シェールは森を走っていた。生まれてこのかた、走るのは得意中の得意である。同じ年頃の子供相手なら勿論、たとえ大人であっても、滅多な相手には負けない自信があった。
ところが、どういうわけか今は勝手が違った。頭がくらくらして視界が定まらない。その上、いくらも走らないうちに息が上がり、苦しくてたまらなくなった。
後ろに注意を向けると、背後から獣のような息づかいが近付いてくる。シェールは横目でちらりとそれを見やり、全身総毛立った。
「うわあああぁぁあ!!」
深夜、突如として上がった子供の叫び声に、タリウスは跳ね起きた。
「とうさん!!」
「シェール、ここだ。俺はここにいる」
一直線に隣のベッドへ駆け寄り、泣き喚く息子を抱きとめる。シェールは震えながら、父親の身体にぐいぐいと頭を押し当てた。
「オニ!オニがいた!」
「大丈夫だ」
「本当に、いたんだ」
「オニだろうが何だろうが、お前のことは俺が守る。必ず守るから、心配しなくて良い」
「うん」
シェールが落ち着くのを見計らい、ベッドに寝かせる。そうして傍らに腰を下ろし、不安げにこちらを見上げてくる息子に、大丈夫だと繰り返した。
「ほら、もうおやすみ」
息子の髪をひとなでし、毛布からはみ出した手に自分の手を重ねる。未だ頼りない手ではあるが、それでも初めて会った頃に比べれば、随分と成長を遂げた。
それが、一体全体どうしてこんなことになってしまったのだろう。
タリウスは、再び眠りへと落ちていく息子を横目に、大きなため息を吐いた。
話は一旦、二週間前まで遡る。
「ここ最近、兵舎周辺にオニが出没しているとの話を聞いたが、君は知っているか」
「オニ?」
夕刻のことだ。ゼイン=ミルズの執務室に呼ばれたタリウスは、上官の発言に瞳を瞬いた。
「それはつまり、あのオニのことですか」
「ああ、そうだ。あのオニが婦女子を、それも女学生ばかりを襲っているそうだ」
「その話の出所は…」
「公安だ」
上官の一言で、タリウスは一気に気色ばんだ。それまでは、訓練生の噂話かせいぜいが都市伝説くらいだと高をくくっていたからだ。
「表向きはうちへの注意喚起だが、その実、訓練生を疑っていることは明白だ」
「訓練生を?あり得ません」
「何故そう言い切れる」
「ご存知のように、普段の日は訓練生に外出の自由はありません」
「だが、そのオニ、恐らくはオニのような風体をした変質者だろうが、そいつが現れる時間帯は、得てして黄昏時だそうだ。その時間、訓練はひけているだろう」
「確かにおっしゃるとおりですが、外に出るには教官室の前を通るよりほかはありません。もし仮に、教官の目を盗んで抜け出したとして、帰りもうまくいくとは限りませんし、ましてやそう何度も…」
「確かに君の言うことはもっともだ。しかし、どうにも気になる」
そう言って、ゼインはしばらくの間、考え込んだ。
「どうだろう。ここはあえて、訓練生にこの事実を伝え、反応をみてみるというのは」
「どうもこうも、ただでさえ多感な年頃です。そんな与太話を聞かせたら、たちまち無用な騒ぎが起きるに決まっています。反対です」
「多感な年頃だからだ。下手に隠しだてして、この話が余所から伝われば、噂が噂を呼び、余計に騒ぎが大きくなる」
「そうかもしれませんが」
わざわざ寝た子を起こすこともない。そう思い更に反論しようとすると、上官もまた口を開いた。
「大体、士官学校にオニが出没したと聞いて、まず初めに彼らが思い付くのは、間違いなく君だ。噂とは言え、君が変質者扱いを受けるのは心苦しい」
その言葉をそっくりそのまま返してやりたいところだが、立場上そうもいくまい。タリウスは吐息した。
「お心遣い痛み入ります。わかりました。今夜にでも私から伝えます」
「結構」
上官は満足そうに微笑んだが、目は少しも笑っていなかった。
数時間後、タリウスは消灯点呼をするため、時間きっかりにホールへ入室した。訓練生は二列横隊で整列していた。ざっと見回すと、後列に一人分空きを見付けた。
タリウスがそのことについて言及しようとしたそのとき、背後から床を踏み鳴らす耳障りな音が聞こえた。
「遅い!」
間髪入れずに怒鳴り付けると、少年はその場で静止した。少年の名前は、シリル=コリンズ。成績は中の上、良くも悪くも目立たず、普段から他者と関わることなく、もっぱら一人で行動していた。
「何故時間に遅れた」
「すみません。急に腹の調子が…」
シリルが顔を歪める。額には汗が滲んでいる。タリウスは彼を一瞥すると、顎をしゃくって列に付くよう促した。
入校以来、シリルが問題らしい問題を起こしたことはない。模範生でこそないが、何事にも真摯に取り組む姿勢はタリウスも評価していた。
それから、一通り連絡事項を伝えた後で、最後にくだんの件に触れた。諸々考えた末、オニという単語は出さなかった。
「万が一不信な人影を発見した場合、決して騒がず、直ちに報告しろ」
それでも、少年たちの好奇心を掻き立てるには充分なのだろう。方々から囁き合う声が聞こえた。彼らが日頃、閉鎖された空間に押し込まれていることを考えれば、至極当然である。
「また、普段から噂や流言に惑わされず、冷静に物事を判断するように」
だが、それを許すかどうかはまた別の問題である。
「連絡は以上だ。予科生は残れ。消灯までその場で起立していろ」
本科生が我関せずとばかりに退出し、後に残された予科生は、互いに探るような視線を向けた。
「私語をした者は踵をあげろ」
そのうちのいくつかをタリウスが捉える。教官が黙って視線を返すと、彼らは一様につま先立ちになった。
「まるで監獄だ」
それは、囁きというには些か大きかった。
「口を慎め」
声の主は、ザッカリー=ミラー。成績優秀で決して素行も悪くはない。だが、恐ろしく不従順だ。タリウスはザッカリーに対して、ここ数年の中で最も扱いづらさを感じていた。現に、ザッカリー自身は、今も直前まで口を開いていない。
「嫌だと言ったら?身分証を取り上げますか」
ザッカリーがポケットから身分証を取り出し、こちらへ寄越そうとする。挑戦的な瞳は真っ直ぐに教官を見ていた。
「その必要はない」
瞬時にザッカリーの瞳が大きくなる。
「予科生は全員、今週末は外禁とする」
「え………」
たちまち辺りにざわめきが広がる。
「何でですか?他の皆は無関係な筈です」
「一人でも規律を乱す者がいれば、全体に悪い影響が出る」
「で、でも」
「言った筈だ。教官の言うことは絶対だ。気に食わないのなら、ここを去れ」
ザッカリーの顔色がさっと青ざめるのがわかる。
「そこだけはお前の意志が尊重される。監獄とは違ってだ」
悔しそうに唇を噛むザッカリーに、タリウスは冷ややかな視線を送った。
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