「カンニング?シェールがですか」
予想外の言葉に、タリウスは思わず聞き返した。机を挟んだ向かいには、年配の教師が苦い顔で腰掛けている。これまでに手紙のやりとりをしたことはあるが、実際に顔を会わすのは今日が初めてである。
「信じられないお気持ちでしょうが、それはこちらとしても同じです。しかし、残念ながら先程本人が認めました」
「本人の自白だけですか。先生はカンニングの現場をご覧になったわけでは」
「見ました」
教師は食い気味に答えた。
「私が見たとき、シェールくんは隣の生徒の机を身を乗り出して覗き込んでいました。その生徒もシェールくんに見られたと言っています」
「答案を見せていただけますか」
「はい?」
「二人の答案を見れば、本当に不正行為をしたかどうかわかる筈です」
仕事柄、この手のトラブルに遭遇することは稀にある。極めて有用な手立てだと思ったが、教師はそうは受け取らなかったようである。
「お気持ちはわかりますが、これは事実です」
彼女は苛立った声を返し、それから些か憐れみのこもった顔を見せた。
「確かにシェールくんの成績は悪いほうではありません。でも、新聞の仕事をするようになってからというもの、時折疲れた様子を見せることがありましたし、疲労から勉強出来ずにいたところに、魔が差したとしても、不思議はない筈です」
新聞配達のことを言われると、立つ瀬がない。これまで本人の意思を尊重してやらせてきたが、こんなことになるなら、無理にでもやめさせるべきだったか。腹の中で後悔が降り積もる。
「今回のことは重大な案件だと思いましたので、お忙しいとは存じましたが、ご足労願った次第です」
教師の説明だけでは到底納得できない。だが、これ以上ごねたところで、話のわからない親だと思われるだけだ。タリウスが諦めて頭を下げようとしたとき、俄に部屋の外が騒がしくなった。
「先生!」
見れば、庭に面したガラスを子供たちが叩いていた。 授業はとうにひけている時間である。教師は驚いて席を立った。
「先生!さっきのことですけど、どう考えても納得出来なくて…」
「来客中です。静かにしなさい」
彼女は窓を開け、顔をしかめた。
「でも、シェールのこと、やっぱりおかしいと思います。それにオレ、思い出したんです」
「何がです」
「試験中、後ろの方から言い争う声が聞こえて、シェールが言ってたんです。ちょっとやめてって。それって、カンニングしたんじゃなくて、されたほうが言うことじゃないですか」
「それは、答案を盗み見るのを阻止されそうになって、そう言ったのかもしれないでしょう」
「そうかもしれないけれど、でもでも!!それだけじゃなくて、なあ」
少年は隣にいる少女を窺った。少女がコクンとうなずく。
「昨日、私、シェールくんに算数を教えてもらいました。これです」
少女は手にしていた教科書を繰ると、教師に見せた。
「この問題をどうやって解いたらいいかわからなくて困ってたら、シェールくんが一緒にやってくれたんです。こんな複雑な問題がわかるのに、何でカンニングなんてするんですか?おかしくないですか?」
「それはまあ、そうねぇ」
教師は教科書を覗き込み、首をひねった。
「でも、そうは言っても、本人が認めているのよ」
「先生は知らないかもしれないけど、シェールは困ってる人がいたらほっとけないんだ。だから」
「だから、シェールくんが嘘をついて、自分がやったと言っていると言うの?まさか」
「もし本当に試験が出来なかったとしても、シェールなら潔く悪い点とると思います」
「人のを見たりなんて絶対しません」
先程から彼らの言っていることは、親の自分から見ても筋が通っている。少なくとも教師の話よりはよほど共感できる。
「ねえ、おじさんもそう思うでしょ」
そんなことを思っていると、唐突に話を振られた。よくよく思い返すと知った顔である。窓越しに窮状を訴える子供にタリウスは苦笑した。
「息子がご迷惑をお掛けしました」
そう言って椅子から立ち上がると、子供たちが顔を見合わせた。
「お騒がせして大変申し訳ありませんが、何か行き違いがあるのかもしれません。今一度調べてはいただくわけにはいきませんか」
「そうですね。その必要がありそうです」
教師がいかにもきまりの悪そうな顔を見せたのとは対照的に、子供たちはほっとして胸を撫で下ろした。
人気のない教室の隅で、シェールは便箋とにらめっこをしていた。作文のお題は、ずばり反省文である。
頭を掻きむしりつつ、どうにかこうにか二三言葉を書き連ねたところで、ペンを握る手が止まる。それから、今書いたばかりの文字をぐしゃぐしゃに書き潰し、更には便箋ごと丸めて放った。
机の上には、同じような紙屑が既にいくつも放置されている。便箋は高級品だ。こんな使い方が許されるわけがない。ましてやこんなときだ。考えたら、ズキリと心臓が音を立てた。
シェールは深いため息を吐いた。
話は少し前まで遡る。
今日は算数の試験だった。以前は算数そのものを苦手にしていたシェールも、周囲の導きや本人の努力の介あって、少しずつ意識が変わり、最近では問題を解くことを面白いとすら思えるようになった。
それ故、試験が始まっても、彼は少しも苦痛を感じることなく、むしろスラスラと流れるように問題を解き進めた。
事件は試験中盤、ほんの少し意識が脇にずれたときに起きた。
何者かの視線を感じ、シェールが目を上げると、隣の席の友人が身を乗り出して答案を覗き込んでいた。シェールは驚いて、思わず声を上げそうになった。
「ちょっとだけ見せて」
「ダメだってば」
小声で制するも、隣人はなおも答案を盗み見ては、手元の答案に写し込んでいく。
「ちょっと!やめてってば」
「あと少し」
「は?ちょっと、もう…」
シェールが思わず腰を浮かせたところで、パッと答案が遠ざかった。
「え…?」
慌てて答案の行方を追うと、教師が怖い顔をしてこちらを見ていた。手には作成途中の答案がある。
「二人とも外に出なさい。早く」
教師は隣人の答案をも手に取り、二人に退出を迫る。シェールは呆然として答案のなくなった机を凝視した。
「頼む!シェールが見たことにして」
「は?」
「親にバレたら殺される」
「そんなのうちだって一緒だよ」
むしろ、こちらのほうが事態は深刻である。なんせ我が家には鬼が棲んでいるのだ。
「本当お願い。何でもするから」
あろうことか友人は泣いていた。
規則正しい靴音がこちらへと近付いてくる。途端に、意識が現実へと返った。こんな歩き方をする人間はここにはいない。だとすれば、答えはひとつだ。シェールの背中を冷たいものが伝った。
「とうさん」
無遠慮に扉が開かれ、反射的にシェールは立ち上がった。そして、父と目が合った瞬間、目の前を大きな手が掠めた。殴られる。シェールは咄嗟に身構えた。
「お父さん!!」
だが次の瞬間、教師が叫び、その手が止まった。
「手を、下ろしてください」
急激に心拍数が上がり、息苦しいくらいだった。
「もう連れて帰っても?」
「結構です」
呆然としてその場に立ち尽くすシェールに代わり、教師は机の上を手早く片付けた。そうしてまとめた荷物をこちらへ寄越した。
「先生」
教師に何か言わなければと思うも言葉が出てこない。それより何より父の視線が痛くて、これ以上はこの場にいられなかった。シェールは今にも張り裂けそうな心臓を抑え、物言わぬ父の背を追った。
部屋に帰り着くと、タリウスはすぐさまベッドに腰を下ろした。そして、言葉を発する代わりに、パシンとその膝を打った。シェールはピクッと身を縮めた。
「とっとと来い」
有無を言わさぬ雰囲気に、シェールはすぐさま父の膝に身体を預けた。そうしていつものようにお尻を剥かれながら、何かが心に引っ掛かった。だが、それも最初の一打を受けるまでの話だ。
「やっ!うわぁ!」
初めから手加減なしに、バチンバチンと重い平手が襲ってくる。全く心の準備が出来ていない。シェールは、開始早々音を上げそうになった。
「痛ったい!!」
その後も父の手は、間髪入れずにシェールを襲った。それは差し詰め壊れた機械のように、執拗に終わりなき打擲を続ける。
「ごめんなさい!」
シェールは堪え切れずに、謝罪の言葉を叫んだ。
「何のごめんなさいだ」
「へ?」
「やってもいないことをやったと言ったことか」
「えぇ?!し、知ってたの?」
シェールはうつ伏せのまま、ガバッと起き上がった。上体をひねって仰ぎ見た父は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「親を舐めるな」
「じゃあ、何でさっき学校で…」
あのとき、教師が止めに入らなければ、父に横っ面を張られていた。
「嘘をつくからだ」
「ああ、そっちか」
「だいたい、本当にカンニングなんぞしようものなら、こんなもので済まされるわけがないだろう」
「だよね、そうだと思った」
それが先程から感じている違和感の正体だろうか。シェールはふうと息を吐き、それから再びお仕置きを受ける体勢に戻った。
「いっ!」
「立ちなさい」
バチンと仕上げの一発をもらい、シェールは解放された。
「良いことをしたと思っているのか」
許可を得てお尻をしまっていると、唐突に訊かれた。シェールは答えない。
「正しいことをしたと胸を張って言えるのか」
「そんなこと言うつもりはない。言うつもりはないけど、でも困ってたから」
ほっとけなかったんだ、そう言うシェールはそれこそ困り果てていた。
「ただ、とうさんに嘘つきたくないとは思ってて、だからそれが解消されたんなら、もう良いかなって。間違ってるかな」
「間違っている」
「そりゃとうさんは、そんなことしないだろうけど。でも僕はそうしたかったんだ。だって、本当に困ってたから」
「話にならないな」
タリウスは吐き捨てるように言った。
「人にやさしくするのは良い。だが、そのやさしさは誰のためだ」
「誰って…」
「自分のためじゃないのか?」
「そんなことない!」
何が悲しくて、自分のために他人の罪を被ったりすると言うのだ。シェールは全力で否定した。
「本当にそう言い切れるのか。お前が庇ったことで、確かに一時的には相手は救われたように思ったかもしれない。だが、そのせいで後々どんなことが起きる。よく考えてみろ」
言うだけ言うと、タリウスは立ち上がり、戸口へ向かった。
「どこに行くの?」
「仕事に戻る」
父の言葉にシェールはハッとした。几帳面な父は、帰宅後真っ先に着替えるのが常だ。だが、今日の父は未だ軍装を解いていない。これこそが初めに感じた違和感の正体である。
「ごめんなさい、とうさん。忙しいのに、こんなことになって」
「お前のために費やす時間は惜しくない。だが、そうだな。どうせならもう少し建設的なことに使いたい」
こんなときでもやはりやさしい父の言葉に、チクリと胸が痛んだ。
「行ってくる。遅くなるかもしれないから、先に寝ていなさい」
「はい」
凛とした背中を見送りながら、心のなかがざわざわと騒がしくなるのを感じた。
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