それから数週間後、紆余曲折あった後、彼らは出立の朝を迎えた。
「じゃあね、ぼっちゃん。くれぐれも気を付けて。お父さんの言うことをちゃんと聞くんだよ」
女将は朝食の片付けを一時中断して、玄関の外まで見送りに立ってくれた。
「わかった!」
「結局、ユリアちゃんは行かないのかい?」
女将がタリウスを仰ぎ見るが、即座に応答出来ない。
「急用が出来たんだって」
言葉に詰まる彼を横目に、シェールが小さく答えた。残念で堪らないと言わんばかりの息子の様子に、タリウスはチクリ胸に痛みをおぼえた。
「一度にみんないなくなっちまったら、私が淋しいんだけどさ」
「そっか。それもそうだね」
それでも女将を気遣う息子の健気さに、タリウスは一層居たたまれない気持ちになった。そんな気持ちを絶ちきるべく、彼は一礼して踵を返した。シェールもそれに続いた。
息子の念願が叶い、こうして二人で旅に出たというのに、タリウスの胸中は穏やかではなかった。隣を歩いているシェールは、思うところがあるのか、先程から終始無言である。否がおうにも意識が内へと向いた。
一体何故こんなことになってしまったのだろう。タリウスはここ数日のことにおもいを巡らせた。
今回の旅にユリアが同行したいと申し出た時、シェールは勿論、タリウスも手放しで喜んだ。博識で異国語にも精通している彼女がいれば、あらゆる場面で心強い。何よりも、彼女の同行そのものに価値があると思った。
ところが、その後すべてを台無しにするような出来事が起きたのだ。
「既に聞き及んでいるかも知れないが、ミスシンフォリスティは今期限りで職を辞すそうだ」
ゼイン=ミルズの言葉にタリウスは耳を疑った。だが、上官はこちらのことなどお構いなしに先を続けた。
「彼女には随分と無理も聞いてもらったことだし、仕事を世話してやれたらと思ったんだが、何が気にくわないのか断ってきてね。その辺りの事情を君は何か聞いているか」
「いいえ」
そもそも自分はユリアが士官学校を辞めることすら知らなかったのだ。
「妻の伝で、傍系の皇女様の教育係に推したそうだ。彼女は実力は勿論、身許もしっかりしている上に、立ち振舞いも何ら問題ない。無理強いするつもりはないが、釈然としなくてね」
「本人は何と言っているんですか」
「自信がない。ただその一点張りだ」
確かにその話だけを聞くと解せない。普段の彼女は、思慮深い反面、未知のことに対しては出たとこ勝負な一面がある。少なくともやってもみないうちに諦めたりするようなことは、これまでになかった。
何かある。直感的にそう思い、ついいらぬお節介を焼いてしまったのが運の尽き、この後彼は猛烈に後悔することになる。
「士官学校を辞められるそうですね」
「ええ、元々臨時雇の代用教員の筈が、居心地が良くてつい長居をしてしまいました。次が決まったら、お知らせしようと思っていたところです」
その口ぶりから、恐らくは未だ新しい働き口が見付かっていないのだとタリウスは理解した。
「ミルズ先生が仕事を紹介したいと仰っていましたが」
「奥方経由のものですよね。その件でしたら、既にお断りを」
「立ち入ったことを伺うようですが、何か問題が?」
「とんでもない。身に余る光栄ですが、私如きにはとても務まるとは思えません。ミゼットさんの紹介となれば尚更です。もしも不手際があれば、多大なるご迷惑をお掛けすることになり兼ねませんから」
見たところ単なる謙遜ではなく、そこには確固たる意志が働いているように感じられた。だが、そうだとしたら、彼女が先程からそわそわと気もそぞろな様子でいるのは何故だろうか。
「何を怖がっているんですか」
「怖がる?」
一瞬にして、ユリアの表情が強張るのがわかった。
「そうとしか見えません。事情は知りませんが、逃げ回っていても何も解決しないのでは?」
「知ったようなことを言わないでください。私は怖がってなどいませんし、逃げてもいません。もう私に構わないでください」
彼女はいよいよもって落ち着かない様子で声を荒げた。
「気を悪くされたのなら謝ります。失礼しました」
「ご心配いただなかくても、自分の食い扶持くらい自分で探します。そういうわけですから、残念ですが東方にはご一緒出来ません。貧乏暇なしですから!」
「待ってください」
「いいえ、待ちません」
ユリアは正に烈火のごとく怒り、一方的に喚き立てるとタリウスの視界から消えた。
これまでにも拗ねたり、甘えて我を通そうとするユリアを目にしたことはあるが、それでも本気で怒ったところは殆ど見たことがない。それ故、タリウスは目の前で起きたことを受け入れるまでにしばらく時間を要した。
結果として彼の直感は当たっていた。だが、それはおいそれと他人が触れて良いことではなかったのだ。タリウスは不用意な発言をした自分をひどく呪った。
その後、彼らは順調に歩みを進め、予定していた街で宿を取った。交通の要所であるこの街は、多くの人々で賑わってはいるものの、気候や文化は王都と大差なかった。
問題はここから先だ。明日の今頃は、上着を一枚脱ぎ捨て、聞き慣れない言葉に難儀しているかもしれない。自分ひとりならともかく、息子を連れている以上安易な選択は出来ない。タリウスは珍しく気弱になりながら、いつもと違う天井を見上げていた。すると、すぐ隣で人が動く気配がした。
「起きているのか」
「うん。なんか寝られなくて」
身体は疲れている筈なのに、と息子は不思議そうに呟いた。
「シェール、ここから先は俺にとっても未知の地だ。頼むから…」
「わかってるよ」
シェールは困ったような、半ば諦めたような声でタリウスの台詞を遮った。
「危ないことはしないし、迷子にもならない。でしょ?」
「わかっているなら良い」
どうやら無意識のうちに同じような忠告を繰り返してきたらしい。だが、シェールは特に気を悪くした素振りも見せず、ぽつりと呟いた。
「ありがとね、とうさん」
「何だ、改まって」
「忙しいのにこんなお願いきいてくれて。それから、宿題のことも」
「ここ最近、忙しさにかまけてお前には我慢ばかりさせていた。だから、たまには良いだろう。それに宿題に関しては、俺は何もしていない」
一番の功労者は、他ならぬユリア=シンフォリスティである。今回の旅にしても、彼女は計画段階から随所で采配を振るってくれた。思い出したらまた陰鬱な気持ちになった。
「おねえちゃんやミゼットにもいっぱい助けてもらったけど、でもとうさんがいなかったら宿題をやろうとすら思わなかったから、ちゃんと出来たのはとうさんのお陰だよ」
思ってもいなかった言葉に、靄のなかにうっすらと光が射した。
「何故お前はそんなに俺を好いてくれるんだ?」
「何でって、そんなこと考えたこともないけど。でも、とうさんと一緒にいると安心するし、何にも怖くない」
そして、続く台詞にハッとさせられる。泣こうが笑おうが、息子を守れるのは自分以外にない。これまでも、これからも。
「とうさんのことは時々怖いって思うけど」
「時々?」
「ううん、本当はしょっちゅう。でも、だからこそ何が起きても平気かなって」
シェールは少しも悪びれない。そんな息子を前に自然と口許が緩んだ。
「過度な期待をされても困るが、それにしたってお前のひとりくらいなんとかなるだろう」
漠然とそんな思いが心に満ちていった。
「シェール、明日も早い。もう寝よう」
「うん、おやすみなさい」
ほどなくして、彼らは眠りに落ちた。
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