリウスの言葉に無言の抵抗を試みる。肉体的な痛みより、プライドのほうがまだ
勝っていた。

「そうか、わかった」

 堪え性のない弟とのギャップに内心驚く。タリウスは叩く手を止め、利き腕を捲った。

「だが、いつまで強情を張っていられるか」

 パン!という鈍い音と共に強烈な痛みがアルベリックを襲う。これまでと明らかに叩
き方が変わった。まるで拳で叩かれているかの如く、骨まで染みるような痛さだった。

「いっ…た…」

 アルベリックは顔を歪めて痛がる。しかし、お構いなしに左右のお尻には、規則正し
く平手が降り下ろされる。

「先生、もう許してください」

 その言葉と共に、堪えていた涙があふれ出した。

「何を許して欲しいんだ」

 しかし、依然としてタリウスはお仕置きする手を止めない。

「ごめんなさい、先生。ごめんなさい!」

 ぽっきりとプライドが折れた。彼は泣きじゃくりながら、謝罪の言葉を繰り返すだけ
だった。

「自分のしたことを言ってみなさい」

 なおも泣きながら謝罪を繰り返していると、ようやく平手の雨が止んだ。

「門限を…破りました」

 乱れた息のままアルベリックは話し始める。

「それも初めてじゃな…ありません。前にも一度同じことを。それなのに、先生に嘘を
言いました」

 喉は枯れ、涙で床がぼやけて見えた。子供のように扱われることにはまだ抵抗があっ
たが、絶対的な力の差を前に従うよりほかなかった。

「何だってあんな嘘を?」

「怖かったんです。二度も門限を破ったらどうなるか、とても怖くて、言えませんでした。
この前のことは、その…なかったことになってるって思ってて。それに、ノーウッド先生
には、何度か他の候補生と間違えられたことがあるし、試験の採点が違っていたこと
もあったから、嘘を言ってもバレないかなって思いました」

  お仕置きが潤滑油になったのか、アルベリックはよく喋った。

「でも、ジョージア先生の目はやっぱり誤魔化せなくて…」

  あの程度の嘘が見破れないようでは教官など務まらない。そう思ったが、それをそ
のまま伝えるのは憚られた。

「嘘はいつか必ずバレる。その度に新しい嘘を重ねていたら、誠意の欠片もない人間
になってしまうよ」

  子供を諭すような穏やかな口調に、アルベリックはいたたまれない気持ちになる。教
官は悪意があって自分を責めているわけではない。ようやく彼の中で反省の心が芽生
え始めた。

「ノーウッド教官が、何故お前を見逃してくださったと思う?」

  しばしの沈黙の後、アルベリックは首を横に振った。そんなことは考えたこともなかっ
た。

「恐らく、期待していたからだと思う。優等生のお前にこんなことでケチがつくのを嫌った
んだろう。それに、お前なら罰しなくてもわかると、信じてくれていたんじゃないのか」

  罰を免じてくれたことに対して、全く感謝していないわけではなかった。しかし、甘い
教官に当たって運が良かったくらいにしか思っていなかったこともまた事実である。

 タリウスの言ったことが彼の真意なら、自分はとんでもないことを口にしたことになる。

「僕は、ノーウッド先生の気持ちも考えずに…」

「口から出任せなんだろうが、借りにもお前を庇ってくださった方だ。教官を悪く言う
ことは、嘘をつくより、門限を破るより、何より悪い。最低なことだ」

  容赦ない言い様に、たちまち後悔で埋め尽くされる。

「僕は、僕は…」

  心のたがが外れたのか、アルベリックは声を上げて泣き出した。

「おい、こら」

  流石のタリウスも面食らう。これでは本当に子供である。

「立ちなさい、アルベリック=バルマー」

  言われて、ふと自分が教官の膝の上にいることを思い出す。すすり泣きながら立ち
上がると、無意識にお尻に手をやった。そして、着衣を直そうとする。

「まだだ」

  ところが、それをタリウスが制した。

「え?」

「まだ終わりじゃない」

  みるみるアルベリックの顔色が変わった。

「今のは嘘つきのお仕置きだ。門限を破った罰は別に与える」

「そんな、もう無理です!これ以上…」

「お前は士官になるんだろう。上官の命令は絶対だ」

  確かにタリウスの言う通りだった。だが、いくら頭でわかっていても、ヒリヒリと痛
むお尻を抱え、この上なおも打たれるなど考えられなかった。

「さあ早く用意をしろ。それが出来なければ、ここから出て行け」

  それは候補生としての資格を失うことを意味していた。そうでなくとも、二度目の
門限破りは罪が重い。今回の場合、本当にそうされても文句は言えなかった。

「どうする?」

  ここで諦めたら、今まで何のために血を吐くおもいで努力を重ねてきたのかわか
らない。

「罰を受けます。罰してください、先生」

  涙を拭い、タリウスを見上げる。

「良いだろう。だが、今度は泣くんじゃないぞ」

「はい」

  短く返事を返し、アルベリックは初めに部屋へ来たときにしたように、記載台へ手
を付く格好になる。数秒後、自分の真後ろに教官が移動したのがわかると、彼は
ぎゅっと目を閉じた。

「ひとつ!」

  お尻を打つ大きな音と、続いてやってくる重い痛み。苦痛と恥かしさに、彼は声を
大にして数を数え出した。

  そこから先のことはよく覚えていない。とにかく無我夢中で痛みと闘った。途中で
何度か姿勢を直されながら、なんとか規定回数を受け切ったのだ。

「よし、良いだろう」

  教官の許しを得た瞬間、アルベリックは床へと崩れ落ちた。泣きわめきはしなかっ
たが、それでも流れ落ちる涙を止めることは出来なかった。

  タリウスはパドルを元あった場所に掛けると、部屋の奥へと入って行った。

「先生?」

  しばらく放心していたアルベリックだが、徐々に平生を取り戻す。罰の終わりは告げ
られたが、まだきちんとした謝罪をしていない。加えて、教官から指導を受けたら、礼
を言うのが一般的だったが、それもまだ済ませていない。

 このまま下がって良いものか、考えあぐねていると、ふと、甘い香りが彼の鼻孔を刺激
した。教官が奥でお茶をいれているのだ。全くいい気なものだ。彼は心の中で毒づいた。

「落ち着いたか?」

  だが、そんな彼の前に現われたタリウスは、両手にカップを持っていた。

「その顔では戻れまい。しばらく、ここにいなさい」

  カップのうちひとつを記載台に置き、もうひとつに口をつける。アルベリックは目の前
に置かれたカップに釘付けになった。

「どうぞ」

  促され、一口すすると、カサカサの身体にたちまち潤いが戻ってくる。まるで生き返る
ような心地がした。お茶を飲み終わるまでの間、ふたりは静寂を共有した。

「本当に申し訳ありませんでした」

  カップを置き、きちんと立ち直す。そして、誠心誠意頭を下げた。

「意志が強いのは悪いことではない。むしろ、士官になるには必要なことだ。だが、自分
に非があるとわかっているときには、素直に認めなくてはならない。そして何より、逃げ
てはいけない」

  説諭と言うよりは、年長者の助言と言ったほうが近いかもしれない。タリウスの話を
 少年はこれまでになく真摯に受け止めた。

「さあ、もう良い。下がれ」

「ご指導、ありがとうございました。先生に叱られて、その…すっきりしました」

  言葉通り、憑物が落ちたような晴れやかな表情を見せる。幼い笑顔を横目に、タリ
ウスは安堵の溜め息を吐いた。



 了 2009.12.30 「剥れた仮面」