「戻りました」
「タリウス。お帰りなさい」
徹夜明けである。帰宅したタリウスが食堂を覗くと、ユリアが書き物をしていた。通常業務を外されてからというもの、段々と曜日の感覚がなくなってきたが、今日は休日である。
「お疲れさまです。今、お茶をおいれしますね」
ユリアは椅子をひき、立ち上がろうとするが、足元がふらついてバランスを保てない。きゃあと短く声を上げ、彼女はテーブルの上へ両手を付いた。
「大丈夫ですか?」
すぐさまタリウスが駆け寄り、背後から支えた。彼女の身体は冷えきり、見たところ顔色も良くない。
「まさか、夜通しやっていたんですか」
「いえ」
瞬間的に視線が横へ逸れる。
「違いますか」
「ええ、その、眠れなかったものですから」
ひとまずユリアを椅子に座らせ、タリウスは額に手をやった。昼夜逆転生活を送る自分とは異なり、彼女は昼間仕事に行っている。その上、息子のことも任せきりだ。
「でも、シェールくんはぐっすりお休みでしたよ。何度か見に行きましたけれど、その度に心地の良い寝息が聞こえていました」
「シェールのことも勿論心配ですが、こんなことをされては今度はあなたが身体を壊します。いや、それもこれも私のせいだ」
視界に端に入ったのは、古めかしい異国の本だ。上官に許しを得て、持ち帰った後、彼女に解読を依頼した。
「いえ、お役に立てるのであれば本望です。ただ、随分と古いものですし、見てのとおり状態もよろしくありません。いい加減な仕事はしたくないので、もう少しお時間をいただけますでしょうか」
「それは勿論…いや、もう良い」
タリウスは本を手に取り、パタンと閉じた。
「はい?」
「もう結構です。これ以上、負担を掛けられない」
「殆ど唯一の手掛かりなんですよね。良いんですか?簡単に諦めてしまって」
「諦めはしません。私が自分でやります」
「そんな、語学学校に通うところから始めることになります」
「それでも構わない」
「でしたら、私が教えて差し上げます」
ユリアは立ち上がり、夫の手から本を奪い取った。何事かとタリウスが目を見張る。
「これは呪いの本です」
「何?」
「正確には人を呪う方法が書かれた本です。儀式のやり方から必要な材料まで、事細かに書き記されています」
「どういう、ことですか」
再びユリアを椅子に掛けさせ、彼もまた近くに腰を下ろした。
「私ではお役に立てませんでした。今夜にでも、そう言って、お返しするつもりでした」
「一体何故、そんなことを?」
「怖かったからです」
ユリアは身震いをし、そっと夫を見上げた。震える手をタリウスが握った。
「私はその予科生のことを存じませんが、彼がしようとしたことを知ったら、タリウス、あなたは殺してしまうかもしれないと思って」
「私が予科生を?」
「ごめんなさい。酷い想像ですね。でも、あなたがどれほどシェールくんを大事に思っているか考えたら、あながちないとは…」
言葉は尻つぼみになり、ユリアは目を伏せた。
「今話してくれたのは、そうなったところで仕方がないと思ったからですか」
「違います!止めたいと思ったからです」
声を荒らげ、今にも泣き出しそうなユリアを見て、心底いたたまれない気持ちになった。最愛の人に、こんな想像をさせてしまうことがたまらなく嫌だった。
「すみません。話がよくわからないのですが、奴はシェールを呪い殺すつもりでさらったんでしょうか」
「いいえ、それはないと思います。直接手を下せるなら、わざわざ呪いなんて回りくどい方法をとるとは思えません。そうではなくて、その材料とでも言いましょうか」
「材料?」
「呪いにはたくさんの手順、準備があるようです。蝋燭やお酒といったものから、薬物や、乙女の血、子供の…」
「仰らなくて結構です」
考えただけで、胸糞が悪くなった。彼女の想像は的外れどころか、大当たりと言って良い。口の中にどろどろとした感情が広がり、たまらなく不快だった。
「本当の狙い、呪いの相手については、何か心当たりはありますか」
「直接関係があるかはわかりませんが、奴は表向きは商家の出ですが、実の父親は名の知れた人物のようです。つまり…」
「庶子ですね」
「本人は最近までそのことを知らずに育ったようですが、どうやら本来の跡取り、恐らく正妻の子だと思いますが、そちらが病に倒れたことがきっかけで…」
「士官学校に送り込まれたわけですか」
「そこに本人の意志があったかどうか、定かではないのですが、そういった話を聞きました」
「でしたら、呪いの相手は正妻の子でしょう。彼の生い立ちがどんなものなのか、私には知る術はありませんが、もし不遇な子供時代を過ごしたとしたら?そして、突然今度はスペアのような使われ方をしたとしたら、身勝手な大人のせいで性格が歪んでしまったとしても…」
「だからと言って、許せることではない」
人には皆事情がある。だが、そんなものはこちらには無関係だ。
「タリウス」
「無論、殺しはしない。ユリア、不安にさせて申し訳なかった。だが、お陰で冷静になれた」
ユリアに余計な心配を掛けた分、心持ち、こちらの気が休まった。
「ジョージア。お前さんの読みどおり、例の抜け穴に予科生が現れた」
老教官が息せき切ってやってきたのは、その日の夕刻である。平日の訓練終了後から翌朝までは、タリウスが抜け穴に張り付いていたが、この日は訓練のない休日とあって、複数の教官が交代で見張りを行っていた。
「コリンズですか」
「いや、ミラーだ」
「ミラー?まさか、あいつが犯人だったと言うんですか?」
「それはまだわからん。ミルズが今詰めているところだ。ともかく来い」
「わかりました」
「とうさん!」
タリウスがすぐさま駆け出そうとするも、背後から幼い声に呼び止められた。
「どっか行くの」
振り返って見た息子は不満そのものだ。このところ生活時間がすれ違い、ほとんど一緒にいてやれていない。そんな中、今日は久々に息子と過ごしているところだった。
「ああ。鬼退治だ」
「鬼退治?」
シェールは一瞬きょとんとした後で、
「そっか。いってらっしゃい!」
と言って笑い掛けてくれた。
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