「戻りました」

「ああ、タリウスさん。あんたのほうかい」

 翌日、帰宅したタリウスを女将が忙しなく出迎えた。

「何かありましたか」

「それがぼっちゃんが帰ってないんだよ。いつもならお稽古に夢中になってるだけだろうって思うところだけども、今はこんなときだろ。心配で…」

「捜してきます」

 タリウスは回れ右で、今入ったばかりの玄関を再びくぐり抜けた。だが、いくらも行かないところで、求めていた影と行き逢った。

「シェール!」

「とうさん」

「せんせい」

 三人はほぼ同時に口を開いた。

「エヴァンズ、何があった?」

「あ、いえ。なんかひとりで帰るのを不安そうにしていたんで、自分が上がる時間まで待たせて、送ってきたんですけど」

 シェールのすぐ隣で、教え子が探るような目を向けた。

「すみません、先生。遅くなってしまって、むしろ心配しましたよね。ホントすみません、申し訳ありません」

「事情がわかれば良い。わざわざ悪かった。シェール、先生にお礼を」

 シェールは父親に言われたとおり頭を下げると、家の中に消えていった。

「ジョージア先生、あのう」

 タリウスもまた息子に続こうとすると、背後から呼び止められた。

「何かあったんですか?」

「何故そう思う」

「あ、いや、なんかいつもより元気がなかったですし、それに稽古にもいまいち集中出来てないみたいに思えたんで。あ、別に告げ口してるわけではなくてですね」

 この教え子は、一端に息子のことを心配してくれていた。

「エヴァンズ、この後少し時間を取れるか」

「もちろん、かまいませんが」

 現状を打破するのに、彼なら一役買ってくれるかもしれない。何故だろう。直感的にそう思った。

「ならば、一杯付き合え」

「えぇ?!ああ、はい!」

 まるで予想し得なかった誘いに、テイラーは素頓狂な声をあげた。


「それってもう犯罪ですよね」

 それから数分後、カウンターの片隅で、テイラーは控えめに声をあげた。

「外でやればな。手っ取り早く俺を攻撃したいなら、息子を狙うのが一番効果的だ」

 一連の事件について、部外者に漏らすべき内容ではない。だが、シェールの件は表沙汰にしたくても出来ない、あくまで個人的な話だ。そう思い、息子のくだりに限定して、教え子に話すことにした。

「そんな、何の関係もないじゃないですか。どれだけ怖かったか…」

「あれ以来、毎晩のようにうなされている」

 苦々しく言って、グラスを口に運んだ。

「それで、犯人の目星は付いているんですか?先生を逆恨みしそうな奴とか」

「こうなってくると疑心暗鬼で、もはやどいつもこいつも疑わしい。お前だって、俺を殺してやりたいと思ったことが一度や二度あるだろう?」

 主任教官の言葉を借りれば、そう思われることがこの仕事なのだ。

「そ、そんな物騒なこと思ったことないっすよ。そりゃ昔は、っていうか予科生の頃は、先生のことが心底苦手でしたけど。でも、先生をどうこうしようなんて思ったことはなくて、むしろ毎日逃げ出すことばかり考えていました」

「犯人は予科生だと思うか」

「そりゃそうですよ。本科に上がってからは、忙しくてそんな余裕ないですし、それに予科生のときほど先生とも関わらないっていうか。先生は本科生を疑っているんですか」

「そういうわけではないが、予科生はあの日、全員外禁だった。その上、当直はミルズ先生だ」

「その状況で外に出るのは不可能ですね。抜け穴でもないかぎり」

「抜け穴?」

 タリウスははっとした。

「いや、無理だと思います。外壁は意外に高いですし、それに鉄格子も。だいたい壁なんかよじ登っていたら、嫌でも目につくでしょうし」

「だが、演習林の奥にある外壁なら?あそこなら人目につかない。それに、シェールが演習林側から連れ込まれたとしたら辻褄が合う」

「あんな遠くまでわざわざ行きますかね?そうだとしたら、なんかもう凄まじい執念ですね」

 そう言うと、テイラーは下を向いて考え込んだ。それから、グラスを見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「確かにあの頃は、先生に反発したりもしましたけど」

 グラスの水面に映るのは、当時より幾分成長した自分である。

「あとから考えたら、先生はひとつも間違ったことは言ってないし、本科生に上がれたのだって、鬼の追試のお陰です。今だっていろいろありますけど、予科生のときを思えば全然だし、だから、厳しく仕込んでもらってありがたく思います」

 クスリと教官が笑った。

「たまには教え子に奢るものだな」

「あ、いや、別にそう言うつもりじゃ…」

テイラーは何だか身の置き場に困り、慌ててグラスの中身を喉へ流し込んだ。

「けど、せんせい。真面目な話、当時を振り返ってみても、やっぱりそいつのしたことは理解出来ません。正直、異常だと思います」

「そうか」

「そうですよ。絶対逃がしたらダメです。早いところしばき倒してください」

「簡単に言うな」

「何でですか?たかが予科生じゃないですか」

 教え子はさも不思議そうにこちらを見た。

「まあ、そうなんだが」

 言われてみれば、至極当然のことである。

 教え子と別れ自室へ戻ると、すぐさまシェールが駆け寄って来た。そわそわと落ち着かない様子を見るに、要らぬ心配をさせてしまったのだろう。

「遅くなってすまない。エヴァンズと話していた」

「暗いところを通るのが嫌で、なかなか帰れないでいたら、先生が一緒に帰ってくれるって。だから、先生は少しも悪くなくて」

 どうやら息子の心配の種は、他にあるらしい。

「安心しろ、シェール。お前の先生を叱りつけていたわけではない」

「へ?そうなんだ」

 シェールは吐息し、心底ほっとした顔を見せた。一体どんな想像をしていたのだろうか。

「エヴァンズが好きか」

「うん。せんせい結構強いし、それにやさしいんだよ」

「そうだな」

 やさしい教え子に救われたのは、タリウスとて同じだ。

「シェール、嫌なことを思い出させて申し訳ないが、あの日のことをもう一度よく思い出してくれないか」

「犯人を捕まえるため?」

「ああ。だが、捕まえるのは俺ではない。公安だ」

「公安に捕まるの?!」

 何でとシェールは目を丸くした。

「このまま放っておけば、また誰かが危険な目に遭うかもしれない。そうなる前に犯人を見付けて公安に引き渡す」

「公安に捕まったら、牢屋に入れられる?」

「悪いことをした報いは受けなくてはならない。これが子供なら家で叱られれば済む話だが、大人はそうはいかない」

 シェールには、幾分刺激の強い話かもしれないが、もはや綺麗事を言っている場合ではない。納得したのか、息子はそれ以上何も言わなかった。

「とうさんのせいで、お前には嫌なおもいばかりさせて、申し訳ない。シェール、ごめん」

「とうさんのせいじゃないよ。ミルズ先生も、おじいちゃん先生も、いっぱい謝ってくれたけど、別に僕は平気だから…」

「平気なわけがない」

「え?」

「少なくとも俺は平気ではない。大事な息子を傷つけられて、平気な筈がないだろう」

「とうさん」

 シェールはまじまじと父親を窺った。

「演習場で怪我をしたお前を見たとき、すぐに駆け寄ってやりたかった。だが、立場上、俺にはそれが出来なかった」

 言いながら、感情がたかぶって迂闊にも泣き出しそうになった。本当に泣きたいのは、他でもない。息子だというのに。

「おいで」

 息子の身体を覆うようにして抱き上げ、それから自分のベッドに座らせた。

「肝心なときに役に立たなくて、辛いときに寄り添ってやれなくて、本当に悪かった」

「もう、いいよ。何か思い出したら言うから、絶対犯人捕まえて」

 予科生など恐るるに足らない。タリウスの頭の中で、先程教え子の言った台詞が再生される。

「わかった」

 快諾して見せると、愛し子は久しぶりに笑顔を見せた。


「お邪魔しても?」

 ノックの音と共に涼やかな声が聞こえたのは、そんな折りだった。シェールはベッドから降り、そっと戸を引いた。

「お、おねえちゃん?!どうしたの?そのお花」

 そして、ユリアを見るなりぎょっとした。

「お花の香りに安眠効果があると聞いて、院長から譲っていただきました」

 彼女は両腕に大きな花瓶を抱えていた。花瓶の中には、色とりどりの花が所狭しと生けられ、ユリアの顔も見えないほどだ。

「甘いにおい…」

 シェールはポツリと呟き、その場に立ち尽くした。こちらに背を向けているため、表情まではわからないが、何だか様子がおかしい。

「花瓶をこちらへ。シェール、一体どうした?」

 タリウスはひとまずユリアから重そうな花瓶を受け取り、息子を窺った。

「思い出した。甘いにおい、花の香りだ」

「うん?」

「確かあのときも、花の香りがした」

「この前のお休みのときのことね。これと同じお花だった?」

 すぐさまユリアがシェールの前に膝を折った。

「ううん。もっと甘ったるくて、強くて、匂いを嗅いでるうちに頭がくらくらして、動けなくなった」

「幻覚剤か、何かでしょうか」

「ええ、恐らくは。演習林は自然の宝庫ですから、そういったお花が自生しているかもしれませんね」

「まさか…」

 大人たちが囁き合う中、シェールは小声で何事かを呟いた。

「…てはならない」

「何だって?」

「一分一秒、期限に遅れてはならない」

 息子の言葉にタリウスははっとする。

「犯人がそう言ったのか」

「うん」

「期限と言うのは、何のことかしら」

「よくわかんないけど、でも、とうさんみたいなこと言うなって思ったんだよね」

 息子の言うとおり、それはいつぞや自分が発した言葉なのだろう。

 士官学校での生活は、集合時刻や制限時間、休日には門限と、起床から消灯までとにかく時間に追われ、いずれも時間厳守が求められる。訓練生、殊に予科生に対しては、日夜似たようなことを言い続けているといっても過言ではない。

「何かの役に立つ?」

 シェールが上目使いでこちらを窺う。

「勿論だ。よく思い出してくれた」

 そんな息子に笑い掛け、頭をぽんと一撫でする。息子は充分過ぎるほど協力してくれた。ここから先は、自分の領分である。

 ほんのりと甘い香りに包まれながら、二人は久しぶりに一緒に眠った。タリウスは息子をつぶさないよう注意を払いつつ、先程の言葉を反芻した。

 息子は時間ではなく、期限に遅れてはならないと言った。守るべき時間は星の数ほど存在するが、期限となると話は少々変わってくる。

 この夜、タリウスの頭の中には、かつて訓練生と関わった無数のやりとりが浮かんでは消えていった。