様々な思いを胸に、初めての家族旅行から帰宅した彼らを慌ただしい日常が待っていた。

かつてなく仕事から離れたタリウスは勿論のこと、シェールもまた休んだ分の勉強を取り戻すことに忙しく、ユリアに至っては職探しとつなぎの仕事で昼も夜も手一杯だった。

そういうわけで、彼らが名実ともに家族になるまでには、もうしばらく時間を要しそうである。

事件はそんな最中に起きた。

「とうさん、ナイフが一本見当たらないんだけど、知らない…よね?」

「何?」

息子の問い掛けにタリウスは眉をひそめた。

「だから、ナイフが一本足らなくて」

「お前にはそれがどういうことか、わからないのか?いつからないんだ」

東方からの帰り道、シェールは亡き母の形見である投げナイフを欲しがった。ナイフは凶器であり、子供の玩具ではない。そう言って当然の如く却下したが、息子は引かなかった。

よくよく話を聞いてみると、息子は以前からミルズ夫妻の下で、ナイフ投げの練習に勤しんでいたらしく、今後は母のナイフを使いたいと、そういうことだった。

手放しで賛成は出来ないが、そうかと言って、蠍の一件では息子のナイフの腕に救われたこともまた事実である。結局、厳重に管理することを条件に、タリウスは息子がナイフを所有することを許した。それがこのありさまである。

「はっきり覚えてなくて…」

「ふざけるな!!どこまで無責任なんだ!」

タリウスが雷を落とし、シェールが固まった。

「言った筈だ。ナイフは凶器だ。人を傷つけることもあれば、命をも奪う。悪意のある人間がナイフを拾ったとしたらどうなる?お前のナイフで誰かが傷付けられたら、どう責任をとるんだ!」

シェールははっとして両目を見開いた。そして、顔面蒼白になる。

「とにかく探しなさい。話はそれからだ」


シェールは取るものも取らず、部屋から飛び出した。既に自室の中は何度も捜した。唯一手を付けていないのは父のベッドまわりだが、勝手に触るわけにはいかない。そう思って、恐る恐る父に尋ねた結果、今に至る。

階段を下りて、一直線に食堂へ向かった。ナイフの手入れをするのは決まってここだ。しかし、そこには必ず父が同席している。そんな状況で失くすとは思えないが、とにかく手当たり次第に捜した。

「どうしたの?」

シェールが机の下に潜り込んで右往左往していると、頭上から穏やかな声がした。

「おねえちゃん!!ママのナイフを知らない?一本足らないんだ」

「あら、それは大変。最後に見たのはいつ?闇雲に捜しても見付かるとは思えないわ」

「わかんないんだ。ちゃんと数えなかったから。どこかで落としたかも。どうしたら…」

「落ち着いて、シェールくん。失くなったものじゃなくても、最後にナイフ自体を使ったときのことを覚えている?」

「この前のお休みのとき、ミルズ先生のところで」

父からは、信頼出来る大人がいるとき以外、ナイフを使うことはもちろん、触れることも禁じられている。シェールが家族以外で信頼を寄せているのが、母の親友と父の上官である。

「あの時、慌てて帰ってきたから置いてきたかも!ミルズ先生のところに行ってくる!」

シェールは今にも飛び出しそうな心臓を押さえ、宿から駆け出した。


「ねえ、ゼイン。投げナイフの手入れをしていたら、エレインのが一本混じっていたんだけど…」

「エレインのと言うより、もうシェールのだろう。君のと取り違えたのか?」

「そうじゃないのよ。私のは全部ある」

「忘れていったのか。ジョージアに知れたら、事だ」

「そうよね。こっそり返しに行ったほうが良いかしら」

「いや、その必要はなさそうだよ」

「え?」

夫の指差す方を見ると、月明かりの中、少年がひとり全速力で駆けてくるのが窓越しに見えた。

「一足遅かったようだ」

「お気の毒さま」

二人はため息を吐いた。それから数秒後、勢いよく扉が開かれた。

「ミゼット!聞きたいことが、あるんだ」

シェールは荒い息を整えようともせず、玄関先で喚いた。

「探し物はこれ?」

「うわぁっ!!」

シェールのすぐ横をナイフが一直線に通過していく。咄嗟に目で追うと、玄関の扉に細身のナイフが一本突き刺さった。

「あった!!」

シェールはナイフを抜き取ると、その場にしゃがみこんだ。ほっとしたのか既に半泣きである。

「父上に叱られたかい?」

「ちょっとだけ。多分家に帰ったらもっと…」

「助けてやりたいけど、今回はちょっと無理かも」

ミゼットが屈んで、シェールの頭にぽんと手を置いた。

「そのナイフが君のものである以上、君が責任をもつのが筋だ」

ゼインもまた、今にも泣きそうな少年に視線を合わせた。

「ごめんなさい」

「責めているわけではないよ。父上が心配しているだろうから、早いところ帰りたまえ。送っていこうか」

シェールはほんの少し迷った後で、首を横に振った。

「これに懲りずにまたあそびにおいで」

ゼインは微笑し、シェールが立ち上がるのに手を貸した。



「ただいま、とうさん。ミルズ先生のところにあった」

息子の報告を聞き、タリウスはひとまず自分の読み通りであったことに、心密かに安堵した。

「あって良かったとは言わない。そういう問題ではないことくらい、お前にもわかるだろう」

「はい」

「お前にナイフを渡したときのことを覚えているか。あの時、お前は何と言った」

「大切にするって」

「今のお前はどうだ。大切に出来ているか?適切に管理していると言えるのか」

「言えない」

「どうしてそう思う?」

「毎回数を、全部あるか確認してなかった」

確かに息子の言うとおりではあるが、それだけでは答えとして不充分だ。

「それから?」

「それから…」

シェールは必死に考えを巡らせる。

「ナイフが危ないものだって、わかってるつもりだった。けど、ちゃんとわかってなかった。ごめんなさい」

言葉の最後で息子は目を上げた。その目からは早くも涙がこぼれ落ちそうだった。本気で悔いているのだ。

「事が事だ。ごめんなさいで許すつもりはない」

「わかってるけど、でも!」

シェールは未だ自分から視線を外さない。

「でも?」

「でも、ごめんなさぃ」

謝罪の言葉は途中でかすれ、同時に息子は目を伏せた。

「お前が反省しているのはわかった。だが、今後同じことを繰り返さないためにも、けじめは必要だ」

その言葉の意図するところがわかったのだろう。瞬時に息子は身体を強ばらせた。

「シェール、お仕置きだ。パドルを持って来なさい」

息子は小さく返事を返し、自分の棚へ向かった。啜り泣いているのが、背中からでもわかった。

息子のこんな姿を見るのは久しぶりだ。幼い頃の彼は、お仕置きの宣告をしただけで、それこそほんの少し声音を変えただけで、恐怖から泣きべそをかいたものだ。

それが成長と共に徐々に堪え性が付き、最近ではちょっとやそっと叩かれたくらいでは涙を見せることはなくなっていた。

いずれにせよ、始まる前からこれでは、最後までもつかどうか知れたものではない。

「いくぞ」

利き手でパドルを握り、空いている方の手を背中に添えた。その手から息子が身体を震わせているのが伝わってきた。

「今日は数えろ」

息子の声にならない声を聞き届け、タリウスは思い切りパドルを振り上げた。

バチンという打撃音に続いて、ひゅっと息を飲む音が聞こえた。両の手はシーツを掴み、足はつま先立ちになる。

「数えろ」

「い、いち…」

いくらも間を置かず、今度は先程と同じ強さで反対側の尻を打った。

「あぁあ………にぃっ!」

耐え難い痛みに息子は肩で息をしていた。だが、お仕置きの本番はここからである。前の痛みが引かないうちに、更なる痛みが加算される恐怖は、想像を絶する。

それがわかるだけに、続く一打はいくらか手心を加えた。しかし、無論息子はそんなことを知る由もない。爪が食い込むほどにシーツを掴み、ひたすら痛みをやり過ごすことに徹していた。

「わああぁあん!!」

だが、それも理性があるうちだけだ。今や息子はひとつ打たれる度に盛大に泣き叫び、地団駄を踏んだ。

「数えろ」

「きゅうぅぅう」

数を数える声も殆ど金切り声である。

「じゅうぅぅう…」

そして、その言葉を最後にシェールは床へうずくまった。それでも一応はきちんとしなくてはならないと思っているようで、手だけは未だベッドの端に置かれている。

「誰が終わりだと言った」

シェールは俯いたまま動かない。

「立ちなさい」

もぞもぞと身体を動かしはするが、立ち上がるところまではいかない。言うまでもなく、限界間近なのだろう。

「もう一度だけ言う。シェール、立て」

息子はよろよろと起き上がり、利き手の甲で涙をぬぐう。そして、一旦天井を仰ぎ見た後で、再び罰を受ける姿勢になった。もう充分である。

「よし、終わりだ」

タリウスは息子の目の前にパドルを放り投げた。それから、息子が起き上がるよう手を貸した。

「よく我慢した」

「とうさん、ごめんなさい!」

怒りの解けた父親を見るなり、シェールは声を上げて泣いた。そんな息子に求められるまま、背中に手をまわし強く抱いた。

「オシオキ、めちゃくちゃ痛かったし、辛かったけど、でも。それよりもナイフを捜してるときのほうが、ずっと苦しかった。もし見付からなかったらどうしようって、思って…」

「見付かって良かったな」

息子は自分のしでかしたことの恐ろしさを身をもって知ったようだった。早いうちにこういった経験が出来たことをむしろ好機だと捉えるべきなのかもしれない。

「これに懲りたら、今度こそ大事にしなさい」

「まだ僕が持ってていいの?」

てっきり取り上げられると思っていたのだろう。涙の残った顔が輝いた。

「あれはお前のだろう。要らないのなら…」

「要る!」

「但し、次に似たようなことをしでかしたら、そのときはこんなものでは済まさない。良いな」

「はい」

シェールは神妙に返事を返し、それから何とも情けない顔でそっとお尻をさすった。


 了 2021.1.1 「失せ物の対価」

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