それから更に数日後、シェールは浮かない顔で隣人の部屋を訪れた。
「あのね、おねえちゃん。この前のチラシ、まだ持ってる?」
「この前のチラシって求人広告のこと?それならまだあるわ」
「もう一回見せてもらっても良い?」
「勿論良いわよ」
ユリアは棚の上にまとめてあった新聞の束から、先日のチラシを抜き出した。
「それで、お父さんは何て?」
「それがあれから全然話せてくて、まだ聞けてないんだ」
「そう。最近、忙しそうだものね」
「夜は遅くて会えないし、朝もバタバタして話せる雰囲気じゃないんだ」
シェールは特大の溜め息を吐いた。今時季の父は物理的な忙しさに加え、とにかくピリピリしていて、迂闊に近付くと痛い目に遭いかねない。
「それに、一生懸命説得してもし許してもらったとして、肝心な仕事がもう別の人に決まっちゃってたらと思ったら、なんか言えなくなっちゃって」
父にこの話をするにはそれなりの覚悟が要る。要求が通っても通らなくても、その努力が徒労に終わるのだけは避けたい。考えるほどに身動きが取れなくなった。
「そんな顔をしないで」
シェールがすっかりしょぼくれていると、頭上からやさしい声が聞こえてきた。
「それなら、先方がまだ働き手を探しているかどうか、聞いて来てあげましょうか」
「本当に?」
「ええ、これからお買い物に行くから、もののついでに新聞屋さんに寄ってくるわ」
「いいの?ありがとう!」
シェールは嬉しくなって、満面の笑みを浮かべた。
「ねえ、おねえちゃん。僕も一緒に行って良いかな」
「ええ、良いわよ」
そんなシェールに応えるように、ユリアもまたとびきりの笑顔を見せた。
一通り買い物が済んだところで、シェールはおっかなびっくり新聞店を訪ねた。
「働き手を探しているかって?何だってまたそんなことを…」
店主は丁度店を閉めようとしていたところらしく、突然の訪問者に些か面倒そうに応じた。
「まさかおねえさん、新聞配達やろうっての?」
「いいえ、私ではなくて」
「僕です」
「坊主が?」
男はシェールに視線を向けると、上から下まで無遠慮に眺めた。
「新聞もまとまりゃ結構重いし、朝だって早い。坊主に出来るのか」
「毎日朝稽古をしているので、早起きには慣れています」
「朝稽古?」
「剣術道場に行っていて、朝は自主練をしています」
「ふうん、ならそこそこスタミナはありそうだな」
男は顎の辺りを擦りながら、ブツブツと一人言を言った。
「あと、走るのも好きです」
「字は?表札は読めるか」
「読めます」
「そうか。なら、とりあえず試しに雇ってやってもいいぞ」
「本当ですか?」
「ま、待ってください」
予期せぬ展開にシェールが感嘆の声を上げるも、ユリアが慌てて店主を制した。
「ああ、保護者の承諾を取らないとだな。あんたは母親じゃないよな」
「違います」
「そうだよな、いくらなんでも若すぎだ。坊主、お母さんは?」
「えっと、ママは亡くなっていて…」
「そうか、そりゃ悪いこと聞いたな。堪忍な。えーとそれじゃあ、パパは?」
「パパは、えっと、その…」
自分にとってパパとは亡き実父のことだが、今問われているのは恐らくそちらではない。毎度のことながら父親が二人いると紛らわしい、などと考えていると、男が突然世話しなく手を振った。
「ああ、もう良いって良いって」
「へ?」
店主の言っている意味がわからず、シェールは固まった。
「もう何も言わなくて良いから。そうか、坊主は苦労してるんだな」
「いや、でも今は…」
「自分の食い扶持を自分で稼ごうだなんて、今時見上げた根性だ。よし、決まり。採用だ。明日から来い」
「え?本当に?ありがとうございます」
店主が何やら勘違いをしていることは明白だったが、そうかと言ってこのチャンスをものにしない理由にはならない。
「シェールくん、そんなひとりで…」
「ところで、坊主。どこに住んでいるんだ?この近くか」
ユリアが先程よりも更に慌てた様子で声を上げるも、店主の声にすぐさま遮られてしまう。シェールはユリアに申し訳ないとは思いつつ、ひとまず自分たちの住まいを伝えた。
「ここからすぐだな。あんたは?」
「私も同じところに」
「何だ、一緒に住んでるのか。それなら何の問題も題ない」
「いえ、ですが…」
「お願い、おねえちゃん。とうさんには後でちゃんと話すから」
ここで本当のことを話をしたら、折角まとまり掛けた話が台無しになってしまうかもしれない。シェールは必死に懇願した。
「何ごちゃごちゃ言ってるんだ。俺は明日早いからもう帰る。詳しい話は明日だ」
言うだけ言うと、店主はじゃあなと言って店を後にした。
「そんな、自分の名前も名乗らないなんて」
「そういえば、僕もまだ名乗ってないや」
残されたふたりは呆然としてその場に立ち尽くした。
「もう、シェールくん。話が違うじゃない」
宿への帰り道、二人はいつ終わるともしれない押し問答を延々繰り広げていた。
「だって、こんなにうまくいくなんて思ってなくて、もったいなかったんだもん」
「いいこと、シェールくん。今日のうちに必ずタリウスに話して。もし、シェールくんが寝た後なら、私が…」
「無理だよ」
皆まで聞かずにシェールが首を振った。
「とうさん今日当直だもん」
「え?そうなの?!」
ユリアが絶叫した。
「そ、それなら、これから兵舎まで説明しに行ってくるわ」
「やめてよ。ただでさえ忙しいときにそんなことしたら、絶対めちゃくちゃ怒られる」
一転して、今度はシェールが焦る番だ。
「このまま勝手なことをするよりは良いわ。それに、私が行く分には大丈夫よ、きっと」
「で、でも、それだとおねえちゃんまで怒られるかもしれないし…」
宿屋の玄関を入ってもなお、話し合いは平行線を辿った。
「ぼっちゃーん!ぼっちゃん!」
すると、遠くから女将の呼ぶ声がした。
「おばちゃん?どうしたの?!」
「ちょっと来とくれ!」
「女将さんの部屋からだわ」
いくら気心が知れているとはいえ、普段の女将ならば、こんなふうに自分を呼びつけるようなことはまずしない。どうにも様子がおかしかった。
「おばちゃん!」
「女将さん!」
慌てて女将の居室に向かうと、彼女は扉の前に両手を付いてうずくまっていた。身体は震え、額には玉の汗である。
「どうしたの?お腹痛いの?」
「いや、腰が痛くてね。動けないんだよ」
「ええ?!」
「本当にもう情けなくていやんなるよ」
女将は今にも泣き出さんばかりである。
「ベッドまで歩けますか」
ユリアが女将に肩を貸そうと、隣に屈んだ。
「無理だよ、ユリアちゃんひとりじゃ」
女将の言葉通り、ユリアでは女将の身体を支え切れず立ち上がることもままならない。
「僕も手伝う」
言うや否やシェールは反対側に回り、女将の腕を持ち上げた。
「せーの!」
そうして、掛け声と共にふたり同時に立ち上がり、そのままそろそろと引きずるようにして、ベッドまで送り届けた。
「待ってて、おばちゃん。今お医者さん呼んでくるから」
「悪いね、ぼっちゃん。そうしてくれるかい」
「いいよ、おばちゃんはゆっくり寝てて」
シェールはもう女将のことが心配でいても立ってもいられなかった。ここへ移り住んでからというもの、こんなことは初めてだった。
「ああ、ぼっちゃん。外に行くついでに表の看板、引っ込めておくれ」
「看板?」
「今日はもう台所に立てないから、お客さんが来たら困るだろう。夕飯は下ごしらえまではしてあるから、悪いけど二人で適当にやっておくれ。余ったら、明日の朝でも、ぼっちゃんのお弁当でも…」
「わかった!」
シェールは駆け出した。まず女将に言われたとおり店の前の看板を下げ、それから街の診療所へ全速力で向かった。
「先生!先生!いますか」
そうして荒い息のまま、診療所の扉を叩いた。
「シェールか、どうした?」
ややあって、顔馴染みの医者が玄関の扉を開けた。
「おばちゃんが腰を痛めて動けないんですけど、診てもらえませんか」
「そりゃ大変だ。だが、今儂も手一杯でな、とりあえず薬を出すから持っていってくれるか」
待ってろ、と医者は慌ただしく奥へと消えていった。
「とにかくこれを貼って安静にしてることだ。いいか、絶対無理に動かしちゃだめだ。揉んだりもしないように」
「わかりました」
シェールは医師に礼を言い、すぐさま宿へ取って返した。それからユリアと二人女将の世話を焼き、食事の準備をし、床に付く頃には夜もすっかり更けていた。
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