「レグラス=フォードという男を知っているか」

 ある夜のこと、ミゼットが夕食の片付けをしていると、唐突に背後から問われた。夫の言葉に彼女は大いに動揺し、思わず手にしていたコップを床に落とした。

「大丈夫かい?」

「ええ。ちょっとびっくりしただけ」

「相変わらずおっちょこちょいだね」

 夫は呆れながらも、すぐさま屈んで割れた破片を拾い集めた。ミゼットはと言えば、依然として立ち尽くしたままだ。

「ああ、ごめんなさい」

「いや。それより先程の質問だが」

「北の狂戦士(バーサーカー)、通称化け物。ついでに無類の女好き。向こうじゃ知らない人なんていやしないわ」

 ミゼットはさもゲンナリした顔を見せた。

「それで、レグラスさ…フォード卿がどうかした?」

「近々陛下に拝謁されるそうだ」

「何でまた」

「ここ最近、北方の諍いもようやく落ち着きを見せただろう。それもあって、長年の功績を労われるらしい。で、ついでと言ってはなんだが、あちこち視察をされるそうだ」

「まさか」

「そのまさかだ。どういうわけかうちにも来たいと言っているらしい。彼はいわゆる叩き上げだろう。士官学校出の将校をあまり良くは思っていない筈だ」

「ええ、そうよ。戦術も戦法も椅子に座って学ぶものじゃない。国境も見たことがないくせに、ひよっこが思い上がるな。そう言ってよく怒られた」

「君はフォード卿の部下だったのか」

「今のダルトンくらいのときに、何の因果か目に止まって、しばらくお仕えすることに」

 出来ることなら、この話はしたくなかった。それでなくとも、北で経験したことはこれまであまり人に話したことがない。北での思い出は、中央への配置替えと共に彼の地に置いてきたのだ。

「ねえ、ゼイン。私、物凄く嫌な予感がする。断れないの?」

「私かて断れるものなら断りたいが、流石にそういうわけにもいかないだろう。だからこそ、君に相談しているんだ」

「相談って言ったって」

「訪問の目的は定かではないが、少なくとも楽しく兵舎を見学して、去り際に訓練生へ、激励の言葉を賜ったりしないことだけは確かだ。ともかく穏便にお帰りいただくよう、何らかの策を講じる必要がある」

「あなたはともかく、他の教官の手に負えるようなたまじゃない」

 ミゼットは空(くう)を見つめ、唇を噛んだ。そして、大きなため息を吐いた。

「わかった。物凄く気が進まないけど、協力する。その代わり、もし何かあっても…」

「無論、すべての責任は私がもつ。ついでに、君のおねだりもまとめて聞くとしよう」

「本当?それって先払い?」

 ミゼットがいたずらっぽく目線を上げると、ゼインがふっと息を漏らした。

「ああ、よかろう」

 途端に緊張が解けた。