翌日は、ユリアの提案で朝から旅人向けの案内所へ向かった。案内所では、ガイドと共に馬やラクダが借り受けられる仕組みになっているようだが、行き先は主要都市や代表的な観光地に限られているように見受けられた。

「この地図のこのあたりへ行きたいのですが、連れて行っていただけませんか?ええ、勿論そちらも素敵な場所でしょうけれど、でも私はここに行きたいんです」

 ユリアが異国語を交えながら根気よく説明するが、カウンターの向こう側にいる男は渋い表情のままだ。何を言っているかまではわからないが、とにかく難色を示していることだけは、タリウスにもわかった。

「だめですね。そこは何もないから行くべきではないと言っています」

 ユリアはすぐ後ろに控えていたタリウスに小声で伝えた。

「どうしますか?直接ここに行くのは諦めて、近くまで案内してもらいますか」

「そうですね…」

 確かにこのままここで粘っても事態が好転するとも思えない。徒に時間が過ぎていくだけだ。タリウスは考えを巡らせながら、ふと表で待たせていた息子に目をやった。

 息子は、案内所の前で束の間の自由時間を満喫している。常にこちらの視界に入る位置にいるよう言い付けてあるが、ともすれば見失いかねない。

 すると、息子が突然二歩三歩と後ずさった。何事かと出入口に注視すると、身の丈の大きな男が大股で案内所に入ってきた。見たこともないような大男に驚いて道を開けたのだろう。

 男は案内所に入り、カウンターに向かって某かを言った。

「タリウス」

 そのとき、ふいに後ろから肩を叩かれた。

「あの男性の首に、刺青があるのがわかりますか」

 振り返ると、耳元でユリアが囁いた。言われて、タリウスはそれとわからぬよう男に視線を向けた。確かに男の首筋には三日月状の刺青がある。

「だが、あの模様は…」

「シェールくんのお母さんのものと同じではありませんが、時代的には確か一緒だった筈です。同じ地域かあるいは近い地域かもしれません」

 言うが早い、ユリアは男に向かって話し掛けた。男は怪訝そうにこちらを見やり、言った。

「何だ」

 久方ぶりに聞く母国語に彼らは顔を見合わせた。

「翼の文様をもつ部族を探しています」

「ツバサ?」

「鳥の羽根のような…これです。ご存知ありませんか」

 ユリアは鞄から小さな紙を取り出し、男に見せた。いつぞやタリウスが石の入った袋から書き写したものだ。

「探してどうする」

「お会いしたいと思います。もし、場所をご存知でしたら、ガイドをお願い出来ませんか」

「知らないな」

 男は食い気味に答えた。明らかに不自然だが、ユリアはそれには気を止めず更に続けた。

「そうですか。それでしたら、他の部族のところでも構いません。例えば、月の文様の部族とか」

「つ…!!」

 刹那、男の瞳孔が開く。

「お前ら何者だ?!本当の狙いは何だ!!」

 男は激昂した。

「ただの旅行者です。他意はありません」

「旅行者が何で刺青のことを知っているんだ!」

「それは文献で…」

「ユリア、これ以上はよそう」

 ユリアはなおも応酬しようとするが、タリウスが止めに入る。

 あくまで冷静な彼女とは対照的に、男のほうは目が血走り、今にも暴れ出しそうだった。このままでは確実に厄介なことになる。実際、カウンターの男はおろおろと狼狽え始め、離れたところにいる息子もまたこちらの異変に気付いた。

「でも」

「不躾なことを聞いて申し訳なかった。もう失礼しよう」

 ユリアは未だ諦めきれない様子だったが、強引に腕を取ると、男に向かって黙礼した。

「とうさん!おねえちゃん?大丈夫?」

「ええ、何でもないわ」

「大丈夫だ。それより待たせたな。ひとまずお前の好きなところに行こう」

 万にひとつも男が追いかけてきたらどうしようかと思ったが、幸いその心配はなさそうだった。


 慣れない暑さの中、連日歩き通しである。この日は日暮れを待たずして宿へ引き上げた。

 シェールは昼寝、ユリアは書物に目を落とし、タリウスは何をするでもなく窓から入る風に吹かれていた。

 結局、あの後は近隣を歩き回ることに終始した。これといった収穫はなかったが、それでもシェールが目一杯楽しんでいたことを考えれば、これはこれで正解なのだろう。

「シェールくん!!」

 そこへ突如上がった鋭い声に、タリウスは現実へと返される。見れば、ベッドに投げ出された息子の足の上を虫のようなものが這い、それをユリアが今まさにつまみ上げるところだった。

「サソリ?!」

「痛っ!」

 シェールが飛び起き、続いてユリアが悲鳴を上げた。

 タリウスは慌てて二人に駆け寄ると、すぐさまユリアの腕を掴んだ。蠍はポトリと下に落ち、彼女のほっそりとした指先からは真っ赤な血が滲み出した。一気に心拍数が上がった。

「見せてください」

 そうは言ったものの、自分が見てどうにかなるものでもない。そもそも蠍について漠然とした知識しか持ち合わせていないのだ。知っていることと言えば、蠍が毒をもち、それは時として人の命を奪うということくらいである。

タリウスはほんの一瞬躊躇した後、傷口を口に含もうとした。だが、ユリアはそれを拒み、反対の手で負傷した指を強く押さえた。

「何を?!」

「それは、こちらのセリフだわ」

 驚くタリウスをユリアが見据えた。彼女は肩で息をしていた。

「タリウス、あなたに何かあったら、シェールくんをどうするおつもりですか」

「だが…」

 確かにこの方法は自らも危険が伴う。しかし、他に方法がない、そう言おうとしたときだ。

「シェール!!」

 あろうことか、シェールが蠍に手を伸ばしていた。

「触るな!!」

「でも、とうさん。逃げちゃう」

「放っておけ」

「でも」

「今はそんなことを言っている場合か!!」

 なおも食い下がる息子にタリウスは声を荒げた。

「でも!サソリはいっぱい種類があるから、何に刺されたかわかんないと助けられないってママが…」

 思ってもない台詞に、タリウスはハッとしてユリアと顔を見合わせた。ユリアが無言で頷く。

 蠍に目を向けると、息子の言うとおり、壁を伝い窓の隙間目掛けて移動している。タリウスは腰に手を掛け、護身用のナイフを抜いた。だが、焦っているせいでナイフは蠍を掠め、下に落ちた。

「おねえちゃん!!」

そのとき、ユリアが膝から崩れ落ちた。

「シェール、手伝え。鞄の中に投げナイフがある」

「わかった!」

 シェールは言われたとおり鞄に駆け寄り、逆さにして豪快に振った。

「どれ?!」

「革の包みだ。お前も見たことがあるだろう、エレインのだ」

 その間、タリウスは力を失くしたユリアを抱き上げ、ベッドへ寝かせた。

「あった!」

「よく狙え。お前なら当たる」

 それから少し考えた後で、水筒の水でユリアの傷口を洗った。

「当たった!」

 どうやら一投目のナイフで息子は無事蠍を仕留めたようだ。

「よくやった。シェール、おねえちゃんの傍に」

「とうさんは?」

「医者を呼んでくる」

 言いながら戸口に向かおうとするのを何者かが阻む。タリウスが振り返ると、ユリアの手が袖口を掴んでいた。

「タリウス」

「痛みますか」

 不安げに自分を見上げるユリアの髪をタリウスはそっと撫でた。

「麻痺しているみたいで、むしろ何も感じません」

「少しの間だけ辛抱して欲しい。すぐに戻る」

 そして、大丈夫だと笑い掛けた。


「シェールくんはお母さんの言ったことをちゃんと覚えていて偉いわ」

 言って、ユリアは小さく笑った。本当は話すのも辛いだろうに、一体何故そんなことが出来るのだろう。見ているだけの自分ですら、こんなにも苦しいというのに。

 シェールは泣きたくなるのを懸命に堪えて、ユリアの傍に寄った。

「ついさっきまで全然覚えてなかったんだけど、サソリを見た途端、急に思い出して。もしかしたら、ママが助けてくれようとしたのかも」

「私のことを?」

「だって、初めにおねえちゃんが僕のことを助けてくれたから」

 一歩間違えば、自分がこうなっていたのだ。そうだとすれば、ユリアの苦しみは本来自分のものだ。

 シェールは心の中で、ユリアを救ってくれるよう母に懇願した。他でもない自分の頼みである。母なら聞き届けてくれるかもしれないと思った。

 それからもうひとり、いつだって自分の願いを叶えてくれる人がいる。

「おねえちゃん、とうさんに任せておけば、必ずなんとかしてくれるから。だから大丈夫だよ」

「ええ、そうね。私もそう思うわ」

 言い終わるや否や、ユリアは目を閉じた。


 勢いよく宿を出たものの、タリウスには自分がどこへ向かうべきなのか、直ちに判断がつかなかった。だが、ともかく行動しなければ何も始まらない。

 通りに出て方々を見回すうちに、旅行者向けの店の看板には、こちらの言葉と共に母国語が表記されていることに気付いた。それならば、医者か薬屋の看板を探せば良いと思ったが、これがなかなか見付からない。

 辛うじて、薬を扱っているとおぼしき店はあったが、品物を見ただけでは何が何だかわからない。試しに店主に話し掛けてみるも、想像した通り、まるで言葉が通じない。こんなことなら、異国語のひとつも覚えてくるべきだった、などと今更言っても始まらない。

 タリウスは身振り手振りを交え、どうにか伝えようとするが、店主は首を傾げるばかりである。しかし、ここで諦めたらまた振り出しである。

 一瞬、どうせ振り出しに戻るなら、一旦宿へ戻り必要な単語を教わってこようかとも考えたが、事態は急を要するに上に、今もユリアに明確な意識があるとは限らない。

 だいたいそのユリアですら、現地の言葉は半分も理解出来ないと昨日聞いたばかりである。だが、彼女はこうも言っていた。あちらは売りたいし、こちらは買いたい。それ故、どうにかして伝えようとするし、わかろうとする。

「蠍に刺された。医者か薬師を呼んで欲しい。蠍、これだ」

 そのとき、店先に並んだ生薬の中に、偶然蠍の干したものを見付けた。タリウスは蠍の干物を指差し、自分の腕を刺す真似をした。

 途端に、店主の顔色が変わった。店主は、先程までとはうって変わって、早口で何事かを喚き立てる。察するにこちらの言いたいことは通じたようだが、今度はあちらの言っていることがわからない。

 困り果てていると、突然店主が背中を押してきた。タリウスは驚いて振り返った。そして、直感的に思った。ついて来いと言っているのだと。

 店主は隣の店に向かって何かを叫び、それから小走りで店を出た。タリウスも後を追った。

 ところが、日没を前にして俄に客足が増えたのか、人混みにまみれて身動きが取れなくなった。その間に、薬屋の店主を見失った。必死に目を凝らすが、一向に見付からない。

 心の中を不安と焦りが侵食してくる。そもそも男は付いて来いなどとは言っていなかったのかもしれない。厄介事は御免だとばかり、体よく撒かれたのだとしたら。雑踏の中、タリウスはひとり絶望的な気持ちになった。

 そのとき、視線の先に見知った顔を見付けた。周囲から頭ひとつ分抜きん出ているその男は、遠目からでもわかる。三日月の刺青がある男である。

 タリウスは無我夢中で男を追い掛け、正面に回った。

「お前は…!」

 刺青の男は一瞬面食らった。

「つけていたのか?一体何のつもりだ?!答えようによっては斬り殺す」

 だが、タリウスを認識するなり、男は興奮して腰の剣を抜いた。とても話が出来る状況ではないが、こちらも後には引けない。

「昼間の無礼は謝る。事情をよく知りもしないのに、突然不躾なことを聞いたりして申し訳なかった」

「お前たちは何者だ。何のためにここに来た」

「細かい事情を話している暇はない。ただ、息子の母親が、翼の刺青をもつ部族の出だと知って、息子に一目故郷を見せてやりたいと思った。それだけだ」

 道行く人が好奇の目向ける。町中で剣を抜く大男に、異国語を話す旅人だ。無理もない。

「母親?あの女か」

「違う。彼女は今、蠍に刺され意識が朦朧としている。こんなことを頼めた義理ではないとわかっているが、他に頼れるあてがいない。どうか助けて欲しい。後生だ」

「無理だ」

 男はにべもなく言い捨てた。予想はしていたものの、タリウスは頭を殴られたような衝撃を感じた。

「蠍と一口で言っても種類はごまんといる。何に刺されたかわからなければ手の施しようがない」

「それならば問題ない。実物を取ってある」

 刺青の男は無言で腰の物を収めた。

「ガイドを引き受けてやっても良いが、報酬ははずんでもらう」

「ガイド?」

 そこでタリウスは、刺青の男の目線が自分を通り越して後ろに注がれていることに気付いた。

「薬屋の…」

 振り返った彼が見たのは、先程の薬屋の店主ともうひとり。年老いた男だった。

「治療は医者の仕事だ」