翌朝はからっとした良い天気だった。そのせいか、タリウスの気分も昨日よりか幾分晴れていた。

「おはようございます」

 出立の準備を整え、玄関ホールに立ったところで我が耳と目を疑った。

「おねえちゃん!?」

そして、次の瞬間、隣で上がった奇声に、これは現実なのだとぼんやり理解した。

「急用があったんじゃなかったの?」

「ええ。でももう済んだわ」

「本当に?」

「一緒に行くって約束したもの」

息子はユリアと一日振りの再会を喜び、それから彼女と手をつないでこちらへやってきた。

「お邪魔でしたか」

「いいえ」

 我ながらもう少し気の利いたことが言えないものかと思ったが、いかんせん言葉が出てこない。それ故そう答えるのが精々だった。


 一体いつの間に彼女はこんなところまでやってきたのだろう。そもそもあれほどまでに怒っていたというのに、突然心変わりしたのは何故だろう。

 頭の中は数々の疑問で埋め尽くされているが、余計な詮索はしないに越したことはない。そう思い、タリウスはあえて何事もなかったかのように振る舞った。


「今晩泊まれる部屋があるか、聞いてきますね」

 予想したとおり、東へ進めば進むほど、雑踏の中には耳馴染みのない言葉が増えていった。

 日が傾きかけた頃には、母国語を話すのは彼らと同じ旅行者だけで、商売人は片言のセールストークを口にする以外、こちらにとって全く意味の解さない言語を話すようになった。

「すごいね、おねえちゃん。よくわかるね」

「全然。半分もわからなかったわ」

「うっそ!」

 シェールが驚くのも無理はない。日用品の買い出しから乗り合い馬車の値段まで、すべてユリアが単身交渉に当たっていた。

「私は買いたいし、あちらは売りたい。お互い利害が一致しているから、なんとかして伝えたい、どうにか理解したい、そう思った結果よ」

「けど」

「それに、安心して交渉に当たれる環境というのも大切よ。いくら底値まで値切ったとしても、その間にお財布をすられたら意味がないもの」

 ユリアは微笑んだ。


 交渉の末、彼らは無事に今夜の宿を得た。大人二人で話し合った結果、安全面を考慮し、三人まとめて部屋を取ることで合意した。少々手狭だが背に腹は変えられない。

 それと言うのも、念入りに宿を選んだつもりだったが、いざ割り当てられた部屋に入ってみると、窓枠が歪んでおり完全には木戸が閉まらない。防犯以前に、まずもって夜中に雨でも吹込んだら厄介だと思ったが、ユリア曰く、この地方では一年を通して殆ど雨が降らないとのことだった。

「何から何まで頼りきりで申し訳ない」

「いえいえ。私のほうこそ、背中の心配をしなくて良い旅がこんなにも快適だとは思いませんでした」

ようやく緊張が解け、二人は小声で言葉を交わした。シェールはと言えば、少し前に力尽き、今はベッドの端でスヤスヤと寝息を立てている。

「でも、明日からはガイドを雇ったほうが良いかもしれませんね」

 言いながら、ユリアは自ら持参した地図に視線を落とした。よく見ると、随所に手書きの書き込みがある。

「ガイドをですか?」

「この後の過ごし方にもよりますが、部族に接触を図るのでしたら、私の似非(えせ)東方語では心もとありません。片言以上のアステリカ語が話せて、この辺りの地理に詳しい方が望ましいですが、そううまくいくかどうか」

 ユリアの口から溜め息が漏れた。その間も目は忙しく動いている。びっしりと書き込まれた地図を見るに、彼女がここへ来るまで一体どれほどの時間を費やしたのか、うかがい知ることが出来た。

「すみません、ここまでしていただいて」

「いいえ。乗りかかった船とでも言いましょうか。調べ始めたらつい楽しくなってしまって。折角なら、シェールくんにお母さんが見ていた景色を見せてあげられたらと」

「お気持ちはありがたいですが、良いところで休んでください。疲れたでしょう」

 相変わらず地図にかじりついているユリアを見て、タリウスには彼女のこれまでの寝坊と遅刻の理由が改めてわかった気がした。

「意外とまだ元気です。タリウス、あなたが絶えず気を配ってくださったから」

「私は何も…」

「ひとり旅をしていたときは、その辺りのことは本当にもう散々でしたから。詳細はあえて省きますが」

「くれぐれも無茶だけはしないでください」

 想像するだけで心臓に悪い。改めて釘を刺すと、ユリアがクスリと笑った。

「本当に心配症なんですね」

「な…!」

「静かにしないと、シェールくんが起きてしまいますよ?」

 思わず声を上げそうになったところをシーッとユリアに制される。

「おやすみなさい」

 次の瞬間、ユリアは空いているベッドに滑り込むと、涼やかに言った。一方、残されたタリウスは溜め息と共に口の中でおやすみと呟いた。

 どこからどう見ても、いつものユリアである。そのことがかえってタリウスを混乱させた。