続いて訪れた屋外演習場では、弓術訓練の真っ只中だった。予科生たちはいくつかの班に分かれ、的に向かい順番に矢を放っていた。

 弓術は士官候補生採用試験でも技量が試されるが、その専門性の高さから、入校の時点で弓の扱いに精通している者は殆どいない。実質的に、士官学校に入校し、初めて弓術のいろはを習うと言って良い。

「お前もここで弓を?」

「はい。鍛練いたしました」

 そんな予科生たちの合間を縫うようにして、彼らは歩みを進めた。周囲を独特の緊張感が包んだ。

「おい、ひよっこ。勝負しろ」

「お断りいたします」

「何だと?」

 まさかこうも易々と断られるとは思っていなかったのだろう。レグラスはさも不愉快そうにこちらを見やった。

「ですから、お断りしますと申し上げました。どうせわたくしが勝つに決まっています」

 かつて、ミゼットは長いこと弓兵部隊に身を置いていた。それ故、弓術の腕前には自信がある。かたや、彼女はレグラスが剣以外の武器を手にしたところを見たことがない。

「ふん、言ったな。ひよっこ、この中から一人選べ」

「はい?」

「誰がお前と直接やると言った。勝負は人を見る目だ。俺とお前で一人ずつ士官候補生を選ぶ。どちらが選んだ奴が勝つか、勝負だ」

「そんな、勝手に…」

「教官殿、よろしいか」

 言うが早いレグラスは老教官に向かって手を上げた。

「こいつらを二人ばかり借りたい」

「は!」

「ちょっと!ダメですって」

「何取って喰いはしない。技量のある者を近くで見たいだけだ」

「それでしたら…」

「いや、こちらで適当に見繕う。俺とこいつと、ひとりずつな」

 何故よりによって、老教官のほうに声を掛けたのか。ミゼットはかつての師に向かって恨みがましい視線を送った。

「案ずるな、モリスン。統括からはお客人を最大限もてなすよう言われておる」

「ですが…」

「それにこいつらにとっても、またとない機会だ。何故反対する?」

「何故って、負けた者が責任を感じます。不適切です」

「相変わらずお嬢はあまっちょろいことをぬかす。こいつらが二年後、どこで何をしていると思う。フォード卿、申し訳ない。どうもこの娘は昔からやさしすぎるきらいがありましてな」

「そのやさしさとやらで不戦敗か」

「ち…!ああもう、わかりました」

 この勢いで昔話でもされた日には目も当てられない。こうなれば自棄(やけ)である。ミゼットは、少年たちに向けて値踏みするような視線を送った。

 入校して半年、未だどんぐりの背比べかと思いきや、早くも力の差は歴然と出始めている。出来れば他を寄せ付けないほど、際立った才をもつ者が良い。

 少年たちの中には、そこそこ弓の扱いに長けている者はいるものの、そう言った意味ではどの子も決め手に欠ける。そんなことを考えていると、背後から小気味の良い音が聞こえた。

 振り返ると、的の中心部を一本の矢が狂いなく射貫いていた。そこから一直線に軌道を辿ると、少年が弓を引き終え、たった今自らが撃ち抜いた的を見据えていた。

 この子だ。ミゼットは直感的にそう思った。

「ねえ…」

「そこのお前!一緒に来い」

 だが、一歩遅かった。いや、正確には自分のほうが早かったように思うが、ともかく先を越された。ミゼットは唇を噛んだ。

「おい、早くお前も選べ」

 そんな彼女をレグラスは嘲笑った。逃した魚は大きいが、こうなった以上は諦めざるを得ない。ミゼットは気を取り直して、改めて周囲を見回した。

 少年たちの多くが、次第に状況を理解し始めたのだろう。彼らは見られていることを意識し、なかなか矢をつがえようとしない。教官にせっつかれ、おっかなびっくり弓を引いたところで、的には遠く及ばない。瞬く間に士気が下がった。

「どいつもこいつも何なのよ、もう」

「申し訳ありません」

 腹の中で毒づいたつもりがうっかり声に出ていたようである。すれ違いざま、若き教官が口の中で呟いた。

「見てたんなら止めてよ」

「自分には不可能です」

 もはやただの八つ当たりである。

「おい、そこ!インチキするんじゃない」

「してません!!」

 狂戦士に吠えられ、ミゼットは反射的に言い返した。何事かと少年たちの動きが止まる。だが次の瞬間、勢い良く的を射る音にミゼットははっとした。

 矢は的に命中しているものの、中心部からはやや外れていた。そして、間を置かずにもう一投、矢が放たれた。今度はほぼ真ん中を射貫いていた。

「ねえ」

 その少年は周囲の状況などまるでお構いなしに、黙々と矢をつがえた。

「ねえ、聞いて」

「自分…ですか?」

 肩を叩かれて初めて、少年は自分を呼ぶ存在に気付いたようである。

「そう。あなたよ」

 彼は正体不明の女性士官に返事を返しつつ、きょろきょろと周囲を伺った。自分が耳目を集めていることを今更ながら自覚したのだろう。

「私と一緒に来て。えーと、名前は?」

「バーディです」

「そう。悪いけど、バーディ。ちょっと身体を貸して頂戴」

 少年の瞳はミゼットを通り越し、不安げに背後の教官を見た。

「言われたとおりにしろ」

「わかりました!それであの、すいません。自分は何をすれば…」

「今と同じよ。一本でも多く的に当てて。簡単なことでしょう」

 いかにもやさしげな声音とは裏腹に、その瞳は鋭く標的を見据えていた。


「持ち矢十本のうち、より多く的に当てた者を勝ちとする。なお、同数の場合は、より中心部に近いほうを勝ちとする」

 教官が淡々とルールを説明するのを、少年二人が緊張した面持ちで聞いていた。特にミゼットの隣からは、そわそわと落ち着かない様子が伝わってくる。

「どうしたの?」

「勝負だなんて、自分聞いてなくて。あいつのうちは代々軍人だし、弓術だって昔から習ってるはずです。自分なんか到底…」

「余計なことは考えないで。あなたはただひたすら、目の前の的を射抜けば良い」


 教官の号令で、二人は同時に矢を放った。矢は二本とも的を捉えた。精度の差こそあれど。

 その後も二投、三投と続いて矢が放たれるが、今のところどちらも的を失することはない。だが、回を追うごとに両者の力量の差が顕著になっていく。

「すいません」

 ミゼットのすぐ横から発射された矢は、本来の軌道を外れ、的の縁すれすれに刺さった。

 疲労から姿勢が崩れてきている。ミゼットは思わず口を開きそうになるが、寸でのところで飲み下した。ここで何らかの助言を与えれば、相手は反則と捉えるだろう。苦し紛れに、目線を上げるよう顎をしゃくるのが精々だ。

 そして迎えた最後の一投は、ここへ来て初めてど真ん中に命中した。その直後、辺りにどよめきが起こる。

「十対九で、勝者、バーディ」

 教官が無機質に勝負の終わりを告げた。

「嘘だろ…」

 ヘクター=バーディは、その段になって初めて隣の的に目を向けた。的の中心部には九本の矢が突き刺さり、そして地面には一本矢が落ちていた。

「ご苦労様。練習の邪魔して悪かったわね」

「いえ、それで、あのう…」

「ああ、私はミルズ。上官とちょっとしたゲームをしていただけよ」

「はあ、そうですか………って、え?」

「先生には後で報告しておくわ」

「あ、ありがとうございます!」

 ヘクターは一礼して、元の位置へ下がった。


「フォード卿にお見せできるようなものでは、とてもございませんでしたな」

「いや、なかなか良いものを見せてもらったぞ」

 レグラスが教官と談笑していると、背後から視線を感じだ。

「も、申し訳ありません」

 敗者である。まさかの展開に弓を握る手が震えている。

「謝ることはない。大した腕前だ。俺の見込んだとおりな」

「でも…」

「明日、同じことをすれば必ずお前が勝つだろう。惜しむべきは、ここだ」

 レグラスは動揺する少年の胸に自身の手を押し当てた。

「知ってるか。お前は常に相手の的を意識していたが、相手は自分の的しか見ていなかった」

 少年の顔が悔しそうに歪む。

「何、時間はまだある。ここにいるうちに山ほど失敗しろ。挫折を知らない者ほど使えない奴はいない」

 少年ははっとして視線を上げた。先程までは恐ろしくて直視出来なかった瞳が、にやりと笑った。

「あの女が良い例だ。さっきそこで聞いたんだが、昔あいつは万年どべだったらしい。それが今じゃ城の内側にいる。全く笑い話にもなりゃしない」

 狂戦士が豪快に笑うのを横目に、ミゼットは大きな溜め息を吐いた。

「お前も精々精進することだ」

 去り際に少年の肩をバシバシとはたき、レグラスが戻って来る。

「相変わらず悪運が強いな。まさか本当にお前の言ったとおりになるとは」

「運の良さと気概だけでここまで参りました」

 レグラスはふんと鼻で笑い、それからミゼットの顔を間近に覗き込んだ。

「お前は戦場にいるほうが似合っている。戻ってこい、モリスン。お前のその目が必要だ」

 レグラスのいつになく真剣な目付きに、心臓が激しく脈打った。

「ご命令とあらばいつでも」

「黙れ」

 あくまで平生を装ったつもりだった。だが、それでも一瞬生まれた心の隙まで隠しきることは出来ない。

「期待しないで待つということが俺には出来ん。何故他人のものになった」

 周囲の視線が痛い。しかし、そんなものは目の前の男が放つ圧に比べれば、ないも同じだ。

「結婚したいと思ったからです。他に何か必要でしょうか」

「さあな」

「レグラス様…」

「俺には一生わからない質問だ。軍学の宿題以上にな」

 レグラスは言うだけ言うと、すぐさまこちらに背を向け、一歩を歩み出した。かつて、どれだけ欲しても手に入らなかったもの、この男の賞賛が、目の前を通過していく。このまま行かせるのはあまりに口惜しい。

「二年、お待ちいただけますか」

 唐突に発した台詞に、ぴたりと歩みが止まった。

「その二年で何が変わる」

「部下を育てております。年若いですが、私より従順で御しやすい筈です。何より私が選びました」

「そんなに待てるか。一年で寄越せ」

「それでは、かつてのわたくしのようにご面倒をお掛けすることに。それでも」

「一年半だ。それ以上は待てん」

 再びレグラスの背が遠ざかる。

「御意」

 遠ざかる背中に向け、ミゼットは最敬礼した。


 2021.5.16「先見之明」 了
 2021.8.19 加筆訂正