中央士官学校の廊下を少年がひとり全速力で駆けてくる。利き手には、今まさに書き上げたばかりと思われる課題が握られている。未だ乾ききっていないインクが、課題を持つ指を汚していた。
「廊下を走るな」
「す…みません」
少年は荒い息のまま、教官を見上げた。
「時間切れだ」
「で、ですが…」
「言った筈だ。期限内に提出されない課題は採点しない」
少年がすがるような目を向けるも、教官は無情に振り払う。
「期限内に書き終わりました」
だが、少年は負けじと、口の中でボソボソと呟いた。
「ならば、何故提出に来ない」
「読み返して気に掛かる部分があったので、書き直していました。不完全なものを期限内に提出するより、完璧なものを書き上げたほうが…」
「直しも含めて期限内だ」
肩を震わせ、必死に弁明する言葉を教官が遮る。少年の言わんとすることはわからなくもないが、無論認めるわけにはいかない。真面目で完璧主義な性格が裏目に出る、初歩的なミスだ。早いうちに克服すれば、さしたる問題にはならない。
「たった五分ですよね」
だが、続く言葉に教官の声音が変化した。
「何だと」
「五分くらい…」
「黙れ」
懲りずに抗弁を繰り返す訓練生の胸ぐらを教官が掴んだ。間近に見た少年の瞳に、恐怖が映る。
「五分を許容すれば、いずれ十分も許容することになる。仮に伝令が十分遅れることがあれば、その間に戦局が変わることは充分にあり得る。子供のような言い訳をするな。一分一秒期限に遅れてはならない!」
だが、次に見た少年からは、既に恐怖は消え去り、代わりに何とも形容しがたい、侮蔑にも似た、気味の悪い笑みが浮かんでいた。
「シリル=コリンズ」
明け方、タリウスは自分の声で覚醒した。背中からは、すやすやと穏やかな寝息が聞こえてきた。
時刻が未明から早朝になった頃、タリウスは宿を出て兵舎に向かった。兵舎の外側を外壁に沿って一回りし、壁に異常がないか目視で確認する。それから、訓練生か朝食に降りるのを見計らい、今度は目当ての居室に潜入した。
士官候補生にプライバシーはない。いつ何時、どの引き出しを開けようと教官の勝手だ。ただそうは言っても、本人のいないところで訓練生の持ち物に触れることは極力避けてきた。それは最低限の仁義であり、また後々無用なトラブルを回避するためでもあった。
しかし、今日だけは事情が異なる。タリウスは、該当の引き出しをそれと悟られぬよう慎重に検めた。ざっと見たところ、特にこれといった違反品は見当たらず、引き出しの中も丁寧に整理されている。通常の点検ならば、まず及第点である。
タリウスは引き出しを元へ戻し、次に本棚に目をやった。教科書など指定の本をやりすごしたところで、ふいに目が止まる。ぼろぼろの背表紙からうっすら読み取れるのは異国の文字だ。
気になって手にとってみたものの、難解な文体に加え、所々文字がかすれており、容易には理解出来ない。タリウスは異国語の本を手にしたまま、更に隣へ目を向けた。
「植物図鑑…?」
口に出した途端、心臓が音を立てた。普段ならまず気に留めることのない一冊だが、今のタリウスはある疑惑で埋め尽くされている。パラパラとページを繰る手が、しおりのところで止まった。
「花の根から精製される薬には、眠気を催すなどの幻覚作用がある。つまり、君はこの植物図鑑と怪しげな異国語の本を理由に、シリル=コリンズを犯人として告発するつもりか」
タリウスはその足で上官の執務室を訪れた。そして、息子の証言と共にシリルの棚にあった本について一通り報告した。
「そこまでは言いませんが、コリンズが何らかの事情を知っている可能性はあります」
「君も知ってのとおり、あの日予科生は全員外禁だった。仮にコリンズが犯人なら、私の目を盗んで脱走を図ったということになるが」
想像したとおり、自身の推測を聞くなり、ゼイン=ミルズは露骨に嫌な顔を見せた。聞きようによっては、上官の管理に抜け目があったと言っているようなものだ。ゼインが不快に思うのも無理はない。だが、こちらとしても簡単に退くつもりはなかった。
「正面からは無理でも、どこか別の場所、例えば演習林のほうから脱走を図ったとしたら…」
「あの壁を登ったと言うのか」
「やってやれないことはないと思います」
「シェールを抱えてか?」
「登るのが無理でも、どこかに抜け道のようなものがあれば」
「その抜け道とやらはどこにある」
「それは現在調査中ですが、必ずどこかに穴がある筈です」
「そこまで言うからには、某(なにがし)かの根拠があるのだろうね」
「それは…」
タリウスが口を開こうとしたそのとき、乱暴に扉が叩かれ、部屋の主を呼ぶ大きな声が聞こえた。
「主任教官殿!!」
老教官である。今朝方、散歩をしているところに行き逢い、事のあらましを話したところ、すぐさま協力を申し出てくれた。
「取り込み中だ」
「お取り込みのところ大変申し訳ないが、急ぎ報告したいことがあって馳せ参じました」
ゼインが渋い顔で応じるも、老教官は全く意に介さず、ずかずかと部屋の中へ押し入った。実際のところ、少しも申し訳ないなどとは思っていないのだろう。
「何の用だ」
「用と言うのは他でもありません。実は………うん?何です、それは」
老教官の目がゼインの机上に釘付けになる。
「シリル=コリンズの持ち物だそうだ。ジョージア教官は、コリンズがこれらの本を使い、何やら良からぬ薬を調合し、それを用いてシェールを襲ったと考えているらしい」
「確かに、あいつはよくひとりで演習林におる。主任教官殿もコリンズを疑っておいでに?」
「まさか、それだけのことで疑いを掛けるわけにはいくまい」
些か興奮気味な老教官と相反して、上官のほうはどこか覚めたように見受けられる。
「何故コリンズごときに及び腰になる?名家の跡取りというわけでもないだろうに」
「それはあくまでも表向きの話だ」
「妾腹か」
「好きに想像したまえ」
どうやらシリル=コリンズは、こちらが想像していたより厄介な手合いのようである。
「ともかく、証拠も無しに下手に疑いを向ければ、後々動きづらくなる。だいたいあの日は、コリンズに限らず、予科生は等しく外禁だった」
「おお、そうだった。忘れておった。実は、演習林のどん詰まりにある外壁に、綻(ほころ)びを見付けましてな、その報告で参りました」
「綻びだと?」
「鉄格子の下の部分が劣化して、簡単に取り外せるようになっておりました。ジョージア、お前さん上ばかり見とっただろう」
老教官がそう言って肩で小突いてくる。確かに自分は、どこかに足場になるようなものはないかと、目線より上を見て回っていた。
「この老いぼれでも身体を屈めれば通り抜けることが出来ました故、若い者ならば簡単に出入りすることが可能でしょうな」
「何を悠長なことを。直ちに塞げ」
「穴を塞げば、脱走者はなくなり、事件も終息するでしょうが、反面、犯人は捕まりにくくなるでしょうな」
「このまま泳がせろと言うのか」
「なに、抜け穴を見張れば良い」
「四六時中見張れと言うのか。当直だけでは無理がある」
「でしたら、私が」
上官達のいさかいに、すっかり取り残されたタリウスが割って入る。
「日中は訓練がありますし、消灯後は当直が注意を払えば、訓練終了後から消灯までで済みます」
「さっきから君の言っていることは支離滅裂だ。ジョージア、君には当面、訓練生と関わりをもつことを禁ずる。一旦、すべての訓練から外れろ」
「しかし…」
「そんなことをしたら兵舎内の規律が保てなくなります」
冗談じゃない。そう思い反論し掛けるが、老教官の声にすぐさま掻き消された。
「この際、それも致し方ない。ともかく今は成りを潜め、ひたすら気配を消せ」
全くもって承服しかねるが、こうなったら最後、上官を翻意させることは不可能だ。不本意だが受け入れるしかない。
この日を境に、兵舎内の空気が一変したのを、訓練生たちは敏感に察知した。そして、以来一向に姿を見せない担当教官に対し、口々に疑問を呈した。
「ジョージア先生はどうかされたんですか」
「ジョージア教官は、一時的に別の任務に就いておられる」
兵舎の中は、たちまち噂で持ち切りになった。
「どうしたんだろう、ジョージア先生。いきなり他の任務なんておかしくないか」
「聞いてないのか?この前の事故のこと。弓術の補習のとき、子供が…」
「それは知ってるけど、だからって何で?」
「オレ、あの補習に出てたんだけど、ノーウッド先生もミルズ先生も、そりゃあすごい慌てっぷりだった。だから、あのときの子供は偉い人の子供じゃないかって」
「偉い人って?」
「例えば、統括の孫とか」
「それで責任取らされたってこと?」
似たような噂話は方々で飛び交った。
「おい、どう思う。何かおかしくないか」
ザッカリー=ミラーもまた、そんな噂話を耳にしたひとりである。
「どうって?」
彼のすぐ隣では、シリル=コリンズが無感情に聞き返した。
「あれは元々ミルズ先生の補習だ。それに、近くにはノーウッド先生だっていた。それなのに、何でオニだけが処分されるんだよ」
「ザックはあの事故があったとき、補習に出ていたのか?」
シリルの瞳に僅かに光が宿る。
「いや。だけど、近くにはいた」
「じゃあ、オニが取り乱すところを見たか?」
「どうだろう。怒鳴り散らしてはいたけど、むしろノーウッド先生のほうがずっと慌てふためいてた」
「オニには血も涙もないんだな」
シリルが口の中で呟く。
「え?」
「いや、別に。でも、良かったじゃないか。ザックはオニのジョージアを追い出したかったんだろ?これで万々歳だ」
「一番下っ端ってだけで、一人で責任を取らされるなんて不合理だ」
「折角邪魔者がいなくなったっていうのに、ザックは面倒だな。だいたい、その噂が本当かどうかもわからないのに」
「コリンズ?」
独り言のようにシリルが言った。実際、彼の目はザッカリーを通り越し、遠く空(くう)を見つめていた。
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