「ただいま」

 翌日、仕事を終えたタリウスは、自室に戻りいつものように帰宅を告げた。

「おかえり…」

 ややあって、掠れた声が返されるも、息子の姿は見えない。てっきりまた出窓にでも座っているのだと思った。

 ここへ来た当初は、シェールが出窓へ上がることを禁じていた。だが、息子はどうにもこの場所が好きなようで、何度叱っても効果がなく、やむなくそのことを容認した経緯がある。そんな出窓は、今でも息子のお気に入りの場所である。

 しかし、出窓にも息子の姿はなく、視線を落とすとベッドにふくらみがあった。

「どうかしたのか」

 シェールはベッドに潜り込み、こちらに背を向けていた。

「ううん、平気」

 様子がおかしいのは明らかだが、無理矢理聞き出すような事柄なのか、すぐには判断がつかない。そこでタリウスは、一旦息子から離れた。

「やっぱり僕、間違ってた」

 タリウスが自分のベッドで着替えをしていると、背後から今にも泣き出しそうな声が聞こえてきた。

「うん?」

「嘘ついて自分がやったって言ったこと、やっぱり少しも良いことじゃなかった」

「何故そう思った?」

「何でって、だって、だって…」

 シェールが声を詰まらせる。タリウスは着替えもそこそこに、息子の傍に腰を下ろした。毛布の上からそっと肩に触れると、息子が声を殺して泣いているのがわかった。

「本当のことがばれたみたいで、今日、相手が謝ってきたんだけど。そのとき、すっごい苦しそうで、昨日僕がやったことにしてって言われたときより、もっとずっと辛そうだった」

 話しながらシェールが鼻を啜る。

「こんなことになるなら、最初から嘘なんてつかなきゃ良かったって思って、謝りたかったけど、でもそれも何か変で、結局何も言えなかった」

 言うまでもなく、一番悪いのはカンニングをして、その罪を息子になすりつけた人物である。だが、その息子も自らを犠牲にして、嘘つきの片棒を担いでいる。被害者であり加害者でもある息子の中で、行き場のない罪悪感がくすぶっているのだろう。

「なあ、シェール。お前は困っている人を見ると、黙っていられないんだろう?」

 コクリと毛布が揺れる。

「そのこと自体は少しも悪くないし、 むしろ良いことだと思う。だけど、その困っている人に対して、自分がしようとしていることが、本当にその人のためになるか、よく考える必要がある。今回のことで言えば、お前のせいで相手は余計に罪を重ねてしまった。そうだろう?」

「そんなふうに、僕、考えてなかった。でも、確かにそうだと思う」

 シェールはハッとして、それからまたぐずぐずと啜り泣いた。

「シェール、済んでしまったことはもう仕方がない。今お前に出来ることは、きちんと反省し、同じことを繰り返さないことだ」

「そんな自信ない」

 昂然と言い放つ息子に、だろうなと、思わず笑いそうになる。

「ならこう考えろ。前に虫歯をほっておいて、夜中に痛くてたまらなくなったことがあっただろう。あのとき俺は、行きたくないと駄々をこねるお前を、無理矢理歯医者へ引きずっていった。もし、あのとき、そんなにイヤなら別に行かなくて良いと言ったとしたら、どうなったと思う?」

「一晩中、大変なことになったよね、そりゃ」

「それと同じことだ。どのみち痛い思いをするなら、被害は最小限にとどめたほうが良い。それは相手のためであり、自分自身のためでもある」

「うん。わかった」

 息子はしっかりと返事を返し、それから手の甲で目頭を拭った。その様子に、もう大丈夫だと思った。それ故、つい不用意な発言をしてしまったのだ。

「ところで、シェール。お前の望みとおり東方に連れていったというのに、何故今も仕事を?」

「とうさんはさ、僕が働くの嫌?」

 息子は質問には答えず、代わりに小さく問うた。

「嫌というわけではないが、手放しで賛成は出来ない」

「どうして?悪いことじゃないって言ってたじゃん。まわりの人にいろいろ言われるから?」

 核心に迫る質問に、一瞬ひやりとした。

「それも多少あるが、それよりもだ。お前には今しか出来ないことをして欲しい」

「今しか出来ないことって?」

「働く以外のことだ。思い切り身体を動かしたり、本を読んだり、友達と関わったり、何でも良い」

「そんなの、いつでも出来るじゃん」

「それがそうでもない。俺はお前より長く生きているから言えるが、大人になるとやるべきことに追われ、そうそう好きに出来る時間はない。お前には、今ある時間を有意義に使って欲しい」

 本人は無自覚だろうが、息子に残された平和な時間はそう長くはない。

「それとも、何か理由があるなら話は別だが」

「それは…」

 掠れた声で言い掛けるが、その後が続かない。

「シェール、この話はまたにしよう」

 弱った息子を理詰めで黙らせることに良心が痛んだ。

「どうして?」

「もう少し元気なときに話し合おう」

「話し合う?どうせダメだって言うんでしょう?!」

 シェールは勢い良く起き上がると、声を荒げた。

「そんなことはない」

「でも、嫌だって言ったじゃん」

「嫌だとは言っていない」

「言ったじゃん!!」

 こうなったら何を言っても無駄である。いきり立つ息子を前に、タリウスは辟易した。一体どこにこんな元気が残っていたのだろう。

「こら、どこへ行く」

 シェールは自分の横をすり抜け、壁に掛かった上着を手に取った。

「どこだって良いでしょ」

「良いわけないだろう。一人になりたいのなら、俺が出ていくから。お前はここにいろ」

 これ以上ややこしいことになるのは御免だった。タリウスは戸口を塞ぐようにして、息子の前に立ちはだかった。

「いやだ」

「こんな時間に一体どこへ行くと言うんだ」

「どっかに泊まる」

「無理だ。第一、先立つものがないだろう」

「なら、今まで稼いだ分返して」

「わかった。明日にでもそれは返す」

「なんで?使ったんじゃないの?」

「いや」

「全然?全く?」

「ああ」

「どうして?!」

 シェールはいよいよ我慢の限界を迎えたらしく、ただならぬ様相でこちらを睨み付けてきた。このままいけば、次は手が出る。

「黙れ!!」

 そこで、やむなく怒鳴り付けると、息子の瞳に恐怖が浮かんだ。

「外の空気を吸ってくる」

 シェールが怯んだ隙に、タリウスは逃げるようにして、部屋を後にした。


「ぼっちゃん、大丈夫かい?」

 階段を降りたところで、心配そうに二階を伺う女将と遭遇した。食事も摂らずに、大声で諍いをしていたのだ。無理もない。

「お騒がせして申し訳ない」

「どうせあんたたちしかいないから、それは良いけど。それよりか、心配なのはぼっちゃんだよ。昨日からずっと元気がないみたいで、今日なんておやつにも来なかったんだよ」

「はあ」

 察するに、一連の騒ぎで頭が一杯になり、それどころではなかったのだろう。そう思い、気のない返事を返すと、たちまち女将が目の色を変えた。

「はあってあんた。大した問題じゃないと思ってるかもしれないけど。私はね、ぼっちゃんがこんな小さい頃から毎日一緒にお茶してるんだ。それなのに、こんなことは虫歯になったとき以来、初めてだよ」

 女将は声のトーンを落としつつ、それでいて鋭くこちらを威圧した。

「そう、ですか」

「そうだよ。何があったのか知らないけど、あの落ち込み方は相当なものだよ。ぼっちゃんは、そこいらの子よりよっぽど賢いし、身体も大きくなったけど、それにしたってまだ子供じゃないか」

 確かに今日のシェールは、見るからにひどくうちひしがれていた。もう済んだこととして勝手に片付けてきたが、本人にしてみれば、それほど簡単に流せることではなかったのかもしれない。

 タリウスはため息を吐き、それから宣言どおり、戸口へと向かった。頭を冷やしたかった。

「ただいま戻りました」

 玄関の戸に手を掛けたそのとき、向かいからなんとも涼やかな声が聞こえた。ユリアの帰還である。

「お取り込み中、ですか?」

「いや…」

「ぼっちゃんが拗らせててね。それなのに、おとうさん、からきし空気読めないから」

 なかなかの言われようであるが、事実なだけに何の反論も出来ない。クスリとユリアが笑った。

「私でよろしければ、ひとまず様子を見に行ってきましょうか」

 いつもながら、彼女の笑顔には大いに救われるおもいがした。


「ただいま、シェールくん。もう寝てしまった?」

 幾度かのノックの後、ユリアはドア越しに帰宅を告げた。

「おねえちゃん?とうさんに何か言われた?」

 シェールは、背中をドアにつけたまま、小声で返事を返した。彼はあのままドアのすぐ前に座り込んでいた。

「いいえ。タリウスなら、頭を抱えて出ていったけれど」

「へ?何で?」

「さあ、女将さんと言い合いと言うか、一方的に責められている感じがしたけれど、よくはわからないわ。気になる?」

「うん。とうさんが僕のことで怒られてるんなら、やっぱりちょっと気になる」

「シェールくんは本当にやさしいのね。でも、そんなふうにいつもみんなに気を遣ってばかりで、疲れない?」

「別にいつもじゃないし、みんなにでもないよ。特にとうさんには言いたいこと言ってる」

「ふふふ。それでタリウスと喧嘩に?」

「だって、とうさんひどいんだ」

 思い出したらまた腹が立ってきた。シェールは立ち上がって、扉を開けた。

「聞いてくれる?」

「ええ、もちろんよ」

 シェールはユリアを招き入れ、それから先程あったことを話して聞かせた。

「信じられなくない?僕があげたお金、全然使わずに返すって言ってきたんだ」

「それはいくらなんでも、あんまりよね」

「でしょう?!」

「でも、使えなかった気持ちも、なんとなくだけど、わかるような気がするわ」

「なんで?お金って、使うためにあるんでしょ?」

「もちろんそうだけど、でも、勿体なくて使えなかったんじゃないかしら」

 しきりにひどいと繰り返すシェールにユリアは苦笑した。

「ねえ、シェールくん。シェールくんが稼いだ硬貨一枚と、大人が稼いだ硬貨一枚とでは、どっちが価値があると思う?」

「そんなの、どっちも同じだよね。店屋に行ったって、同じものしか買えないし」

「でも、タリウスにとってはやっぱり違ったんだと思う。シェールくんが朝早くから起きて、やりたいことも我慢して、頑張って働いたお金だと思ったら、おいそれと使えなかったんじゃないかしら」

「それは、まあ、わかんなくもないけど。だからって、返さなくても」

「もう働かなくて良いって、突き返されたの?」

「さすがにそんなことは、されてないけど」

 ユリアは知らないが、そもそも先に返せと言ったのはシェールだ。それきり二人は沈黙した。

「気を悪くしないで欲しいんだけど、カンニングのこと聞いたわ」

「ああ、あれ。結局全部ばれちゃったんだ」

「そう。色々と辛いおもいをしたわね」

「ううん、全部自分のせいだから」

「自分に責任があろうとなかろうと、辛いものは辛いし、苦しいものは苦しいわ。そうでしょう?」

 やわらかな手が頬に触れた瞬間、折角乾き掛けた目頭がうっかりまた熱くなった。

「だって、私、自分が夜更かししたせいで寝坊したとわかっていたって、毎回落ち込むもの」

「それは、おねえちゃんが寝るの遅すぎなんだよ」

「そうかしら?」

 軽やかな笑い声に、途端に涙が引っ込んだ。何故だかふいに、亡き母のことが思い出された。思わず彼女を凝視すると、今度はそっと手を握ってくれた。

「私ね、カンニングのことを初めて聞いたとき、それが良いかどうかは別として、すごいなって思った。お友だちのことを一番に考えて、自分が代わりに叱られようなんて、とても勇気のいることだもの」

「今考えたら、何であんなことしたのか、もうわかんないんだ。迷ってる時間もなかったし」

「そう。なら、タリウスのことまで考えている余裕はなかった?」

「一応考えたよ。とうさんにうそついて悪いって思ったし、それに、忙しいのに学校に呼び出されたことだって…」

「そういうことじゃなくて。タリウスの気持ち、考えた?」

「とうさんの気持ち?」

 罪悪感に駆られたのも、お仕置きに恐怖したのも、それらはみんなシェール自身の感情である。

「シェールくんが無実の罪で責められたり、評判を落としたりするの、すごく嫌だった筈よ。当たり前よね。シェールくんのこと、大好きなんだから」

 思ってもみなかった台詞に、シェールは言葉を失った。何でそんな簡単なことに今まで気付かなかったのだろう。父の胸中を考えたら、どうにもいたたまれなくなって、ほろりと涙がこぼれた。

「あのね、先生が言ってたんだ。カンニングしたって聞いても、とうさんは全然信じなかったって。僕のこと、信じてくれてたんだ。やっぱり、やっちゃいけないことだったんだね」

 ユリアは黙って頷くと、震える背中をやさしくさすってくれた。シェールはしばらくの間、涙がこぼれ落ちるままに任せた。


 一方、タリウスはと言うと、しばらく夜風に当たっているうちに、混乱した頭が徐々に冷えていった。

 帰宅後、初めに見たシェールは明らかに元気がなかった。だが、元気がないだけで、決して生気がないわけではない。その証拠に、息子の身体からは有り余るエネルギーが溢れ出していた。

 元来、シェールは腕白だが、気性はそう荒くない。そんな彼があれほどまでに怒ることは珍しかった。そうまでして働きたいということか、ただ単に意地になっているだけか、どうにも解せなかった。

 視線を上げると、自室の窓から薄明かりが漏れ出しているのが見えた。今頃、ユリアがうまいこと取り成してくれているだろうか。

 彼女は、子供の扱いがわからず苦悩する自分に、いつも穏やかに寄り添ってくれる稀有な存在である。

 かたや、自分は己の感情ばかりを優先し、全くと言って良いほど、息子に寄り添っていない。息子のことがわからないことより、わかろうとしなかったことが問題なのだろう。思考が明瞭になると共に、今度は自責の念に苛まれた。


「とうさん、どこ行ったのかな」

「そうね、その辺りを一回りしてくるだけじゃないかしら」

 その後、落ち着きを取り戻したシェールは、ユリアに促され、階下へ向かった。だが、食堂に父の姿はなく、念のために確認した玄関の閂(かんぬき)は外れたままだった。

「そうかな。ひょっとしたら、今夜は帰らない気かも」

「まさか」

「ちょっと捜してくる」

「待って、シェールくん」

 言うが早い、シェールは勢い良く玄関から飛び出していく。その後を慌ててユリアが追い掛けた。

「こんな時間にどこへ行くつもりだ」

「とうさん?!」

 宿から数歩踏み出したところで、まさかの父に遭遇した。

「質問に答えろ」

「えーと、その、とうさんを捜しに」

 険のある声に、シェールの背中を冷たいものが伝う。門限後の無断外出は、門限破り以上の罪に問われることを思い出したのだ。

「夜中にひとりで出掛けるなとあれほど…」

「ひとりじゃないわ」

「おねえちゃん?」

 場違いなほど涼やかな声に、シェールは驚いて後ろを振り返った。

「僭越ながら、私も、一緒です」

 そう言うユリアの息が荒い。シェールは、恐る恐る再び父親を窺った。

「今夜のところはユリアに免じて目をつぶる。だが、二度とするな」

「はい」

 従順な返事が返されたことを確認すると、タリウスは二人の横をすり抜け、宿へと入っていった。呆然とするシェールの背を押し、ユリアもまた玄関へと引き返した。

「いろいろおありでしょうが、ひとまず食事にしませんか」

 彼女はそう提案すると、食堂に向かい先に立って歩いた。すぐさまシェールが後を追い、タリウスもまたそれに倣った。

「シェールくんはここで待っていて」

「で、でも」

「お料理を温めたらすぐに戻るわ」

 ユリアはにっこりと微笑むと、有無を言わさず炊事場に下がった。

 シェールはそっと父の様子を窺った。父はいつもの席にいつもどおり腰を下ろしている。

 シェールは観念して、父の向かいの席に着いた。勿論他にいくらでも席はあるが、何年もの間、習慣的に座っている席から他所へ移るのは、なんとなくおさまりが悪い気がした。


「さっきは悪かった。お前の気持ちも考えずに、無神経なことを言ったな」

 意外なことに、先に口火を切ったのは父だった。

「いらないなら、最初からそう言ってくれたら…」

「いらなかったわけではない。ただ何だか申し訳なくて、使ってしまうのが惜しくて、手をつけられなかった」

「ああ、そう。そうなんだ」

 まさに先程ユリアの言ったとおりだった。シェールはきょとんとして、父親を仰ぎ見た。

「お前の気持ちは嬉しい。嬉しいが、そのために負担を掛けたくはないし、そもそもお前を働きにやらなければならないほど、うちは困窮していない」

「わかってるって、そんなこと。ただ自分に出来ることをしたいって思っただけだよ。返せるわけないってわかってるけど、でもちょっとでも返したかった」

「返す?」

 一体何の話かと、タリウスは真顔で聞き返した。

「とうさんから受けた、その…恩って言うか」

「こ、子供はそんなことを考えなくて良い」

 予想外の台詞に、驚いてつい声が大きくなった。

「しょうがないじゃん、僕はそう思ったんだから。それに、認めて、欲しかったんだよね。僕を拾って良かったって、ほんのちょっとでも思って欲しくて」

「そんなことを考えていたのか」

 続く言葉に、タリウスはいよいよもって落ち着かなくなる。

「うん。でも、しないほうが良かったんだよね。そんなに、とうさんが嫌なら…」

「嫌なわけがあるか」

 ようやく現実を受け入れ始めたところで、今度はじわじわと歓喜が上がってきた。

「でも」

「お前の親になれて良かった。だが、それは何も今初めて思ったわけではない。いちいち口にしないだけで、日々そう感じている」

「うっそ」

「本当だ。シェール、お前はとうさんの自慢の息子だ」

 タリウスは臆面もなく言い放った。シェールは驚いて、本当は嬉しい筈なのに、何故だかドギマギして返答に窮した。

「全っ然そんなことないって。昨日だって、考えなしに変なことしちゃったし」

「昨日のことはもう良い。今はまだ辛いかもしれないが、きちんと反省出来たのなら、そこから先はもう前を見るしかない。いずれ、どうにかなる」

「どうにかって、ママみたいなこと言うんだね」

 いとし子は目を見張った。成せばなる、どうにかなるは、旧友の口癖だった。

「確かに、そうだな」

 普段の自分ならまず言うことのない、不確定で無責任な発言である。だが、どうしたことか、今の息子にはそれが最適だと思った。そしてその勢いで、タリウスは自分でも信じがたい発言をした。

「シェール、お前が本気で仕事を続けたいと言うのなら、もう反対はしない」

「ホントに?」

 シェールは信じられないと言ったきり、固まった。もとより信じられないのはこちらも同じだ。

「この際だから、お前の善意に甘えることにした。だが、勉強だけはきちんとしろ」

「わかってる。初めの頃は、覚えることが多くて、時間ばっかり掛かったけど、今はもう慣れたし、そんなに大変じゃない。そりゃ仕事を始める前よりかは忙しくなったけど、その分早く寝るようになったし、宿題だって先に済ませてる。悪いことばっかじゃないよ」

「そうか」

 知らぬまに、息子は随分と進化を遂げたようである。

「でも、とうさん。ホントに良いの?」

「仕方ないだろう。言い出したら聞きやしないんだ」

「そ、そんなことないよ」

「だったら、何故お前は今でも出窓に座っている?」

「は?何の話?」

 こちらにとってそれは、初めて自分が折れた苦い経験だが、息子のほうは記憶にすら残っていないらしかった。

「何でもない。そんなことより、シェール。友達のことを大事にするように、自分自身のことも大事にしてあげなさい。これは命令ではない。とうさんからのお願いだ」

「うん、わかった」

 言い付けは平気で破る息子も、お願いには滅法弱い筈だ。些か卑怯な気もするが、親子喧嘩なんてものは、元来ルール無用だ。そう思うことにする。


 2021.6.22 「鬼心仏心」 了