ザッカリー=ミラーは机に向かい、カリカリと一心不乱にペンを走らせていた。

 あの後のことはよく覚えていないが、聞くところによると、シリルに石で殴られ、意識を失っていたらしい。目が覚めて、医務室の天井の次に目にした教官が、仏頂面でそう説明した。

 教官の説明はそれがすべてだった。シリルのことは勿論、自分の置かれている状況さえ説明はなく、当然のごとく一切の質問を禁じられた。

 少し動けるようになってからは、ひとりきりの居室に移され、与えられた課題をこなすよう言い付けられた。その間、他の訓練生と交わることはなく、日に一度訪ねてくる教官が、唯一外とのつながりだった。

 この日もいつもと同じように、こちらへと近付いてくる靴音に、ザッカリーは姿勢を正した。

「先生」

 扉が開かれると共に、即座に立ち上がり掛けるのを、教官が手で制した。あれ以降、教官に対する忠誠心が急速に育った。

「日がな一日こんなことをさせられて、不合理だと思うか」

「わかりません」

 ペンを持つ手がぴたりと止まる。視線を下に移すと、士官候補生の守るべき規則がびっしりと書き並べてある。規則集を一字一句間違えずに書き写すことが、ザッカリーに課せられた当面の課題である。以前なら、こんな作業に一体何の意味があるのかと激昂したことだろう。

「何が不合理で何がそうでないのか、もう、わからなくなりました」

「この際だ。じっくり考えてみろ。幸い時間はある」

 教え子が真面目に務めを果たしていることを確認したところで、教官は踵を返した。

「先生、ひとつだけどうしても聞きたいことが」

「言った筈だ。質問は受け付けられない」

「先生のことです」

「俺の?」

 ザッカリーは意を決して起立した。

「先生は、どうして自分を助けてくれたんですか?」

「理由などない。ただそうすべきだと思ったからだ」

「でも、自分は少しも良い訓練生ではなくて、むしろ先生に迷惑ばかり掛けていたのに。それなのに、どうして自分なんかの言うことを信じてくれたんですか?」

「どうしてって、あんな不合理なことをする筈がないからだ。俺に不満があるなら、正面から向かってくるだろう。お前なら」

 途端に、枯れ果てたとばかり思っていた涙がポタポタとこぼれ落ち、課題の文字を滲ませた。教官は自分以上に己のことを理解していた。

「せんせい、申し訳ありませんでした。謝って済む問題だとは思っていませんが、今までのことをお詫びします」

「やり直しだ」

「はい?」

 すんなり許されるとは微塵も思っていなかった。だが、それにしても教官の言っている意味がわからず、ザッカリーは大きく目を瞬いた。

「お前のその課題には、統括も目を通される。そんな乱れたものをお見せするわけにはいかない」

「すみません」

 ザッカリーは天井を仰ぎ、目頭を指のはらでぬぐった。だが、ぬぐってもぬぐっても涙はとどまることを知らない。

「お前はこの期に及んで、まだ俺の手を焼かせるつもりか」

 教官はさも忌まわしげにザッカリーを見た。

「ザッカリー=ミラー、机に手を付け」

 ザッカリーが困惑しながらも罰を受ける姿勢になると、教官はすぐさま後ろに回り込んだ。バシンと大きな音が鳴り、即座に何か変だと思った。痛いには痛いが、破滅的な痛さではない。

「動くな」

 反射的に後ろを振り返ろうとすると、パンパンと続けざまに尻を打たれた。やはりおかしい。そう思い、首だけひねると、教官か平手を振りかぶるのが見えた。羞恥に顔が赤らんだ。

「う!あっ!」

 だが、やがてそんなことを言っている場合ではなくなった。教官のするお仕置きは、ここ数日の間でなまりきった身体には、充分過ぎるほど過酷だった。ザッカリーはひとつ打たれる度に、子供のように飛び跳ねた。

「あれほど生意気なことを言っておきながら、子供の仕置きのような罰にも耐えられないのか」

「申し訳ありません!自分が間違っていました!すいません!!」

 形振り構わず盛大に泣きわめいているうちに、気付けば教官の手が止まっていた。

「課題の直しは今晩中に必ず仕上げろ。それから、明日からは座学の授業に復帰しろ」

「せんせい、ありがとうございます」

 急転直下の状況にすぐには心が付いていかなかった。教官はそんなザッカリーと課題の束とを交互に見比べた。

「規則には守るべき理由がある。それが大前提だが、中には不合理なそれもあるにはある。それを変えたいと思うなら、正攻法で変えろ」

「正攻法で変える?」

「この世界は年功序列ではない。手柄さえあげれば、いくらでも上へいける。お前が俺を追い抜くことも、理屈の上では可能だ」

「そうかもしれませんけど、でも。不合理とか、そうじゃないとか、気にすること自体、間違っていたんだと思います」

 この世の中は、不合理で溢れ返っている。そして、誰もがそれを少なからず受け入れている。目の前にいる男も然りだ。

「不合理だと感じることが必ずしも悪いとは思わない。だが、それを口にするなら、それに見合った力をつけろ。そうでなければ、潰されるだけだ」

 言い終えると、教官は今度こそ扉の向こうに消えて行った。



 ホントにおしまい 「鬼神」 2022.1.17