「主任教官殿!!」

 呆然と立ち竦む二人を老教官の叫び声が現実へと返させた。

「非常事態だ。中庭に火が上がっとる」

 老教官は肩で息をしながら、廊下の先を指差した。

「消火を試みましたが、儂ひとりでは手に負えそうもない故、訓練生を…」

「ノーウッド教官、至急統括に連絡を。それから、公安を呼んで来い」

「よろしいんですか?!」

「少しもよろしくはないが、念のためだ。どのみち、すぐには動くまい」

「了解しました!」

「ジョージア教官はコリンズを追え。わかっていると思うが、万が一のときは躊躇するな。私はここに残り、消火にあたる」

「承知しました」

 教官たちは互いに頷き合い、それから散り散りになった。

 主任教官の怒鳴り散らす声が聞こえ、すぐさまそれに呼応するよう複数の足音が階段を下って来る。

 混乱の中、タリウスはシリル=コリンズの行き先について考えを巡らせた。まず考えられるのは、彼の実父のところだが、そのためには正統な後継ぎとなる必要がある。妻の話では、呪いは未だ完成していない。ならば、まずは呪いの完遂が先決だろう。ここから逃走を図ったことを鑑みても、もはやシリルは士官候補生の地位に未練はない。無関係の人間を巻き込むことも大いに考えられる。

「せんせい!!」

 玄関を飛び出したところで、ふいに自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。だが、振り返った先に人影はなく、思い過ごしかと思ったところで、にわかに心臓が波打つ。

「ミラー…!」

 一連の騒ぎですっかりその存在を忘れていたが、ザッカリー=ミラーが未だ軟禁状態にある。火事の現場を見たわけではないが、中庭は文字通り建物の中に位置している。万に一つも取り残されるような事態だけは避けなくてはならない。

 タリウスは即座に踵を返し、例の小部屋を覗くがザッカリーの姿が見えない。上官たちのどちらかが解放したのだろうか。

「ミラー?」

 部屋の外で物音がしたかと思うと、ザッカリーが廊下に立ち尽くしているのが見えた。上向き加減で、視線も定まらず、どうにも様子がおかしい。そう思った矢先、下顎の横から突き出した鋭い光に、タリウスは我が目を疑った。

「近付かないでください」

「コリンズ?!一体何の真似だ!」

 シリルはザッカリーの背後に回り込み、医術用のナイフを手にしていた。通常、刃物等武器の類いは厳重に管理し、訓練生の手の届く範囲に置くことはしないが、唯一の例外が医務室だ。緊急時に必要な医術用のそれだけは、普段から鍵のない棚に収納されていた。

「せんせぃ」

 ザッカリーが声なき声で助けを求めてくる。後ろ手で拘束されていたため、殆ど無抵抗で人質となったのだろう。

「ザックには犠牲になってもらうことにしました」

「犠牲?何の話だ」

「先生も呪いの書を読んだんですよね。だったら…」

「あんなものは迷信だ」

「そんなの、やってみないとわからないじゃないですか!」

 ナイフの刃がザッカリーの頬を撫で、ポタポタと血が滲んだ。

 シリルは他人を傷付けることに躊躇がない。このままでは遅かれ早かれ本当に殺りかねない。タリウスは頭の中でシリルの注意を反らす方法を絞り出す。

「何故こんなことをする」

「先生のせいです。本当は先生の子供を犠牲にしようと思ったのに、走って逃げたりするから。だから代わりに…」

「あいつは俺の子ではない」

「嘘だ。そんな筈はない」

「本当だ。あいつの父親は戦死し、母親は強盗に殺された」

「だ、だったらなんで…親じゃないのに…あんな…」

 シリルが動じた僅かな隙を突き、タリウスが動いた。ナイフをもぎ取ろうともろに刃に触れたため、手のひらから血が滴たった。しかし、そんなことはものともせず、強引にナイフを自分のほうへ引き寄せると、反対側の肩でザッカリーを突飛ばした。

「だが、俺の血を引いていないというだけで、我が身より大事にしている。お前などにくれてやる命ではない」

 タリウスは手の中でナイフを回転させ、空いているほうの手でシリルの胸ぐらを掴んだ。シリルはまともにこちらへ視線を返し、それからぐにゃりと口角を上げた。

「お前を殺さないと思うか」

「オレを殺せば先生は人殺しだ」

「それが何だ」

 タリウスは事もなく言い放ち、先程シリル自身がそうしたように、首筋へ血にまみれたナイフを突き付けた。

「お前は俺から何を学んでいる?戦術や戦法は何のためにある」

「こ、ここは戦場じゃない。それにオレは士官こ…」

「知らないなら教えてやるが、訓練中の事故など珍しくも何ともない。公安に捕まったところで、いくらもせずに出てくるのだろう?ならばいっそのこと…」

 震える瞳に、ナイフを振り上げる教官が映る。

「嫌だ!まだ死にたくない!!」

 シリルが金切り声をあげる。教官は振り上げたナイフを床に落とし、すぐさま足で踏みつけた。それから呆然とするシリルの横っ面を思い切り張り飛ばした。

「ならば、償え!!」

 シリルはその場にぺたりと座り込んだ。そうして口の中で呪文の如く何かを繰り返す。ひとまずシリルをそのままに、タリウスはもうひとりの教え子に目をやった。

「ミラー」

 事の成り行きを固唾を飲んで見守っていたのだろう。ザッカリーは床に膝を付き、恐る恐る返事を返した。タリウスは顎をしゃくり、背中を向けるよう差し向ける。それから足元のナイフを拾い、手の縄を解いてやった。

 一方シリルはと言えば、相変わらずぶつぶつと何事かを呟いていた。

「何で…親子でもないのに…」

 聞くでもなく聞いていた独り言がふいに大きく耳に飛び込んでくる。

「なんであんなに、誇らしそうに、幸せそうに笑ったんだろう」

 虚ろな目をした教え子をタリウスには正視することが出来なかった。

「先生、傷の手当てを。医務室に」

「大丈夫だ」

 ザッカリーが立ち上がり、今にも駆け出しそうになるのをタリウスが制す。シリルと揉み合った際に受けた傷は、思いの外深かった。傷口は脈打ち、止血のために当てた手巾を瞬く間に赤く染め上げた。

「それよりも、そいつから目を離すな」

 タリウスが小声で囁き、ザッカリーが無言で頷く。シリル=コリンズは、一見すると放心しているように見えるが、油断は禁物である。本来ならばすぐにでも拘束すべきところだが、流石に一人では心許ない。

「ジョージア先生!!」

「戻られたんですか?!」

 タリウスが思慮していると、監督生が二人、廊下を駆けてくるのが見えた。彼らの表情からは驚きと共に安堵が窺えた。

「火事は?どうなった」

「ほぼ鎮火しました!!」

「丁度小雨が降り始めて、お陰で、そんなに燃え広がらずに済みました。自分たちは兵舎内の見回りを…って、せんせいっ!どうされたんですか?!」

「騒ぐな。大したことはない」

「ですが、出血しています。それに、そっちの予科生も怪我を…」

「一体何があったんですか?!先生!」

 次第に本科生たちの声が大きくなる。火事騒ぎで興奮状態にあることを考えれば当然であるが、下手にシリルを刺激して欲しくない。

「口を閉じろ。訓練生同士のいさかいなど珍しくも何ともない」

「そうかもしれませんが…」

「そんなことより、ミルズ先生のところへ報告に行け。ターナー、お前はこの場に残り、こいつを捕縛するのを手伝え」

「じ、自分がですか?」

 ヒース=ターナーはぎょっとして、こちらを見返してきた。確かに、いくら監督生とはいえ、訓練生にやらせるようなことではない。だが、背に腹は代えられなかった。

「やり方はわかる筈だ」

 さも当然の如く命じると、ヒースはおっかなびっくり縄に手を伸ばした。そうしてヒースの手が後輩の身体に触れようとしたとき、突然耳元でゴニョゴニョと囁くのが聞こえた。

「え?何…うわっ!!」

 シリルに向き直った瞬間、突然砂粒ようなものが顔面に降り掛かった。

「痛っ!!」

 ヒースは両目を覆い、ひどく痛がった。そんなヒースのすぐ脇を、シリルが駆け抜けていく。タリウスもまた、すぐさま後を追い掛けようとするが、ドサっという音に背後を振り返った。

「ターナー?大丈夫か?!」

 ヒースは床に崩れ落ち、苦しそうに声を上げた。

「せんせい、すいません。目が焼けるように熱くて、開けられません」

 ヒースの痛がりようから見ても、それがただの砂でないことは充分に考えられる。手当が遅れれば、光を失うかもしれない。

「つかまれ。無理に目を開けなくて良い」

 ヒースに肩を貸し、視線を上げると、ザッカリーと目が合った。

「待て、ミラー」

 ザッカリーは意図的に目をそらすと、シリルが走り去ったほうへ駆け出した。

「だめだ。戻れ!!」

 タリウスは声を限りに叫んだ。


 ザッカリー=ミラーは、全速力で級友を追った。走っているうちに次々と疑問が沸き上がり、もはや何が何だかわからない。だが、今は級友の暴走を止めるのが先決である。そして現状、それが出来るのは自分だけだ。

「やっぱりおかしい。おかしい!おかしい!!」

 シリルは喚きながら玄関を飛び出した。降りしきる雨の中、一目散に目指す先は門扉だ。建物から離れるに従い、灯りがなくなる。敷地の外に出られたら最後、夜の闇に紛れてシリルを見失うかもしれない。

 ザッカリーは雨でぬかるんだ地面に足を取られながらも、無理やり走る速度を上げた。そうして、シリルの背中が見えるや否や、勢い良く飛び掛かった。

「おかしいのはお前のほうだ!」

 二人は折り重なるようにして転倒した。

「退けよ!ザック!」

 シリルは身を捩って抵抗し、自分に馬乗りになったザッカリーの顔面に後ろ手を叩きつけた。

「邪魔するな!もう少しで呪いが完成するんだ!」

「呪いって?何のことだ?」

 ザッカリーが片手でこめかみを抑え、その間に、シリルが土の上に這い上がる。

「言ったところでザックにはわからない」

「誰かを、ひょっとしてまた先生の子を襲うつもりか」

「あいつか。確かに犠牲にするには丁度良い」

 当てずっぽうで言ったことだが、シリルは笑いながらそれを肯定した。

「あんなに幸せなんだ。今死んだって悔いはない筈だ」

「幸せ?先生が言ってたじゃないか。本当の父親は死んで、母親は殺されたって。どう考えても不幸だ」

「どう考えても不幸なくせに、どういうわけか幸せそうに笑ってたんだよ。おかしいだろう?」

 シリルは本気で理解出来ないといった様子で目を剥いた。

「おかしいのはお前だ、コリンズ。俺はさっきまで先生のうちの事情なんか全然知らなかったけど、でもわかる。不幸な生い立ちをしているのに今笑ってるってことは、自分で幸せ掴みとったってことだろう」

「自分で、掴みとる?」

「そうだ。血もつながらないのに、先生が無茶苦茶大事にしてるってことは、そうしたくなる要素があの子にはあるってことだ」

「うるさい!ザックには関係ない!」

 シリルは息を飲み、苦悶に満ちた表情を見せた。

「その子にはもっと関係ないだろ!何の関係もないのに、お前に嫉妬されたってだけで殺されなきゃならないなんて不合理でしかない!!」

「嫉妬?オレが…?!」

「自分と同じように親がいないのに、自分より幸せなのが羨ましいんだろう?認めろよ」

「違う!俺はただ犠牲が必要なだけだ!!」

 シリルは大声で叫ぶと、ザッカリーに襲い掛かった。

「だったら、俺を犠牲にしろ」

「ザック?何い…」

 シリルの攻撃をまともに食らい、唇が切れた。唇にそっと手をあてがい、真っ向からシリルを見据えると、その目が泳いだ。

「誰でも良いなら俺でも良いだろう。元はと言えば、俺が規則を破らなければこんなことにはならなかったんだ。それに、ジョージア先生には助けてもらった恩がある」

「何でだよ。ザックはオニのことを毛嫌いしていただろう。なのに、なんでオニなんかのために…」

「確かに嫌いだった。四角四面で、融通が利かなくて、正直、目の敵にしていた。向こうだってそれは同じだと思ってた。だけど、オニは、ジョージア先生は二度もオレのことを助けてくれた」

 シリルは呆然として、その場に立ち尽くした。

「ナイフがないと殺れないのか?良いから、首でもなんでも絞めろよ」

 ザッカリーが更に畳み掛けると、背後から複数の足音が近付いて来るのが聞こえた。

「せん…」

 ザッカリーが後ろを振り向いた瞬間、ガッという微かな音と共に頭に激痛が走った。

「ミラー!!」

 教官の叫び声が上がり、背後からは争うような声が聞こえた。それから地面がぐっと近付いてくる。だが、なかなか地面に到達しない。そう思っていると、身体が軽くなった。

「今コリンズを挑発したら、こうなることはわかっていただろう!何だってこんなことを…」

「時間を、稼ごうと思い、ました」

 どうやら自分は今、教官の腕の中にいるらしい。後頭部が圧迫され、ドクドクと割れそうに痛んだ。

「先生がいらっしゃるまで、足止めしようと…」

「足止め?コリンズはどこに向かおうとしていた」

「また、先生の、お子さんを。だから」

「だからと言って、こんなことをしてくれなくとも、家までは辿り着けるとは思えないい」

「そう、です、ね…」

 意識はそこで途切れ、その先はひたすら暗闇だけが広がった。