「い…いやあぁっ!」

 突如、耳をつんざくような悲鳴が上がった。

「どうしました?」

 何事かと隣室からタリウスが出てくる。

「タタタ、タリウス殿。蛙が、蛙が、蛙が…」

 ユリアはタリウスの姿を認めると、背後に回ってしがみついた。

「カエル?」

「ほら、そこに」

 ユリアの指差す方向を見ると、開け放たれた戸から小さな蛙が覗いていた。

「大袈裟な。たかが蛙じゃないですか」

「たかがぁ?」

 呆れるタリウスをユリアが睨みつける。

「あれがどこにいたとお思いですか?私のベッドの中ですよ!蛙が自分から毛布に潜り
込むことがありますか?!」

 キャンキャン吠えるユリアを前に、タリウスはがっくりと肩を落とした。

「ないでしょうね。恐らく、あなたの考えている通りだと思います」

 彼の脳裏には、悪戯盛りの弟が真っ先に浮かんだ。

「とにかく!早くあれをなんとかしてください」

「わかりました」

 いきり立つユリアを背に、そっと蛙に近付く。そして、ひょいと蛙を摘み上げると、
そのまま窓の外に逃がした。

「も、もう他にはいないですか?」

 ユリアは完全に腰が引けていて、部屋に入ってすら来ない。

「失礼」

 言って、毛布を剥ぐ。異常がないことを認めると、今度は念の為に引き出しの類いを
すべて開けた。

「他にはいないようですね」

「そうですか、ありがとうございます」

 恐る恐るユリアが部屋に入ってくる。ようやく平生を取り戻したようだ。

「すまない、ユリア。本当に申し訳ない。シェールにはよく言って聞かせるから」

「お願いしますよ」

 丁寧に詫びを言うタリウスを尻目に、ユリアは憮然としたままだった。

「悪夢だ…」

 溜め息と共に、そんな科白が口から漏れた。

 自室の戸を開けると、シェールの姿はなく、代わりにベッドに妙なふくらみがあった。
 
「シェール!今すぐ出て来なさい」

「はぁい」

 兄の命令に、しぶしぶ毛布から這い出して来る。

「ユリアに謝らなければならないことがあるんじゃないのか」

 シェールを見下ろしながら、静かに問う。

「とっとと白状する!」

 沈黙したままの弟に苛立ち、声を荒げる。

「蛙を、ベッドに」

 兄を盗み見ながら、シェールが固まる。さながら、蛇に睨まれた蛙である。

「お前なぁ…。なんてことをしてくれたんだ」

 九分九厘弟の仕業であろうとは思っていたが、いざ本人の口から聞くとやはり衝撃を
受ける。タリウスは頭痛をおぼえ、額に手をやった。

「全くこんなしょうもない悪戯をして。お仕置きしてやるから、こっちへ来なさい」

「やだー」

 言って、再び毛布に潜ろうとする。その行動にタリウスの怒りが爆発する。

「シェール!悪戯はする、反省はしない。一体どういうことだ」

 あっというまにシェールを捕らえ、強制的に自分の膝へ連行する。そして、すぐさま
お尻をむき出しにしてしまう。

「わーん!やだやだ離してー」

 暴れるシェールのお尻を思い切り叩く。

「お前、ユリアが蛙嫌いだって知っててやっただろう」

 直感的にそう感じる。

「やーん」

「答えなさい!」

 厳しく言って、飛び切り痛い一打を見舞う。

「し、知ってたぁ」

「人の嫌がることをわざとするなんて、最低だぞ。よく反省しなさい」

 なおもジタバタするシェールをもろともせず、狙い通り正確にお尻を打つ。

「いや!痛い!お兄ちゃんもう許してー」

「ダメ。ユリアの気持ちを考えてみなさい」

 普段温厚なユリアがあそこまで怒ったのは今回が初めてある。よほど腹に据え兼ねて
いたに違いない。

「今まで一度だってユリアがお前に意地悪したことがあるか?」

「なーい!」

「そうだろう。いつだって可愛がってもらっているんだろう。それなのに、何であんな
ことしたんだ」

 何でと問われても、理由などなかった。完全なる出来心である。

「あーん、ごめんなさい!もうしない。もうしないから!」

「まったく、とんだ悪戯っ子だ」

 仕上げに、少々強めの一打を与えると、シェールを膝から下ろした。

「良いと言うまで、そこに立っていろ」

 シェールを壁に向かって立たせると、溜め息を吐いた。一方、悪戯っ子は、すすり泣
きながら赤くなったお尻を擦っていた。確かに突拍子のない悪戯に呆れたが、所詮は子
供の悪戯。そう思って、さしてきついお仕置きはしていない。だが、当の本人はそうは思っ
ていないようだった。

「シェール、もう良いよ」

 しおらしくなった弟を見て、結局、五分ほどで許してやる。

「全く、いつからこんな悪い子になった」

 何気なく口をついて出た科白に深い意味などない。だが、それを聞いたシェールの目
付きが変わった。

「…ないもん」

「え?なに?」

 弟の様子に違和感をおぼえる。

「もともと良い子なんかじゃないもん」

 タリウスに鋭い視線を向け、口をへのじに結ぶ。明らかに様子が変だ。

「どうしてそんなことを言うんだ?」

「だって、本当は悪い子だもん。お兄ちゃんに嫌われたくないから、良い子のふりしてた
だけなんだもん!」

 そう言い放ち、盛大に泣いた。

「一体どうしたって言うんだよ」

 言いながら、自分の失言に気付く。良い子悪い子言うのは、シェールにとって地雷だっ
た。いくら仲良くなったとはいえ、他人であるタリウスに拾われた事実は変わらない。彼
なりに良い子になろうと精一杯気を遣って生きてきたのだ。

「シェール、おいで」

 泣きわめく弟を抱き上げ、自分の膝へ座らせる。

「悪かった。兄ちゃんが悪かったよ。お前がやさしい良い子なのはよく知っている。と
きどき悪戯の虫が顔を出すのもね」

 言いながら、シェールの背中をさする。

「そりゃいつも天使みたいな良い子だったら、俺としては楽だよ。だけど、何も無理する
ことはない。悪戯したくらいで、お前を見限ったりはしないから」

「ほんとに?」

 振り返って、タリウスの目を覗き込む。

「本当だ。どんなに叱ったって、お前は俺の弟なんだから。心配することはないんだよ。
な?」

「うん」

 兄の言葉に満足し、小さくうなずく。

「で、話は戻って。ユリアに嫌なおもいをさせたのはわかるな?」

「はい」

「だったら、どうしたら良い?」

「ちゃんと、謝る」

「そう。丁寧に謝っておいで」

 言われて、シェールは兄の膝から下りる。そして、扉に向かって駆け出す。

 先程のユリアの剣幕に、シェールをひとりで行かせて良いものか、一瞬タリウスは悩
んだ。だが、泣き腫らして謝りにきたこどもを、それ以上強く咎めはしないだろう。だい
たい自分で直接怒れるのなら、はなからタリウスに当たることもないのだ。そう考えると、
改めて自分は損な役回りだと思わずにいられなかった。


 了 2009.10.16 「出来心」