やわらかな陽射しの中、タリウスは極めて平穏な心地で帰路に着いた。夜勤明けにもかかわらずだ。
 
 予科生、本科生共に仕上げの時期に差し掛かり、もう以前のように頻繁に騒ぎが起こることはなくなった。お陰で今朝も、拍子抜けするほどあっさり当直勤務を終えることが出来た。
 
 ところが、自室の扉を開けた瞬間、そんな穏やかな心に水を差すような事態が起きた。視界の端に、なんとも不愉快なものが映ったからだ。
 
「全くだらしがない」
 
 乱れたベッドを見るにつけ、つい腹の中で『減点だ』などと言ってしまうあたり、もはや職業病である。タリウスは反射的にシーツをつまみ上げようとし、はっとしてその手を止めた。
 
「シェール?!」
 
 シーツからはみ出した肌色をたどると、信じられないことに息子の寝顔があった。
 
「こら、起きろ!」
 
「ほえ…?」
 
 未だ夢の中なのだろう。しまりのない顔が緊張感の欠片もない声を発した。
 
「寝ぼけている場合か。何時だと思っている」
 
「と、とうさん?うそ、なんで?」
 
 シェールは勢い良く体を起こし、人の顔をまじまじと見詰めた。
 
「それはこちらが聞きたい」
 
「え?え!ちょっと待って。ていうか、今何時?」
 
「自分の目で確かめろ」
 
 言いながら、タリウスはポケットから懐中時計を取り出した。シェールは慌てて時計をひったくると、震える手で蓋を開けた。そして、驚愕した。
 
「う、う、うそでしょう?!期末試験なのに!どうしよ。ねえ、とうさん!!」
 
 シェールは両目を見開き、これでもかというほど狼狽した。息子の台詞に、タリウスとて息子と同じかそれ以上に動揺した。
 
「ともかく着替えて学校に行け」
 
「で、でも、もう間に合わないよ、絶対!あんなに勉強したのに。どうしよう、進級出来ないかも」
 
「良いから早くしろ。ほら、急げ!」
 
 ともあれ、ここでこうしていても始まらない。タリウスは無理やりシェールの腕を取り、パシンと一発尻をはたいた。
 
「痛たっ!」
 
 シェールは飛び上がって尻をさすり、その流れで寝間着を脱ぎ始めた。それから、士官候補生顔負けの速度で着替えを完了させ、今度はシーツに手を掛けた。
 
「今日は良い」
 
「でも」
 
 決められた日課をこなさないと気持ちが悪いのだろうが、今はそんなことを言っている場合ではない。
 
「俺がやっておくから、とにかく行け」
 
「わかった!行ってきます!!」
 
「顔くらいは洗っていけ!!」
 
「あとで!」
 
 そんなこんなで、息子は勢い良く家を飛び出していった。
 
「全く性懲りもない」
 
 タリウスは不肖息子に呆れる一方、自分のことのように胸が痛むのを感じた。自然と大きなため息がこぼれた。
 
 気を取り直して、ベッドメイクをしようと勢いよくシーツをまくり上げる。すると、その拍子に本が一冊、床へと転げ落ちた。タリウスはすぐさまその本を拾い上げ、何の気なしに中を広げた。
 
「忘れ物、ではないようだな」
 
 日焼けして、ところどころ背表紙の文字が消えかけているその本は、お堅い教科書の類ではない。妻の持ち物だろうが、かすれたインクが綴る物語には、遠い昔に出会った記憶がある。タリウスはペラペラとページをめくり、それから、ふいに口元を緩めた。そうして本を抱えなおすと、そのままベッドに腰を下ろした。
 
 
 夕方を過ぎてもシェールは帰らなかった。今朝の大失態について教師に絞られているのか、はたまた怒れる教師に懇願し、追試を受けさせてもらっているのか。さもなければ、自分に叱られることを恐れて、どこかで道草を食っているのか。
 
 いずれにしても、帰りが遅い。学校まで迎えに出ようかと考えては、流石に過保護かと思い直す。そうして幾度か行きつ戻りつを繰り返していると、玄関扉が外側から開かれた。
 
「戻りました」
 
 清涼感満載の声に、人違いかと思ったそのとき、妻の背後から待ち人がひょいと顔を覗かせた。
 
「ただいま」
 
「一緒だったのか」
 
「ええ、そこで会って」
 
 妻もまた昨夜は夜勤だった。そう頻繁にではないものの、院長に乞われ、時おり請負っているイレギュラーな仕事だ。
 
「とうさん、あのね…」
 
「ぼっちゃん!おかえり!」
 
 息子がそっと口を開き掛けるが、すぐさま女将の声にかき消された。
 
「ごめんね、ぼっちゃん。今朝はバタバタしてて、ちっとも気付かなくて」
 
「おばちゃんのせいじゃないよ」
 
「でもねぇ、ぼっちゃんが起きてこないことに、あたしがもう少し早く気付いてたらと思うと」
 
「全然。自分のせいだもん。おばちゃんは悪くない」
 
「ぼっちゃんのそういう潔いとこ、おばちゃん大好きだよ。お腹空いただろ?いいかい、お説教はあとだよ。ついでに喧嘩もね」
 
 女将の台詞に、大人たちは互いに顔を見合わせた。
 
「今朝は何かよからぬことが?」
 
「夜勤明けに部屋へ戻ったら、シェールがベッドに。お陰で期末試験に大遅刻したようです」
 
「たいへん!進級試験ですよね。ああ、こんなことなら、夜勤なんて引き受けなければ良かったわ。よりによって、タリウスが当直の日に、どうして不在にしたのかしら」
 
 これでもかと自責の念に苛まれる妻を横目に、タリウスは失笑した。
 
「笑っている場合ではありません」
 
「失礼。だが、女将にしてもあなたにしても、まるで自分のせいだと言わんばかりだ。本当にシェールは、愛されていますね」
 
「そういうタリウスこそ、怒っていらっしゃらないんですか?」
 
「私が怒らなくても、どのみちすべて本人に返ってきます」