今年も中央士官学校では、次期士官候補生の採用をめぐり、連日教官たちが多忙を極めていた。だが、今日になってようやくそれも一段落し、タリウスは久方ぶりに日のあるうちに退勤した。

 月末だったこともあり、諸々の用事を済ませた後で、彼は街の剣術道場に顔を出した。表向きは息子の月謝を支払うためだが、その実、息子への罪滅ぼしの意味合いのほうが大きい。このところ忙しさにかまけ、まるでかまってやれていない。

 ところがそんな思いに反し、道場に息子の姿はなかった。理由もなくシェールが稽古を休むとは考えられない。困惑するタリウスを息子の師が呼び止めた。思い詰めたような師の表情を見るにつけ、たちまち不安に苛まれた。

「貴殿には貴殿の教育方針がおありだとは思うが」

 師はしばらく逡巡した後、さも言いづらそうに口を開いた。

「シェールは学校をやめる決断を?」

「そんなことは全く考えていません」

「であれば、何故仕事を?シェールのことだ、どうにかこうにか踏ん張っているのかもしれんが、それにしたって朝に夕に働いたのでは…」

「待ってください。一体何の話ですか」

 話が少しも理解出来ない。どなたかとお間違えではないか、そう言おうとしたときだ。

「隠さずとも結構。シェールが新聞配りをしていることは皆が知っています」

 思ってもみなかった台詞に、タリウスは二の句が継げない。

「こんなことは言いたくないが、口さがない人たちが貴殿のことを何と言っているか…」

 その先の言葉はもはや聞くに耐えられなかった。顔から火が出るとは正にこのことだ。羞恥はやがて怒りとなり、もはや自分でもどうすることも出来なかった。

 気が付いたときには、タリウスは玄関の木戸をくぐっていた。どこをどう通って宿屋まで帰り着いたのか、それどころか一体どうやって道場から辞したのかすら定かではない。

「戻りました」

「おや、今日は早いね」

 普段通り女将に帰宅を告げることで、ほんの少しだけ平常心が戻って来る。

「あんたが忙しくしている間、ぼっちゃんには随分世話になったよ。本当にあの子は良い子だよ」

「そうでしょうか」

 息子のことを思い出しただけでも腸が煮え繰り返るようだった。憮然するタリウスに女将は苦笑いを返した。

「お冠だね。また何か厄介事かい?」

「本人に確認したわけではありませんが恐らくは」

「全くしょうがないね」

 女将はそう言って、ため息をひとつ吐いた。

「この前、あんたが夜勤の日に腰をやっちまってね。散々だったんだよ」

「それは大変でしたね。大丈夫でしたか」

「それが全然大丈夫じゃなくて、動けなくなっちまってさ。正直、私とユリアちゃんだけだったら詰んでたけど、ぼっちゃんが世話してくれて、おまけに診療所で薬までもらってきてくれたお陰で助かった」

「そうでしたか」

 当然のことながら、すべてが初耳である。

「ぼっちゃんはさ、あんたが見ていないところでそりゃあ良からぬこともしてるかもしれないけど、ちゃあんと良いこともしてるよ」

「いかんせん知らないことが多くて。お恥ずかしい話ですが」

「大丈夫だよ。あんたが育てたとおりに、ぼっちゃんは育ってるよ」

「それが良いんだか、悪いんだか」

 タリウスは自嘲気味に笑った。


  「とうさん?!」

 玄関を一歩入ったところで、シェールは息を飲んだ。まさかこんな時間に、それも自分より早く父が帰宅しているとは思わなかった。

「おかえり」

 父の声はあくまで冷静だったが、それでも全身から立ち上る異質な気配までは隠せない。まずい。直感的にそう思った。

「ただいま」

 反射的に返事を返しながら、シェールは父親の様子を窺った。そうして、静に怒りを押さえる父を見るにつけ、自分が不在の間に何が起こったのか、手に取るようにわかった。

「お前に聞きたいことがあって待っていた。無断で稽古を休み、新聞店で仕事を?」

「とうさん、話そうと思ったんだ」

「言い訳は聞きたくない」

 今朝ほどユリアに言われたとおり、今日こそ本当のことを打ち明けようと思っていた。だが、一歩遅かった。シェールは観念して頷いた。

「朝稽古に行っているというのも嘘か」

「はい」

「そうか、わかった」

 父はそれだけ言うと、くるりと方向を返え、二階へと続く階段を登り始めた。

「待って!」

 シェールは慌てて父の後を追った。出来ることならここから逃げ出したかったが、そんなことをすればどうなるか。とにかくこのままで良いわけがなかった。


 父の後を追い、部屋に入ったところで、それ以上の入室を阻まれた。

「ここから出ていけ」

「なんで?」

「お前も仕事を得たんだ。もう俺に養われなくても生きていけるだろう?」

「そんな、無理だよ。急にそんなこと…」

「知ったことか」

まるで取りつく島もない。こうなることはある程度予見していたが、まさか話すら聞いてもらえないとは思わなかった。頑なな父を前に、シェールの中にささやかな反抗心が芽生えた。

「ちょっと待ってよ。確かにとうさんに何も言わずに勝手に働いたりして、それはいけないと思うけど、ても!別に悪いことをしてたわけじゃない」

「ほう、お前は悪くないと?」

「だって…」

シェールかて良心が痛まなかったわけではない。だが、そうかと言って、一方的に責められるのは納得がいかなかった。

「そうか、みんな俺が悪いのだな。少なくとも世間はそう思っているようだ」

「どういうこと?」

「お前が勝手に仕事を始めてから、とうさんが何と言われているか知っているか」

「ううん」

 シェールは首を振った。その目が不安気に父を見た。

「いずれお前の耳にも入るだろうから、先に教えてやる。俺は貰い子をして、その貰い子を朝から晩まで、それこそ寝る間も与えず酷使しているそうだ。まるで鬼のような父親だな」

「待ってよ!そんなこと…そんなひどいこと言われてるなんて、全然知らなくて」

「知らなかったで済むか!」

 シェールが必死に弁解しようとするも、ピシャリと遮られてしまう。

「確かにお前の言うように、働くことは悪いことではないし、労働自体はむしろ尊い。働かなくては学べないことだってあるだろう。だが、それにしたってやり方がある筈だ。こんな働き方をしたら、学校にも支障を来す。実際問題、剣の稽古にも行けていないのだろう」

 父の言うことはすべて正論だ。それ故何一つ言い返すことが出来ない。

「シェール、お前が今一番やるべきことは何だ。働くことか」

「違う。勉強すること」

「それがわかっていてどうしてこんなことになった?そもそも何故お前は働こうと思ったんだ」

「それは、自分でお金が稼げたらって思って」

「お前には贅沢こそさせてやれないが、それでも金で苦労させるようなことはない思っていた。それは思い過ごしだったか」

「違う。そんなことない」

「だったら、何故だ!」

 このタイミングでこの話をするのは物凄く気が進まないが、怒れる父をやり過ごす術などない。

「ママのことを調べてるうちに、東方の街まで行ってみたいって思って」

「は?」

 何の脈絡もない話にタリウスは思わず聞き返した。

「それには結構お金がかかるって聞いて、とりあえず路銀を貯めるところから始めることにしたんだけど」

「そんなこと、一言俺に相談してくれれば良いだろう。そんなに俺は頼りにならないか」

「頼りにしてるよ!いつだって、誰よりも。でも、とうさんに頼ってばっかりじゃダメだと思って」

「何で?」

「だって、とうさんは僕のとうさんだけど、でも本当は…」

 シェールは今にも泣き出しそうである。

「本当は赤の他人だなんて言ったら、ひっぱたくぞ」

「とうさん」

 予期せぬ言葉にシェールが目を見張る。

「今更一体何の遠慮がいるんだ。だいたい、お前の妙な遠慮が生み出した結果がこれだぞ」

「ごめんなさい」

 謝罪の言葉と共にポロリと涙が頬を伝う。

「何のごめんなさいだ」

「いろいろあるけど、僕が考えなしだったせいで、自分のことしか考えてなかったせいで、とうさんにとんでもない恥をかかせた」

 一度決壊した涙腺はいかんともしがたく、涙が後から後から溢れてきた。

「本当に自分のことしか考えていなかったら、こうはなっていない筈だ。お前なりに俺のことも考えてくれたのだろう」

「そうだけど、でもそのせいでとうさんが」

「そのことはもう良い」

「良いわけないよね。とうさんは全然悪くないのに、本当はこんなに大事にしてもらってるのに」

「お前の不始末は俺の不始末だ。だから、本当にもう良い。口さがない人はどこにでもいるし、それに事実ではないんだ。いずれ誰も言わなくなる。お前も嫌なことを耳にするかもしれないが聞き流せ」

「別に僕はいいけど」

 本心では少しも良くはないが、それでも父の受けた屈辱に比べれば全然大したことではない。そう思うより他なかった。

「俺も別に良い。それよりもだ。お前はこれからどうするんだ」

「どうって?」

「仕事のことだ」

 シェールは頭の中でこれまでのことを整理した。

「仕事はやめる」

 そして、間髪いれずに答えた。それこそが諸悪の根元だと思ったからだ。

「やめる?」

 だが、その一言でたちまち父が不機嫌になった。

「お前は始めるときだけ一生懸命で、結局もう投げ出すのか。そんないい加減な気持ちだったのか。そちらのほうがよほど恥さらしだ」

「でも、とうさんが」

「俺は良いとも悪いとも言っていない」

 シェールはハッとした。

「僕、やっぱり仕事は続けたい。勉強はちゃんとするし、仕事に慣れたらまた稽古にも行くから。だから、お願いだよ。とうさん」

「何故、最初からそう言えない?」

 父の問いにすぐには答えることが出来ず、あれこれ思案していると、大きなため息が聞こえた。

「やるからにはやり通せ。但し朝だけだ。話は俺がつけてやる」

「ありがとう!あ、でも…」

父の返事にほっとする傍ら、シェールはとんでもないことを思い出した。

「今度は何だ」

「えーと」

 そして、このことは近い将来確実にばれる。

「洗いざらい話せ」

「んーと、さっき、悪いことはしてないって言ったんだけど、でも実はそうでもないこともあって」

「何だ」

「出来れば怒らないで聞いて欲しいんだけど、新聞屋のおじさんがうちのことをちょっと勘違いしてて、とうさんが行ったら驚くかも…」

「どういうことだ」

「えーと、その、だから、とうさんはい、いないことに…」

「ふざけるな!どこまで人を虚仮(こけ)にすれば気が済むんだ!」

「ごめんなさい!でも、僕が言った訳じゃ…」

「否定しなかったのなら同じことだ!」

 息子をどやしつけ、タリウスはまたひとつため息を吐いた。

「こんなとき、エレインならどうしたと思う?」

「ええ?!ママ?わかんない」

「お仕置きするに決まっているだろう」

「ウソ!そんなことしな…うーん、するかな?ああ、するかも」

 シェールは首をひねった。

「つべこべ言わずにこっちへ来い!」

 のんびりと母親に想いを馳せている少年がたまらなく愛おしく、また憎らしい。タリウスはそんな息子を捕らえ、すぐさま膝の上に組伏せた。

「ついて良い嘘とそうでない嘘があるだろう」

 言いながら、あっという間にお尻をむき、最初の一打を見舞った。

「ウソはみんなダメなんじゃ…痛っ!」

「屁理屈を言うな。本当に俺がいなくなったらどうするつもりだ。呑気に新聞なんぞ配っている場合か」

「呑気じゃないよ。結構大変なんだ」

「この減らず口が!」

「やだー!」

 思わず叩く手に力を込めるとシェールは体を仰け反らせて痛がった。だが、そんなことは気にも止めず、タリウスはビシャビシャとなおもお尻を叩いた。

「ごめんなさい!ああ、もう降参する!」

「お前と勝負をしているわけではない!何が降参だ。少しは反省しろ」

「ごめんなさい!ごめんなさい!!」

 シェールは手足をバタつかせ懸命に抵抗するが、対するタリウスも逃すものかとばかり、がっしりとその体を押さえ付けた。

「全くこうもお前に舐められているとは思わなかった。お前には親を敬う心はないのか」

「あるよ、ちゃんとある。ごめんなさい、とうさん」

 力なく呟く息子を見て、もはやすべてがどうでも良くなった。つい小一時間前、あれほどまでに怒り狂っていたことが嘘のようである。最終的にこうなることを息子も織り込み済みだったのだろうか。

「その言葉、忘れるなよ」

「はい」

 だが、ほうほうの体で膝から下りた少年はあまりに無垢で、思い過ごしだったと思わざるを得ない。

「よし、もう良い」

 いずれにせよ、愛し子のためにもう一仕事しなくてはならない。様々な感情の入り交じったため息が口から漏れた。